私のイギリス体験記(1)
1.プロローグ―ホームステイ先の人々
私のイギリスとの付き合いは、学生時代からイギリス文学を専攻してきたのだから、かれこれ50年になろうか。しかし、実際にイギリスの地に足を付けた体験としては20年あまりの付き合いである。その後、学生の研修旅行引率を含め、ほぼ毎年イギリスを訪れた。目的は自分の研究テーマであるイギリス文学、とりわけD・H・ロレンスやC・ディケンズの資料調査、イギリス文化論のテーマ別調査であるが、もちろん文化的好奇心を刺激されての観光旅行でもあった。
その数ある体験のうち、一番長期にわたり濃密であった体験は1998年から99年の一年間のサバティカル(大学から与えられる長期在外研究)の経験である。その時に所属した研究機関は、前期がロンドン大学、後期がケンブリッジ大学であったが、滞在したのは知人から紹介されたロンドンの北部・ハイゲートの中産階級の家庭である。このホームステイ先は、その後、10年以上毎年夏の数週間の滞在先となっている。したがって、「私のイギリス体験記」は、このステイ先の家庭の内側から見た「イギリス像」ということになろうか。ともかく、このエッセイでは、さまざまな角度からみた「生のイギリス」について、思いつくままに書いていきたい。(文中の固有名詞は仮名)
1998年春、ヒースロー空港から開通したばかりのファストレイン(ヒースロー・エックスプレス)に乗り、ロンドンの西の玄関パディングトンに着いた。「フィフティン・フィフティン(15分間隔・所要時間15分)」と宣伝しているだけあって、地下鉄よりチョット交通費が高目だが便利になったものだ。そこからロンドンのタクシー「黒キャブ」に揺られ、20分ほどでロンドン北部の住宅地ハイゲートに到着したのは夕方であった。春先のことで、だいぶ日が長くなっていた。
出迎えてくれたのは、ステイ先の長男でデヴィッドである。主人夫妻は、外出中とのことで、早速私の部屋に通された。部屋は1階で8畳ぐらい、備え付けの机、本箱、クロゼット、ベッド、トイレ、洗面台がある。こじんまりした可愛らしい部屋だ。小さな裏庭に面しており、水仙とチューリップが満開である。この部屋が、一年間の私の根拠地となった。(写真①)

(写真①)ロンドン北部ハイゲートのホームステイ先
夕食のメインディッシュは、ラム・ステーキであった。奥さんの得意にしているグレビーが柔らかいラム肉を引き立て、すこぶるおいしかった。主人夫妻も帰宅して、賑やかに歓迎してくれた。夫婦とも気さくな好人物である。主人のジョージは有名パブリック・スクールのウエストミンスター校からケンブリッジ大の英文科を卒業したエリートで、卒論はディケンズを書いたという。卒業後は、シティーで住宅関係のビジネスマンとして働き、前年リタイヤーしたとの自己紹介があった。奥さんのスージーは陽気なアメリカ人で社会福祉関係の女子大を出たあと渡英し、ジョージと知り合い結婚した。数々のボランティア活動に従事しており、非国教派教会の筆頭長老をつとめるグローバルな価値観をもったインテリ夫人である。のちに具体的に述べるが、この家庭にモームステイできたことは、イギリス文化をインテリ家庭の内側から見る上で、私のイギリス文化理解にどれだけ役立ったか、感謝しても仕切れない想いである。(写真②)

(写真②)ホームステイ先のリビング
子どもは三人おり、当時はみんな20歳台で大学卒である。長男のデイヴィッドは大学で芸術学を専攻し、音楽評論家を志していたがアルバイトに忙しそうで、彼だけが両親と同居している。弟のリックはオックスフォード大学卒の秀才でで、BBCで番組制作に携わっていた。アメリカやスペインへの取材のための出張も多く、独立して生計を立てており、週末だけ帰宅していた。末っ子の娘マリーは、ロンドン大学のキングズ・カッレジで古典文学を専攻したのち、国際援助協力隊のボランティアに応募して、東欧のクロアチアに行き、幼児教育に従事していた。そのほか、ドロシーとザッキーという可愛い猫を二匹飼っている。語学研修にくる外国人が、入れ替わり立ち替わり数週間下宿することがあり、賑やかな家族であった。
下宿代は約束通り二食付きで週百ポンドなので安堵した。月になおすと四百~五百ポンド(当時のレートで約9~11万円)である。この近くのフラットの部屋代にくらべ格安だ。イギリスに長期滞在できるのは千載一遇のチャンスである。同僚から「ゆっくり骨休めしておいで」と送られたのだが、せっかくの機会だから自分の専門領域の幅を広げたいと、内心に野心を秘めての渡英であった。このときの体験をもとにその後のイギリス訪問の体験も含め、内側から見たイギリス中産階級の人々の印象、ハイゲート界隈の住宅街の様子、さらに数々のイギリス体験を文化論的な視点からまとめてみたいと考えている。
2.ハイゲート界隈―東京でいえば武蔵野か
時差ぼけのせいで、初日は午前3時(日本時間、午前11時)に目が覚めてしまった。モア・トークというテレカで日本に電話すると、東京まで1分25ペンス(約60円)である。家族に無事到着を知らせた。その後、1分10ペンス近い格安テレカがあることを知った。何しろ規制緩和で10種類以上のテレカが出ているのには驚いた。現在では、日本の携帯電話で国際ローミングをセットすると、携帯メールが可能なので、この方が安い。
ハイゲートはロンドンの北部郊外の丘陵地ハムステッド・ヒースの北東に位置する閑静な住宅街である。地下鉄だとノーザン・ラインのゾーン3の最初の駅で、東京でいうと武蔵野といったところだろうか。ゾーン2の北端のアーチウエイから上り坂になる。登り切った丘陵の頂上がハイゲートである。近くに昔の関所のようなゲートが今も残されている。
(写真③)

(写真③)アーチウエイ・ブリッジからシティー方面を眺める。
ホームステイ先はその丘陵の谷間にあり、ちょっと小さい目のセミ・デタッチド・ハウス(2軒長屋)である。アティック部屋を入れると3階建てで地下にセラーがあり、日本流にいうと8LDKの比較的ゆったりした家屋である。
朝食はシリアル、トーストと洋梨でシンプルに済ませた。冷蔵庫に入っている食べ物は何でも好き好きで食べていいとのことであった。昼すぎにホルボーンの警察に行き、外国人登録を済ませた。現在は必要なくなったが、当時はアカデミック・ビザでも滞在許可証の申請をしなくてはならなかった。外国からの移住者が約30人並び小一時間かかった。多彩な人種が居て、さすがにロンドンだ。アカデミック・ビザを持っている私たちは、簡単に在留許可が出たが、アフリカやアジアからの移住者は延々と尋問を受けており、この国の不法就労に対するガードの厳しさを垣間見た。
カフェでサンドウィッチの昼食をとり、早速、ロンドン大学のSOAS(アジア・アフリカ研究学部)に出向き留学の挨拶をして、図書館メンバー・チケットの交付を受けた。銀行か郵便局の通帳の作り方や地下鉄のパスのシステムを調べて一日が終った。時差ぼけのせいでやたらと眠い。夕食はサーモンステーキ。主人夫妻は、イースターの教会での合唱コンサートの練習に出かけて留守であった。
インターネットを接続するため、プロバイダーのビッグローブのローミング・サービスの電話番号を調べた。家主の好意で、電話回線を室内に引き込んでくれることになった。ほどなく、日本から持参したノート・パソコンをセットアップして、Eメール開設ができ、日本の友人、知人ともコンタクトがとれた。これは、精神衛生上もすこぶる快適であった。
朝夕、決まって近所に散歩に出た。近くのウオーターロウ・パークまで1キロほど足を延ばすのが、お気に入りのコースになった。この公園はそんなに広くはないが、春先は桜や水仙、木蓮などの花々が咲き誇り、花壇には次々と季節の花が植えかえられ、緑鮮やかな芝生とコントラストが美しい。ロンドンの桜は時間をかけてゆっくりと咲くらしく、八分咲きから満開となり葉桜になるまで1ヶ月もかかる。保育園児が親たちとピクニックに来たり、犬の散歩にやってきた老人たちが愛犬に指示を与えたりして賑やかだ。(写真④)

(写真④)朝の静かなウオーターロウ・パーク
眼下の遙か遠くに、セントポール寺院をはじめ、シティーの高層ビル街やロンドン市街が一望でき絶景である。私は朝の静寂が好きである。午後のひとときは、園内のお茶ができるローダーデル・ハウスでくつろぐのもいい。すぐ南に隣接するハイゲート墓地には、マルクスやディケンズの両親、作家のジョージ・エリオットが眠っている。
散歩に出ると、このあたりの住宅の様式が気になる。ディタッチド・ハウス(一軒家)、セミ・デタッチド・ハウス(二軒長屋)、テラスハウス(集合住宅)、フラット(日本流に言えばマンション)などイギリス・スタイルの家が多い。日本のように雑然としたバラバラな建て方ではなく、イギリスの街には一つのコンセプトをもつ落ち着いた雰囲気がある。イギリス人の住宅に対するこだわりは、非常に強い。地方自治体に「町並み条例」があり、家屋の外観や色彩を規制しているのである。ハイゲートの住宅街は、建築後百年もたつ家並もあり、典型的な中産階級の人々が住む住宅街で落ち着いている。駐車場は必要なく、住民は駐車許可のステッカーを貼り、一方通行の両側に整然と路上駐車している。(写真⑤)

(写真⑤)ステイ先の近所の家並み
しかし、近年は多少ごみごみしてきたのか、やたらと「売り家」とか「貸家」の看板が目に付く。これはここの住宅を売却して、さらに高級住宅地に引っ越す人と、イーストエンドや下町の公営住宅から移住してくる成功者との代替わりがあるからで、経済の活況の反映でもある。
3.ハイゲート・ハイ・ストリート―パブのある散歩道
主人のジョージは、心優しく気配りをしてくれた。週末になると決まって予定があるか訊ねられた。他にアポがない場合には、どこか私の興味を惹きそうな場所を案内してくれた。それも、観光客があまり行かない、地元の人々の楽しみの場所を選んで連れていってくれた。たとえば、5月の晴れた日曜日に、カムデン・ロックの若者に人気のマーケットから、リジェンツ・パークとロンドン動物園の裏を流れる運河沿いのリトル・ベニスまでの3マイル(約5キロ)の散策に誘われた。このコースは、運河クルーズの定期便も運行されており、後に私も何回かお客さんを案内したが、初回はジョージの運河の歴史ガイド付きのウオーキングを楽しんだ。その説明の一つひとつにロンドンを愛する地元民の文化の香りを感じた。そして、決まって最後はパブに寄ることになる。カムデン・タウンでは、ディケンズゆかりのワールド・エンドであったり、リトル・ベニスでは料理がおいしいアバディーン・プレイスのクロッカーズ・フォリーであったりする。
ロンドンで「パブ通」になれたのは、一家の主人ジョージに感謝しなくてはならない。彼は何かにつけ私をパブに誘ってくれるのである。だから、彼は私の「パブ学」の師匠である。シティー界隈、テムズ川南岸のロンドン・ブリッジ界隈、テムズ川両岸下流からタワー・ブリッジ界隈、イーストエンドからクラークンウエル界隈、ソホーからコベント・ガーデン界隈、大英博物館周辺、ウエスト・ミンスター寺院周辺、テムズ川上流のリッチモンド界隈など『有名パブ年鑑』に収録されている「名物パブ」を軒並みに「パブ・ツアー」した。しかも、そのツアーにはゆかりの文学や文化的逸話の案内がセットになっていた。しかし、「ロンドン・パブ・ツアー」については稿を改めて書きたい。
地元パブには、地下鉄ノーザン・ラインのハイゲート駅近くにノース・ウッドやウインチェスターがある。(写真⑥)特にパブ・ウインチェスターには、ちょうどサッカーのワールドカップの年だったので、イングランドの応援によく通った。試合が始まると夜のパブのフロワーは立すいの余地もなくなるほどの混雑振りである。味方のチャンスともなると大歓声が怒涛のように湧き上がる。わたしはといえば、ほとんどイングランド人になりすまして怒号に唱和しているのであった。しかし、寂しいのは日本戦の時である。ロンドン時間の昼間ということもあってか、実況放送がオンエアされていても、お客はまばらであった。ある種の疎外感をもったが、これは仕方のないことである。

(写真⑥)地元の馴染みのパブ、ウインチェスター
ウインチェスターはいわゆる「ターバン」であり、宿泊施設も併設している。ロンドンの中心部への入口というロケーションのため、充実したベッドルームのパンフレットが置いてあった。しかも、格安である。主人のジョージとは毎年訪英する度に、このパブに通った。お蔭でマスターとも友だちになった。ジョージはフランス、ドイツ、スイスなどから語学研修にやってきた知識人や学生をここに招待し、政治、経済、国際関係などの時事放談をさかなに口角泡をとばす論議に熱中した。さまざまな地元情報を得たのも、このパブでのコミュニケーションからであった。
ハイゲート駅から西に15分ほど歩くと、ハイゲート・ハイ・ストリートに出る。この界隈は由緒ある通りである。ロンドン司教の領地で16世紀頃から別荘が建ち、今でもハイゲート・ヴィレッジは高級住宅地として知られている。
このハイゲート・ハイ・ストリートを上り詰めたところにパブ・ゲートハウスがある。(写真⑦)かつてのロンドン司教の庭園のゲートハウス跡地に建てられたことから、この名がパブについた。このパブは中が広く、ゆったりとしている。家族づれで食事もできる。午後2時になると、二人分のディッシュが一人前の値段というサービスもあり、若い訪問客があるとよく利用した。

(写真⑦)ハイゲート・ハイストリートのゲートハウス
パブの通りを隔てた東側のハイゲート・ハイスクールは、名門のパブリック・スクールである。ミュージカル『キャッツ』の原作者でノーベル賞詩人T・S・エリオットは、ここで教師をしていたことがある。エリオットは先祖がイギリス南西部出身のアメリカ人であったが、イギリスに戻り帰化した。わたしは大学の卒論のテーマがT・S・エリオットであったので、何だか青春の故郷に戻ったような気がした。
ハイゲート・ハイ・ストリートを南に下るとこじんまりしたプリンス・オブ・ウエイルズというパブがある。私はこのパブがお気に入りで、よく通った。表はハイ・ストリートに面しているが、裏口から出るとポンド・スクエアという地名のちょっとした広場に出る。落ち着いた雰囲気があり、ラム・ステーキの鉄板焼きが3.99ポンドという安さだ。ビターを飲みながらの昼食で、贅沢気分を味わった経験は忘れられない。
ここから、ハイゲート・ウエスト・ヒルを西に二百メートルほど行くと、左にフラスクがある。このパブは「名物パブ賞」をとったことがあり、そのことが青いプラークに表示されている。昼食どきには、散策を楽しむ地元の人々やハイカーで賑わいをみせている。クリスマス・イブには深夜11時の閉店時間を過ぎても、立すいの余地のないほど若者がごった返していた。(写真⑧)同じ名前のパブが地下鉄ハムステッド駅近くにあり、このパブも悪くないが、雰囲気はハイゲートのフラスクの方が一段上のような気がする。

(写真⑧)「名物パブ賞」をとったフラスク
フラスクの向側のザ・グローブ3番地には、19世紀ロマン派詩人コールリッジが晩年住んでいた。プラークにそれが記してあり、没後、目と鼻の先のセント・マイケルズ教会に埋葬された。この教会の塔は、高台にあるので目立つ。遠くハムステッド・ヒースからも遠望できて道しるべとなっている。また、この教会のすぐ東の屋敷には、以前歌手のスティングが住んでいたことがある。さらに、哲学者フランシス・ベーコンゆかりのベーコン・レインも近い。また、さらに南に下るとハイゲイト・セメトリへと続く。この墓地には、カール・マルクス、ジョージ・エリオット、チャールズ・ディケンズの両親が眠っている。
4.ハムステッド・ヒースのパブめぐりウオーキング
ハイゲート・ヴィッレジを西に突っ切ると、最高級のデタッチッド住宅が連なる落ち着いたお屋敷に出る。その先の家庭菜園のなかをとおり過ぎると、広大なハムステッド・ヒースの森林公園である。ジョージとは、たびたびハイゲートからハイゲート・ヴィレッジを横切り、ハムステッド・ヒースの森林を往復する8マイル(13キロ)のウオーキングに出かけた。
ハムステッド・ヒースへのウオーキングは、いくつものコースがあるが、よく行ったのはレディース・ポンドやストック・ポンドの湖畔を通って公園の北側を辿るコースである。その北の端にはイングリッシュ・へリテージ管轄のケンウッド・ハウスがある。18世紀の貴族の別邸で、レンブランドなどの絵画のコレクションが有名で落ち着いた雰囲気である。南側のパークの斜面の下からの眺めは最高で、夏の週末にはコンサートで賑わう。
さらに、一旦森林から離れ、公園の外周沿い一般道ハムステッド・レインに出て南下すると、パブのスパニアーズ・インがある。当然、この田園風のパブに立ち寄ることになる。(写真⑨)スパニアード・インは昔の旅籠で、17世紀のスペイン大使邸の跡だそうだ。ロンドン主教領荘園の入り口だったので通行料を徴収した関所跡に隣接している。道は一箇所だけ一車線しか通行できない狭さになっている。

(写真⑨)関所跡に隣接するスパニアーズ・イン
その先の一般道はスパニアード・ロードである。ちょうどハムステッド・ヒースを南北に横切る一般道である。南下すると1キロほどで有名パブのジャック・ストローズ・カースルに行けるのであるが、それは後回しにしてハムステッド・ヒースの北西に森林に入ると面白い。この広大な森林公園の歴史が刻まれているからである。
森林地帯に戻ると、やたらに道がデコボコしており時折直径10~30メートルの大きな穴が掘られたような跡がある。(写真⑩)ジョージはこの穴が何か分かるかと訊ねてくる。わたしは当然分からない。
ロンドンの公園はハイド・パークにしろ、リジェンツ・パークにしろ、リッチモンド・パークにしろ、全て王室の領地であった。しかし、ハムステッド・ヒースは荘園領と農場のなかに大邸宅が点在する民間の田園地帯であった。標高135メートル、広さは323.8ヘクタールもある。しかも都心に近い。ここに19世紀に宅地造成の話が持ち上がった。これに抵抗した地元の人々が森林に大きな穴を掘って宅地造成を妨害し反対運動を行なった。1872年に議会は「ハムヅテッド・ヒースを永続的に公共利用する法律」を制定した。今日でいう自然環境保護運動の先駆的な形態である。そのお蔭で私たちはハムステッド・ヒースのロング・ウォークが楽しめるのである。

(写真⑩)大きな穴が掘られた跡の小道が続くハムステッド・ヒース北西部
このデコボコの小道を数百メートル行くとノース・エンド・ロードに出る。さらに西にはヒル・パブリック・ガーデンが広がっている。そこの角に17世紀の農家の跡地に18世紀にできたパブがある。常連にホーガースやコンスタンブルなどの画家が集まったブル・アンド・ブッシュである。パブのなかの伝統的雰囲気がよい。
この近辺はディケンスゆかりの場所が多い。ノース・エンド・ロードを南に地下鉄ハムステッド駅方向にしばらく進んで左の小路を左に折れると、オールド・ワィルド農園がある。(写真⑪)散策中に、ここの主人に確かめたのでが、この住宅はかつてウイリアム・ブレイクが滞在したこともあり、またディケンズとのゆかりが深い。ディケンズの新婚時代、ロンドンの中心街のダウティ・ストリート48番地(現在はディケンズ・ハウス博物館)に住んでいた。ある夜、妻のキャサリンの妹、つまりディケンズの義妹のメアリ・フォーガスが16歳で急死した。ディケンズは悲しみのあまり、当時連載中の『オリヴァー・トゥイスト』を一月分休刊しがほどであった。その悲しみを癒すために夫婦で滞在したのが、19世紀当時コリンズ農園という名で知られたオールド・ワィルド農園だそうである。

(写真⑪)ディケンズ夫妻が義妹の急死のショックを癒すために滞在したオールド・ワィルド農園
ノース・エンド・ロードをさらに南へ進むと、先ほどのスパニアード・ロードに戻りつく。その交差点あたりが周辺で標高が一番高い。ディケンズは市内からこの辺まで馬に乗って出かけてきたが、そこに彼のゆかりのジャック・ストローズ・カースルである。昔の乗合馬車の宿駅だった建物を修復したパブである。近辺には馬の水飲み場などが残されている。店内には、ディケンズゆかりの写真や手紙が展示してあり、二階からロンドン市街が見渡せた。しかし、数年前に閉店となり、今は不動産関係の事務所になっている。実に寂しい想いである。(写真⑫)

(写真⑫)ディケンズゆかりのジャック・ストローズ・カースル。今は閉店している。
この先はヘルス・ストリートと一般道の名が変るのだが、その通りをハムステッド・ヴィレッジ方向に左の折れると、ヴェールズ・オブ・ヘルスに出る。ここはハイゲイトからはケンウッド・レディース・ポンドの横をとおりハムステッド・ヒースのほぼ中央を横切って歩くウオーキングの時もよく立ち寄った。
ヴェールズ・オブ・ヘルスは文字通り「健康の谷」である。17世紀に鉱泉が沸いていたこのヒースの丘陵地帯に住む人々がコレラの流行から免れたことから、ここの鉱泉を飲用することが健康に良いと考えられたのである。19世紀から20世紀にかけてタゴールはじめ多くの文人も住んでいた。作家D・H・ロレンスも新婚時代にヴェール・オブ・ヘルスのバイロン・ヴィラに住んでいたし、1926年に最後にイギリス訪問した折りの最終宿はウイロビー・ロード30番地に現存している。
再びヘルス・ストリートに戻り、裏道を南に下ると、ナショナル・トラスト所有のフェントン・ハウスがある。ここには17世紀のハープシコードなどの有名な楽器コレクションが展示してあり、庭園が美しい。地下鉄ハムステッド駅に戻る路地に入ると、近くに古めかしいが気さくなパブがある。ホリイ・ブッシュである。(写真⑬)ここで、締めの一杯で乾杯しということになる。

(写真⑬)地下鉄ハムステッド駅近くの古めかしいパブ、ホリイ・ブッシュ
ハムステッドは文学ゆかりの名所が多い。前述のディケンズやロレンスの他にも、ロマン派の詩人キーツが住んでいた。キーツ・グローブには、詩人が「ナイチンゲールに寄せるオード」を書いたと言われるキーツ・ハウスが公開されている。その他にゴ-ルズワージー、マンスフィールド、オーウェルなどが住んでいた家もある。
ジョージはハムステッド・ヒースへのパブ・ツアーの帰路、決まって「バスで帰る?」、「地下鉄で帰る?」、「ウオーキングにする?」と尋ねてくる。私も決まって「もちろん、ウォーキングだよ」と応えると、彼はニッコリとするのである。そして、ハムステッド・ヒースの南のパーラメント・ヒルを越えて、ハイゲートへと戻るのであった。
5. ロンドンの中産階級の家庭
「サバティカル」で滞在中、フラットなどを借りずにホームステイにしたのは、イギリス人のインサイダー情報が容易に得られると考えたからであるが、ステイ先に中産階級の家庭を選んだのは、イギリス人の階級意識は何によって決まるかを知りたかったからでもある。
イギリスには厳しい階級制度があるといわれる。確かに、一部の貴族階級は健在だし、アッパー・ミドルには、とてつもない資産家がいる。しかし、日本と同じように、中産階級意識をもつ国民がかなり多数でないかという気がするのである。つまり、20世紀になってから、階級制度が崩れつつあると思うのだが、どれぐらい階級意識が曖昧になっているかを知りたかったのだ。
映画『タイタニック』を見たあと、私はジョージに感想として「この映画はイギリスの階級制度を典型的に反映している」と述べたことがあった。豪華客船の船室の格差と沈没時の脱出の順序にそれを感じたからである。そのとき、ジョージは顔を真っ赤にして、「そういうステレオタイプのイギリス階級理解が困るのだ」と大声を出した。「タイタニック号の事故は1912年だよ。それにあの映画はアメリカ映画だから、ああいう描き方をするのだ」という。一瞬私はたじろいだが、納得した。
彼の主張はこうだ。一部の特権階級は確かにいるし、ブルー・カラーには貧困層もいるが、大半のイギリス人は中流意識をもっている。それは階級制度による固定した差別というより、職能別、階層別の格差である。社会的競争が公平であるかどうかが肝要であり、これを差別というなら、日本の学歴によるキャリアとノン・キャリアの賃金格差は階級差別ということにならないか。それなのに、日本人の9割以上は中流意識をもっているではないか。彼はそう反論した。
現代イギリスの統計では、確かに「ノン・マニアル(ホワイト・カラー)」と「マニアル(ブルー・カラー)」を大別し、前者を「専門職・管理職・経営者」と「その他のノン・マニアル」に分け、後者を「熟練工・親方」と「準熟練工」、「非熟練工」に分けている。「ノン・マニアル」と「マニアル」の比率は、白人社会では、ほぼ51%対49%であるが、「非熟練工」は4%にすぎない(B・ブラックストン(他)編『イギリスの人種関係』、Routledge、1998)。これに対し、エスニック・マイノリティーでは、「ノン・マニアル」と「マニアル」の比率は三対七の割合である。おそらくイギリスでも、貴族などの特権階級と労働者階級に属する非熟練工を除き、国民の9割近くが中流意識を持っているのではあるまいか。そうなると、「ノン・マニアル」と「マニアル」の大半が、中流意識をもつということになる。(写真⑭)

(写真⑭)中流家庭の住むハイゲートのミルトン・パーク
しかし、暗黙のうちにイギリスの中産階級の定義はあるような気がする。それは、大学か専門学校卒であり、ノン・マニアルの仕事につき、標準英語が話せる人々である。経済的には一定の収入があり、家持ちで、ハイゲイーのような住宅街に住み、休暇にはバカンスが楽しめ、家電製品がそろい、パソコンがあるということになる。労働者階級と考えられてきた熟練工や親方も、収入からいえば中流の階層ということになる。当時のブレアー首相も「階級差別をなくし、国民がこぞって中産階級になろう」と記者会見で訴えていた。
問題は社会的競争が公平かどうかである。近年では国民の20%i以上が進学する大学にも、労働者階級出身者に門戸が開かれている。しかし、教育の機会均等が完全に実現したかと問えば、そうではないことは、ブレアーの「ニュー・レイバー選挙公約」をみてもわかる。ましてや、日本と同じように地縁・血縁・学閥のコネ社会は、イギリスでもはびこっているように見受けられた。
実は、後になって知ったのであるが、ジョージはシティーのやり手のエリート商社マンだった。しかし、58歳でリタイヤーした。というのも、上層部と衝突してリストラの憂き目にあったのである。ビッグ・バン以降、ビジネス街ではオックス・ブッリッジ出身者といえども、厳しい競争にさらされている。明らかに固定的な階級社会は崩れつつある。だから、映画『タイタニック』に描かれた階級差別は過去のものになったという認識あり、彼はあのようにステレオタイプの階級論議に反発し、力んだのかもしれない。
彼は早く年金がほしいとよく言っていた。彼は社会的競争が公平であれば、自分は成功したという自負があるにちがいない。彼には上司に妥協しない芯の強さがある。その反面、個人的なつきあいでは、相手を気遣うナイーブな優しさを秘めた性格である。そのことを一番理解しているのは、年上の奥さんのスージーであり、大きいところで彼を包んでいるように見受けられた。
ジョージはことあるごとに「自分の家庭がイギリス中産階級の典型だというステレオタイプの理解はして欲しくない。自分は、あくまでジョージ個人である。たまたまの事例にすぎない」といっていた。私たちは一つの事例を容易に一般化し「イギリスでは何々…」などと、レッテルを貼りがちである。映画『タイタニック』の私の感想へのジョージの反応から、ステレオタイプの異文化認識は間違いだと肝に銘じた。(写真⑮)

(写真⑮) ハイゲートのアッパー・ミドル階級のディタッチ・ハウス
6.イギリスにおける階級制度
私がサバティカルを過ごした1998年の前年の1997年の夏、ダイアナ元皇太子妃がパリで交通事故により不慮の死を遂げるという事件があった。その事故の原因は、ホテル・リッチや有名デパートのハロッズのエジプト系オナーの息子ドディーとの密会をパパラッチに追跡されての交通事故によるものであった。この大ニュースが起きたとき、私はたまたまイギリスに滞在していた。ダイアナ元妃の事故死については、ジェンダー論としていつか書きたいと思っているが、ここでは、階級制度との関連で、ダイアナの死を悼むイギリスの庶民の反応について、少し触れたい。
ダイアナの実家のスペンサー家は15世紀からの古いイギリスの貴族・伯爵である。驚いたのは、いわば特権階級の葬儀当日の庶民の反応である。本葬はウエストミンスター寺院で国民葬が営まれ、列席者は上流階級の人々であった。しかし、ハイドパークには5万人を越える庶民が参集し、ダイアナの弟のスペンサー伯の弔辞に涙しながら聞入り、最後に拍手が沸き起こったのである。彼らの中にはエスニック・マイノリティや労働者階級の人々もいたが、ダイアナの事故死を上流階級の醜聞とは捉えず、わがことのように悲嘆にくれていたのである。
イギリスの階級社会は、中世以降長い間、貴族が支配していたが、18世紀の中期に産業革命がおこり中産階級のブルジョワジーが勃興して、紳士階級(ジェトルマン)が社会の支配者となった。そこから、イギリスは「紳士の国」というイメージが生まれた。しかし、「世界の工場」として繁栄に光輝いたイギリスにも、影はあった。支配されていた労働者階級や貧民のうめきがあったのである。
イギリスの階級制度は、通例、富裕階級(貴族・上層中産階級)と庶民階級(下層中産階級、労働者・農民)に分けられる。デズレリーのいう「二つの国民」つまり、「富める者と貧しい者と二つに分かれている」のである。「職業、教育、身についた習慣によってさまざまな種に分かれており、しかもほとんどが軽蔑と悪意をもってお互いを見ている」(サミュル・ジョンソン)のである。それにもかかわらず、ダイアナの事故死みられた、ほとんど階級の違いを超えた悲しみの共感は何だったのであろうか。
イギリスの貴族のルーツは、1066年のノルマン・コンクェストに遡る。フランスから侵攻したウイリアム一世とともにイギリスに入った。公爵(duke)、侯爵(marquis)、伯爵(earl)、子爵(viscount)、男爵(baron)である。貴族の下位に準貴族として世襲の準男爵(baronet)、さらに、一代貴族のナイト爵(knight)が続いた。貴族の数は、17世紀初めに約60、17世紀末に170、19世紀には300~400を数える。現代(1987年)では、王族公爵5、公爵26、侯爵36、伯爵192、子爵126、男爵482、女伯爵5、女男爵13で、全体で885家の貴族と準貴族が現存する。上流社会の住居がカントリー・ハウス(貴族の館)であり、1500~2000館のうち約800館が公開されている。(小林 24-25)
19世紀後半(1870年代)におけるイギリスの大土地所有者2500人の内訳は次のとおりである。
種 別 土地所有規模 人 数
Ⅰ 10万エーカー以上 44人
Ⅱ 5万~10万エーカー 71人
Ⅲ 2万~5万エーカー 299人
Ⅳ 1万~2万エーカー 497人
Ⅴ 6000~1万エーカー 617人
Ⅵ 3000~6000エーカー 982人
合 計 2500人
種 別 地代収入規模 人 数
Ⅰ 10万ポンド以上 15人
Ⅱ 5万~10万ポンド 51人
Ⅲ 2万~5万ポンド 259人
Ⅳ 1万~2万ポンド 541人
Ⅴ 6000~1万ポンド 702人
Ⅵ 3000~6000ポンド 932人
合 計 2500人
J・ベートマン『大ブリテン・アイルランドの土地所有者』(1887) (松浦 111)
紳士階級(ジェントルマン)は、貴族階級は無論、元来ジェントリという爵位をもたない地主階級から出たもので、エスクワイア、ジェントルマン(狭義)、ヨーマンを含んだ。ディケンズが生まれた19世紀初頭の紳士階級の数は、貴族287、バロネット540、ナイト350、エスクワイア6,000、ジェントルマン(狭義)20,000であった。(青山 214) さらに、16・17世紀以降、貿易商、大商人、法律家などの成功者が上層中産階級入りし、貴族の次三男である聖職者、官職保持者と法廷弁護士や内科医などのプロフェッショナル階層がジェントルマンに位置づけられた。
イギリスは西欧では稀な大土地所有制の国であった。1870年代における貴族・ジェントリの全所有地は、国土の50%以上であった。貴族は最低でも12,000万坪、ジェントリは最小ででも120万坪の土地を所有する殿様であった。(今井 176-177)
イギリスにおけるジェントルマンの条件は①土地所有(地主)であること、②教育によって教養を身につけ品性のあるエスタブリッシュメントが身についていることであった。当然、「高い身分に伴う義務」、つまりノブレス・オブリージ(公正、勇気、礼節、寛大、雅量、名誉心)を体現していなければならなかった。いくら財力を蓄えて中産階級へと階級上昇しても、エスタブリッシュメントが身についていない成り上がり者は、スノバリ(snobbery)と呼ばれ軽蔑の対象となった。
中産階級は大きく次の三つのレベルがあった。
①上層中産階級:知的職業(聖職、研究者、法律家、軍隊の士官)、大商人、経営者
②中層中産階級:ロワー・ミドルのうち富を築き、子どもを教育して上昇した人
③下層中産階級:労働者階級出身で教育を受けた者、ホワイトカラーの事務職や小規模小売業
階級間の上昇や下降の移動は、かなり頻繁に起こった。
さらに労働者階級は庶民階級であり、次の二つの階層に大別された。
①上層労働者階級:熟練工など収入の良い労働者、町工場職人、上層の農民
②下層労働者階級:雇用されている職人、家事手伝い・使用人、小作人
イギリスの「階級と階層」の定義は、「歴史上のある時期における、社会の上下序列的な秩序を記述するためのカテゴリー」であり「家柄・血統、法的能力、政治的特権、財産・所得、生活様式、学歴・教養、名声・信望など」の尺度から「同一の位置を占める社会集団」である(青山213)。従って、地位・身分と経済力、受けた教育や使用する言語、日常のマナー・客のもてなし、教会・慈善団体への寄付、居住地・住宅、奉公人や自家用車・馬車の所有の有無などによって、属する階級が、紳士階級なのか労働者階級なのかが決まった。
現代では、階級差別を嫌い国勢調査では、階級のカテゴリーを排除し、階層を職種別・職業別のカテゴリーに分類する。
現代の国勢調査の階層のカテゴリーは次のとおりである。
グループ 職種別 職業別
Ⅰ 専門職 医師、裁判官、弁護士、教授、重役、高級官僚・・・
Ⅱ 管理職 企業部長、パイロット、教員・・・
Ⅲ-① 技能職(非筋肉労働者) 一般事務職、秘書、タイピスト・・・
Ⅲ-② 技能職(筋肉労働者) 鉱山労働者、警官、運転手、料理人、大工頭・・・
Ⅳ 半熟練労働者 郵便配達人、農業従事者、店員・・・
Ⅴ 未熟練労働者 臨時工、ゴミ集配人、雑役・・・
(スノードン 65-66 )
日本人は中流意識を持つ国民が多い。自ら中流と感じている国民は90.2%であり、その内訳は中の上10.4%、中の中53.2%、中の下26.2%である。それに対してイギリスでは、上流階級が2.6%、中流階級が42.5%、労働者階級が49.0%、分からないが5.9%である (スノードン 66)。イギリスでは、労働者階級が強い一体感を持ち、特に熟練労働者は高い誇りを持っているのである。ブレア首相は、選挙におけるマニフェストで、階級間格差をなくし中流階級の育成を主張していたのも肯ける。
第1次世界大戦前のイギリスでは、上流階級が人口の1%に過ぎないにもかかわらず、私有財産の70%を所有し、全国民所得の20%を得ていた。都市部では30%の住民が貧困に喘いでいた。第2次大戦後ですら、人口の1%に富が集中し全国私有財産の50%を所有していた。(スノードン 63)。イギリスにおいては、階級によって富の格差は絶大であった。
しかし、今日では前述したように、階級矛盾や経済格差はあるものの、国民の多数派の階級意識は、中産階級化しているように思われる。好調な経済発展や教育の成果により、労働者自らも労働者階級を脱して上昇し、階級移動を果たしている場合も多い。それが、ダイアナの国民葬の風景に現れていたのかもしれない。そして、階級矛盾は、現代ではエスニック・マイノリティへの人種差別という新たな矛盾になっているが、このことについても、いつか私自身の現地調査報告を書きたいと思っている。
<参考文献>
イギリスの階級制度については、下記の文献を参照した。
1.今井宏(他)『新版概説イギリス史―伝統的理解をこえて』(有斐閣選書)(Cue-title: 今井)
2.松浦高嶺『イギリス現代史』(山川出版)(Cue-title: 松浦)
3.小林章夫『イギリス貴族』(講談社現代新書)(Cue-title: 小林)
4.海保真夫『イギリスの大貴族』(平凡社新書)
5.新井潤美『階級に取りつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見』(中公新書)
6.新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ―イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)
7.ポール・スノードン(他)『イギリスの社会―「開かれた階級社会」をめざして』(早稲田大学出版部)(Cue-title: スノードン)
8.トマス・ライト、村岡健(他)訳『ジェントルマン・その周辺とイギリス近代』(ミネルヴァ書房)
山本 證
1.プロローグ―ホームステイ先の人々
私のイギリスとの付き合いは、学生時代からイギリス文学を専攻してきたのだから、かれこれ50年になろうか。しかし、実際にイギリスの地に足を付けた体験としては20年あまりの付き合いである。その後、学生の研修旅行引率を含め、ほぼ毎年イギリスを訪れた。目的は自分の研究テーマであるイギリス文学、とりわけD・H・ロレンスやC・ディケンズの資料調査、イギリス文化論のテーマ別調査であるが、もちろん文化的好奇心を刺激されての観光旅行でもあった。
その数ある体験のうち、一番長期にわたり濃密であった体験は1998年から99年の一年間のサバティカル(大学から与えられる長期在外研究)の経験である。その時に所属した研究機関は、前期がロンドン大学、後期がケンブリッジ大学であったが、滞在したのは知人から紹介されたロンドンの北部・ハイゲートの中産階級の家庭である。このホームステイ先は、その後、10年以上毎年夏の数週間の滞在先となっている。したがって、「私のイギリス体験記」は、このステイ先の家庭の内側から見た「イギリス像」ということになろうか。ともかく、このエッセイでは、さまざまな角度からみた「生のイギリス」について、思いつくままに書いていきたい。(文中の固有名詞は仮名)
1998年春、ヒースロー空港から開通したばかりのファストレイン(ヒースロー・エックスプレス)に乗り、ロンドンの西の玄関パディングトンに着いた。「フィフティン・フィフティン(15分間隔・所要時間15分)」と宣伝しているだけあって、地下鉄よりチョット交通費が高目だが便利になったものだ。そこからロンドンのタクシー「黒キャブ」に揺られ、20分ほどでロンドン北部の住宅地ハイゲートに到着したのは夕方であった。春先のことで、だいぶ日が長くなっていた。
出迎えてくれたのは、ステイ先の長男でデヴィッドである。主人夫妻は、外出中とのことで、早速私の部屋に通された。部屋は1階で8畳ぐらい、備え付けの机、本箱、クロゼット、ベッド、トイレ、洗面台がある。こじんまりした可愛らしい部屋だ。小さな裏庭に面しており、水仙とチューリップが満開である。この部屋が、一年間の私の根拠地となった。(写真①)

(写真①)ロンドン北部ハイゲートのホームステイ先
夕食のメインディッシュは、ラム・ステーキであった。奥さんの得意にしているグレビーが柔らかいラム肉を引き立て、すこぶるおいしかった。主人夫妻も帰宅して、賑やかに歓迎してくれた。夫婦とも気さくな好人物である。主人のジョージは有名パブリック・スクールのウエストミンスター校からケンブリッジ大の英文科を卒業したエリートで、卒論はディケンズを書いたという。卒業後は、シティーで住宅関係のビジネスマンとして働き、前年リタイヤーしたとの自己紹介があった。奥さんのスージーは陽気なアメリカ人で社会福祉関係の女子大を出たあと渡英し、ジョージと知り合い結婚した。数々のボランティア活動に従事しており、非国教派教会の筆頭長老をつとめるグローバルな価値観をもったインテリ夫人である。のちに具体的に述べるが、この家庭にモームステイできたことは、イギリス文化をインテリ家庭の内側から見る上で、私のイギリス文化理解にどれだけ役立ったか、感謝しても仕切れない想いである。(写真②)

(写真②)ホームステイ先のリビング
子どもは三人おり、当時はみんな20歳台で大学卒である。長男のデイヴィッドは大学で芸術学を専攻し、音楽評論家を志していたがアルバイトに忙しそうで、彼だけが両親と同居している。弟のリックはオックスフォード大学卒の秀才でで、BBCで番組制作に携わっていた。アメリカやスペインへの取材のための出張も多く、独立して生計を立てており、週末だけ帰宅していた。末っ子の娘マリーは、ロンドン大学のキングズ・カッレジで古典文学を専攻したのち、国際援助協力隊のボランティアに応募して、東欧のクロアチアに行き、幼児教育に従事していた。そのほか、ドロシーとザッキーという可愛い猫を二匹飼っている。語学研修にくる外国人が、入れ替わり立ち替わり数週間下宿することがあり、賑やかな家族であった。
下宿代は約束通り二食付きで週百ポンドなので安堵した。月になおすと四百~五百ポンド(当時のレートで約9~11万円)である。この近くのフラットの部屋代にくらべ格安だ。イギリスに長期滞在できるのは千載一遇のチャンスである。同僚から「ゆっくり骨休めしておいで」と送られたのだが、せっかくの機会だから自分の専門領域の幅を広げたいと、内心に野心を秘めての渡英であった。このときの体験をもとにその後のイギリス訪問の体験も含め、内側から見たイギリス中産階級の人々の印象、ハイゲート界隈の住宅街の様子、さらに数々のイギリス体験を文化論的な視点からまとめてみたいと考えている。
2.ハイゲート界隈―東京でいえば武蔵野か
時差ぼけのせいで、初日は午前3時(日本時間、午前11時)に目が覚めてしまった。モア・トークというテレカで日本に電話すると、東京まで1分25ペンス(約60円)である。家族に無事到着を知らせた。その後、1分10ペンス近い格安テレカがあることを知った。何しろ規制緩和で10種類以上のテレカが出ているのには驚いた。現在では、日本の携帯電話で国際ローミングをセットすると、携帯メールが可能なので、この方が安い。
ハイゲートはロンドンの北部郊外の丘陵地ハムステッド・ヒースの北東に位置する閑静な住宅街である。地下鉄だとノーザン・ラインのゾーン3の最初の駅で、東京でいうと武蔵野といったところだろうか。ゾーン2の北端のアーチウエイから上り坂になる。登り切った丘陵の頂上がハイゲートである。近くに昔の関所のようなゲートが今も残されている。
(写真③)

(写真③)アーチウエイ・ブリッジからシティー方面を眺める。
ホームステイ先はその丘陵の谷間にあり、ちょっと小さい目のセミ・デタッチド・ハウス(2軒長屋)である。アティック部屋を入れると3階建てで地下にセラーがあり、日本流にいうと8LDKの比較的ゆったりした家屋である。
朝食はシリアル、トーストと洋梨でシンプルに済ませた。冷蔵庫に入っている食べ物は何でも好き好きで食べていいとのことであった。昼すぎにホルボーンの警察に行き、外国人登録を済ませた。現在は必要なくなったが、当時はアカデミック・ビザでも滞在許可証の申請をしなくてはならなかった。外国からの移住者が約30人並び小一時間かかった。多彩な人種が居て、さすがにロンドンだ。アカデミック・ビザを持っている私たちは、簡単に在留許可が出たが、アフリカやアジアからの移住者は延々と尋問を受けており、この国の不法就労に対するガードの厳しさを垣間見た。
カフェでサンドウィッチの昼食をとり、早速、ロンドン大学のSOAS(アジア・アフリカ研究学部)に出向き留学の挨拶をして、図書館メンバー・チケットの交付を受けた。銀行か郵便局の通帳の作り方や地下鉄のパスのシステムを調べて一日が終った。時差ぼけのせいでやたらと眠い。夕食はサーモンステーキ。主人夫妻は、イースターの教会での合唱コンサートの練習に出かけて留守であった。
インターネットを接続するため、プロバイダーのビッグローブのローミング・サービスの電話番号を調べた。家主の好意で、電話回線を室内に引き込んでくれることになった。ほどなく、日本から持参したノート・パソコンをセットアップして、Eメール開設ができ、日本の友人、知人ともコンタクトがとれた。これは、精神衛生上もすこぶる快適であった。
朝夕、決まって近所に散歩に出た。近くのウオーターロウ・パークまで1キロほど足を延ばすのが、お気に入りのコースになった。この公園はそんなに広くはないが、春先は桜や水仙、木蓮などの花々が咲き誇り、花壇には次々と季節の花が植えかえられ、緑鮮やかな芝生とコントラストが美しい。ロンドンの桜は時間をかけてゆっくりと咲くらしく、八分咲きから満開となり葉桜になるまで1ヶ月もかかる。保育園児が親たちとピクニックに来たり、犬の散歩にやってきた老人たちが愛犬に指示を与えたりして賑やかだ。(写真④)

(写真④)朝の静かなウオーターロウ・パーク
眼下の遙か遠くに、セントポール寺院をはじめ、シティーの高層ビル街やロンドン市街が一望でき絶景である。私は朝の静寂が好きである。午後のひとときは、園内のお茶ができるローダーデル・ハウスでくつろぐのもいい。すぐ南に隣接するハイゲート墓地には、マルクスやディケンズの両親、作家のジョージ・エリオットが眠っている。
散歩に出ると、このあたりの住宅の様式が気になる。ディタッチド・ハウス(一軒家)、セミ・デタッチド・ハウス(二軒長屋)、テラスハウス(集合住宅)、フラット(日本流に言えばマンション)などイギリス・スタイルの家が多い。日本のように雑然としたバラバラな建て方ではなく、イギリスの街には一つのコンセプトをもつ落ち着いた雰囲気がある。イギリス人の住宅に対するこだわりは、非常に強い。地方自治体に「町並み条例」があり、家屋の外観や色彩を規制しているのである。ハイゲートの住宅街は、建築後百年もたつ家並もあり、典型的な中産階級の人々が住む住宅街で落ち着いている。駐車場は必要なく、住民は駐車許可のステッカーを貼り、一方通行の両側に整然と路上駐車している。(写真⑤)

(写真⑤)ステイ先の近所の家並み
しかし、近年は多少ごみごみしてきたのか、やたらと「売り家」とか「貸家」の看板が目に付く。これはここの住宅を売却して、さらに高級住宅地に引っ越す人と、イーストエンドや下町の公営住宅から移住してくる成功者との代替わりがあるからで、経済の活況の反映でもある。
3.ハイゲート・ハイ・ストリート―パブのある散歩道
主人のジョージは、心優しく気配りをしてくれた。週末になると決まって予定があるか訊ねられた。他にアポがない場合には、どこか私の興味を惹きそうな場所を案内してくれた。それも、観光客があまり行かない、地元の人々の楽しみの場所を選んで連れていってくれた。たとえば、5月の晴れた日曜日に、カムデン・ロックの若者に人気のマーケットから、リジェンツ・パークとロンドン動物園の裏を流れる運河沿いのリトル・ベニスまでの3マイル(約5キロ)の散策に誘われた。このコースは、運河クルーズの定期便も運行されており、後に私も何回かお客さんを案内したが、初回はジョージの運河の歴史ガイド付きのウオーキングを楽しんだ。その説明の一つひとつにロンドンを愛する地元民の文化の香りを感じた。そして、決まって最後はパブに寄ることになる。カムデン・タウンでは、ディケンズゆかりのワールド・エンドであったり、リトル・ベニスでは料理がおいしいアバディーン・プレイスのクロッカーズ・フォリーであったりする。
ロンドンで「パブ通」になれたのは、一家の主人ジョージに感謝しなくてはならない。彼は何かにつけ私をパブに誘ってくれるのである。だから、彼は私の「パブ学」の師匠である。シティー界隈、テムズ川南岸のロンドン・ブリッジ界隈、テムズ川両岸下流からタワー・ブリッジ界隈、イーストエンドからクラークンウエル界隈、ソホーからコベント・ガーデン界隈、大英博物館周辺、ウエスト・ミンスター寺院周辺、テムズ川上流のリッチモンド界隈など『有名パブ年鑑』に収録されている「名物パブ」を軒並みに「パブ・ツアー」した。しかも、そのツアーにはゆかりの文学や文化的逸話の案内がセットになっていた。しかし、「ロンドン・パブ・ツアー」については稿を改めて書きたい。
地元パブには、地下鉄ノーザン・ラインのハイゲート駅近くにノース・ウッドやウインチェスターがある。(写真⑥)特にパブ・ウインチェスターには、ちょうどサッカーのワールドカップの年だったので、イングランドの応援によく通った。試合が始まると夜のパブのフロワーは立すいの余地もなくなるほどの混雑振りである。味方のチャンスともなると大歓声が怒涛のように湧き上がる。わたしはといえば、ほとんどイングランド人になりすまして怒号に唱和しているのであった。しかし、寂しいのは日本戦の時である。ロンドン時間の昼間ということもあってか、実況放送がオンエアされていても、お客はまばらであった。ある種の疎外感をもったが、これは仕方のないことである。

(写真⑥)地元の馴染みのパブ、ウインチェスター
ウインチェスターはいわゆる「ターバン」であり、宿泊施設も併設している。ロンドンの中心部への入口というロケーションのため、充実したベッドルームのパンフレットが置いてあった。しかも、格安である。主人のジョージとは毎年訪英する度に、このパブに通った。お蔭でマスターとも友だちになった。ジョージはフランス、ドイツ、スイスなどから語学研修にやってきた知識人や学生をここに招待し、政治、経済、国際関係などの時事放談をさかなに口角泡をとばす論議に熱中した。さまざまな地元情報を得たのも、このパブでのコミュニケーションからであった。
ハイゲート駅から西に15分ほど歩くと、ハイゲート・ハイ・ストリートに出る。この界隈は由緒ある通りである。ロンドン司教の領地で16世紀頃から別荘が建ち、今でもハイゲート・ヴィレッジは高級住宅地として知られている。
このハイゲート・ハイ・ストリートを上り詰めたところにパブ・ゲートハウスがある。(写真⑦)かつてのロンドン司教の庭園のゲートハウス跡地に建てられたことから、この名がパブについた。このパブは中が広く、ゆったりとしている。家族づれで食事もできる。午後2時になると、二人分のディッシュが一人前の値段というサービスもあり、若い訪問客があるとよく利用した。

(写真⑦)ハイゲート・ハイストリートのゲートハウス
パブの通りを隔てた東側のハイゲート・ハイスクールは、名門のパブリック・スクールである。ミュージカル『キャッツ』の原作者でノーベル賞詩人T・S・エリオットは、ここで教師をしていたことがある。エリオットは先祖がイギリス南西部出身のアメリカ人であったが、イギリスに戻り帰化した。わたしは大学の卒論のテーマがT・S・エリオットであったので、何だか青春の故郷に戻ったような気がした。
ハイゲート・ハイ・ストリートを南に下るとこじんまりしたプリンス・オブ・ウエイルズというパブがある。私はこのパブがお気に入りで、よく通った。表はハイ・ストリートに面しているが、裏口から出るとポンド・スクエアという地名のちょっとした広場に出る。落ち着いた雰囲気があり、ラム・ステーキの鉄板焼きが3.99ポンドという安さだ。ビターを飲みながらの昼食で、贅沢気分を味わった経験は忘れられない。
ここから、ハイゲート・ウエスト・ヒルを西に二百メートルほど行くと、左にフラスクがある。このパブは「名物パブ賞」をとったことがあり、そのことが青いプラークに表示されている。昼食どきには、散策を楽しむ地元の人々やハイカーで賑わいをみせている。クリスマス・イブには深夜11時の閉店時間を過ぎても、立すいの余地のないほど若者がごった返していた。(写真⑧)同じ名前のパブが地下鉄ハムステッド駅近くにあり、このパブも悪くないが、雰囲気はハイゲートのフラスクの方が一段上のような気がする。

(写真⑧)「名物パブ賞」をとったフラスク
フラスクの向側のザ・グローブ3番地には、19世紀ロマン派詩人コールリッジが晩年住んでいた。プラークにそれが記してあり、没後、目と鼻の先のセント・マイケルズ教会に埋葬された。この教会の塔は、高台にあるので目立つ。遠くハムステッド・ヒースからも遠望できて道しるべとなっている。また、この教会のすぐ東の屋敷には、以前歌手のスティングが住んでいたことがある。さらに、哲学者フランシス・ベーコンゆかりのベーコン・レインも近い。また、さらに南に下るとハイゲイト・セメトリへと続く。この墓地には、カール・マルクス、ジョージ・エリオット、チャールズ・ディケンズの両親が眠っている。
4.ハムステッド・ヒースのパブめぐりウオーキング
ハイゲート・ヴィッレジを西に突っ切ると、最高級のデタッチッド住宅が連なる落ち着いたお屋敷に出る。その先の家庭菜園のなかをとおり過ぎると、広大なハムステッド・ヒースの森林公園である。ジョージとは、たびたびハイゲートからハイゲート・ヴィレッジを横切り、ハムステッド・ヒースの森林を往復する8マイル(13キロ)のウオーキングに出かけた。
ハムステッド・ヒースへのウオーキングは、いくつものコースがあるが、よく行ったのはレディース・ポンドやストック・ポンドの湖畔を通って公園の北側を辿るコースである。その北の端にはイングリッシュ・へリテージ管轄のケンウッド・ハウスがある。18世紀の貴族の別邸で、レンブランドなどの絵画のコレクションが有名で落ち着いた雰囲気である。南側のパークの斜面の下からの眺めは最高で、夏の週末にはコンサートで賑わう。
さらに、一旦森林から離れ、公園の外周沿い一般道ハムステッド・レインに出て南下すると、パブのスパニアーズ・インがある。当然、この田園風のパブに立ち寄ることになる。(写真⑨)スパニアード・インは昔の旅籠で、17世紀のスペイン大使邸の跡だそうだ。ロンドン主教領荘園の入り口だったので通行料を徴収した関所跡に隣接している。道は一箇所だけ一車線しか通行できない狭さになっている。

(写真⑨)関所跡に隣接するスパニアーズ・イン
その先の一般道はスパニアード・ロードである。ちょうどハムステッド・ヒースを南北に横切る一般道である。南下すると1キロほどで有名パブのジャック・ストローズ・カースルに行けるのであるが、それは後回しにしてハムステッド・ヒースの北西に森林に入ると面白い。この広大な森林公園の歴史が刻まれているからである。
森林地帯に戻ると、やたらに道がデコボコしており時折直径10~30メートルの大きな穴が掘られたような跡がある。(写真⑩)ジョージはこの穴が何か分かるかと訊ねてくる。わたしは当然分からない。
ロンドンの公園はハイド・パークにしろ、リジェンツ・パークにしろ、リッチモンド・パークにしろ、全て王室の領地であった。しかし、ハムステッド・ヒースは荘園領と農場のなかに大邸宅が点在する民間の田園地帯であった。標高135メートル、広さは323.8ヘクタールもある。しかも都心に近い。ここに19世紀に宅地造成の話が持ち上がった。これに抵抗した地元の人々が森林に大きな穴を掘って宅地造成を妨害し反対運動を行なった。1872年に議会は「ハムヅテッド・ヒースを永続的に公共利用する法律」を制定した。今日でいう自然環境保護運動の先駆的な形態である。そのお蔭で私たちはハムステッド・ヒースのロング・ウォークが楽しめるのである。

(写真⑩)大きな穴が掘られた跡の小道が続くハムステッド・ヒース北西部
このデコボコの小道を数百メートル行くとノース・エンド・ロードに出る。さらに西にはヒル・パブリック・ガーデンが広がっている。そこの角に17世紀の農家の跡地に18世紀にできたパブがある。常連にホーガースやコンスタンブルなどの画家が集まったブル・アンド・ブッシュである。パブのなかの伝統的雰囲気がよい。
この近辺はディケンスゆかりの場所が多い。ノース・エンド・ロードを南に地下鉄ハムステッド駅方向にしばらく進んで左の小路を左に折れると、オールド・ワィルド農園がある。(写真⑪)散策中に、ここの主人に確かめたのでが、この住宅はかつてウイリアム・ブレイクが滞在したこともあり、またディケンズとのゆかりが深い。ディケンズの新婚時代、ロンドンの中心街のダウティ・ストリート48番地(現在はディケンズ・ハウス博物館)に住んでいた。ある夜、妻のキャサリンの妹、つまりディケンズの義妹のメアリ・フォーガスが16歳で急死した。ディケンズは悲しみのあまり、当時連載中の『オリヴァー・トゥイスト』を一月分休刊しがほどであった。その悲しみを癒すために夫婦で滞在したのが、19世紀当時コリンズ農園という名で知られたオールド・ワィルド農園だそうである。

(写真⑪)ディケンズ夫妻が義妹の急死のショックを癒すために滞在したオールド・ワィルド農園
ノース・エンド・ロードをさらに南へ進むと、先ほどのスパニアード・ロードに戻りつく。その交差点あたりが周辺で標高が一番高い。ディケンズは市内からこの辺まで馬に乗って出かけてきたが、そこに彼のゆかりのジャック・ストローズ・カースルである。昔の乗合馬車の宿駅だった建物を修復したパブである。近辺には馬の水飲み場などが残されている。店内には、ディケンズゆかりの写真や手紙が展示してあり、二階からロンドン市街が見渡せた。しかし、数年前に閉店となり、今は不動産関係の事務所になっている。実に寂しい想いである。(写真⑫)

(写真⑫)ディケンズゆかりのジャック・ストローズ・カースル。今は閉店している。
この先はヘルス・ストリートと一般道の名が変るのだが、その通りをハムステッド・ヴィレッジ方向に左の折れると、ヴェールズ・オブ・ヘルスに出る。ここはハイゲイトからはケンウッド・レディース・ポンドの横をとおりハムステッド・ヒースのほぼ中央を横切って歩くウオーキングの時もよく立ち寄った。
ヴェールズ・オブ・ヘルスは文字通り「健康の谷」である。17世紀に鉱泉が沸いていたこのヒースの丘陵地帯に住む人々がコレラの流行から免れたことから、ここの鉱泉を飲用することが健康に良いと考えられたのである。19世紀から20世紀にかけてタゴールはじめ多くの文人も住んでいた。作家D・H・ロレンスも新婚時代にヴェール・オブ・ヘルスのバイロン・ヴィラに住んでいたし、1926年に最後にイギリス訪問した折りの最終宿はウイロビー・ロード30番地に現存している。
再びヘルス・ストリートに戻り、裏道を南に下ると、ナショナル・トラスト所有のフェントン・ハウスがある。ここには17世紀のハープシコードなどの有名な楽器コレクションが展示してあり、庭園が美しい。地下鉄ハムステッド駅に戻る路地に入ると、近くに古めかしいが気さくなパブがある。ホリイ・ブッシュである。(写真⑬)ここで、締めの一杯で乾杯しということになる。

(写真⑬)地下鉄ハムステッド駅近くの古めかしいパブ、ホリイ・ブッシュ
ハムステッドは文学ゆかりの名所が多い。前述のディケンズやロレンスの他にも、ロマン派の詩人キーツが住んでいた。キーツ・グローブには、詩人が「ナイチンゲールに寄せるオード」を書いたと言われるキーツ・ハウスが公開されている。その他にゴ-ルズワージー、マンスフィールド、オーウェルなどが住んでいた家もある。
ジョージはハムステッド・ヒースへのパブ・ツアーの帰路、決まって「バスで帰る?」、「地下鉄で帰る?」、「ウオーキングにする?」と尋ねてくる。私も決まって「もちろん、ウォーキングだよ」と応えると、彼はニッコリとするのである。そして、ハムステッド・ヒースの南のパーラメント・ヒルを越えて、ハイゲートへと戻るのであった。
5. ロンドンの中産階級の家庭
「サバティカル」で滞在中、フラットなどを借りずにホームステイにしたのは、イギリス人のインサイダー情報が容易に得られると考えたからであるが、ステイ先に中産階級の家庭を選んだのは、イギリス人の階級意識は何によって決まるかを知りたかったからでもある。
イギリスには厳しい階級制度があるといわれる。確かに、一部の貴族階級は健在だし、アッパー・ミドルには、とてつもない資産家がいる。しかし、日本と同じように、中産階級意識をもつ国民がかなり多数でないかという気がするのである。つまり、20世紀になってから、階級制度が崩れつつあると思うのだが、どれぐらい階級意識が曖昧になっているかを知りたかったのだ。
映画『タイタニック』を見たあと、私はジョージに感想として「この映画はイギリスの階級制度を典型的に反映している」と述べたことがあった。豪華客船の船室の格差と沈没時の脱出の順序にそれを感じたからである。そのとき、ジョージは顔を真っ赤にして、「そういうステレオタイプのイギリス階級理解が困るのだ」と大声を出した。「タイタニック号の事故は1912年だよ。それにあの映画はアメリカ映画だから、ああいう描き方をするのだ」という。一瞬私はたじろいだが、納得した。
彼の主張はこうだ。一部の特権階級は確かにいるし、ブルー・カラーには貧困層もいるが、大半のイギリス人は中流意識をもっている。それは階級制度による固定した差別というより、職能別、階層別の格差である。社会的競争が公平であるかどうかが肝要であり、これを差別というなら、日本の学歴によるキャリアとノン・キャリアの賃金格差は階級差別ということにならないか。それなのに、日本人の9割以上は中流意識をもっているではないか。彼はそう反論した。
現代イギリスの統計では、確かに「ノン・マニアル(ホワイト・カラー)」と「マニアル(ブルー・カラー)」を大別し、前者を「専門職・管理職・経営者」と「その他のノン・マニアル」に分け、後者を「熟練工・親方」と「準熟練工」、「非熟練工」に分けている。「ノン・マニアル」と「マニアル」の比率は、白人社会では、ほぼ51%対49%であるが、「非熟練工」は4%にすぎない(B・ブラックストン(他)編『イギリスの人種関係』、Routledge、1998)。これに対し、エスニック・マイノリティーでは、「ノン・マニアル」と「マニアル」の比率は三対七の割合である。おそらくイギリスでも、貴族などの特権階級と労働者階級に属する非熟練工を除き、国民の9割近くが中流意識を持っているのではあるまいか。そうなると、「ノン・マニアル」と「マニアル」の大半が、中流意識をもつということになる。(写真⑭)

(写真⑭)中流家庭の住むハイゲートのミルトン・パーク
しかし、暗黙のうちにイギリスの中産階級の定義はあるような気がする。それは、大学か専門学校卒であり、ノン・マニアルの仕事につき、標準英語が話せる人々である。経済的には一定の収入があり、家持ちで、ハイゲイーのような住宅街に住み、休暇にはバカンスが楽しめ、家電製品がそろい、パソコンがあるということになる。労働者階級と考えられてきた熟練工や親方も、収入からいえば中流の階層ということになる。当時のブレアー首相も「階級差別をなくし、国民がこぞって中産階級になろう」と記者会見で訴えていた。
問題は社会的競争が公平かどうかである。近年では国民の20%i以上が進学する大学にも、労働者階級出身者に門戸が開かれている。しかし、教育の機会均等が完全に実現したかと問えば、そうではないことは、ブレアーの「ニュー・レイバー選挙公約」をみてもわかる。ましてや、日本と同じように地縁・血縁・学閥のコネ社会は、イギリスでもはびこっているように見受けられた。
実は、後になって知ったのであるが、ジョージはシティーのやり手のエリート商社マンだった。しかし、58歳でリタイヤーした。というのも、上層部と衝突してリストラの憂き目にあったのである。ビッグ・バン以降、ビジネス街ではオックス・ブッリッジ出身者といえども、厳しい競争にさらされている。明らかに固定的な階級社会は崩れつつある。だから、映画『タイタニック』に描かれた階級差別は過去のものになったという認識あり、彼はあのようにステレオタイプの階級論議に反発し、力んだのかもしれない。
彼は早く年金がほしいとよく言っていた。彼は社会的競争が公平であれば、自分は成功したという自負があるにちがいない。彼には上司に妥協しない芯の強さがある。その反面、個人的なつきあいでは、相手を気遣うナイーブな優しさを秘めた性格である。そのことを一番理解しているのは、年上の奥さんのスージーであり、大きいところで彼を包んでいるように見受けられた。
ジョージはことあるごとに「自分の家庭がイギリス中産階級の典型だというステレオタイプの理解はして欲しくない。自分は、あくまでジョージ個人である。たまたまの事例にすぎない」といっていた。私たちは一つの事例を容易に一般化し「イギリスでは何々…」などと、レッテルを貼りがちである。映画『タイタニック』の私の感想へのジョージの反応から、ステレオタイプの異文化認識は間違いだと肝に銘じた。(写真⑮)

(写真⑮) ハイゲートのアッパー・ミドル階級のディタッチ・ハウス
6.イギリスにおける階級制度
私がサバティカルを過ごした1998年の前年の1997年の夏、ダイアナ元皇太子妃がパリで交通事故により不慮の死を遂げるという事件があった。その事故の原因は、ホテル・リッチや有名デパートのハロッズのエジプト系オナーの息子ドディーとの密会をパパラッチに追跡されての交通事故によるものであった。この大ニュースが起きたとき、私はたまたまイギリスに滞在していた。ダイアナ元妃の事故死については、ジェンダー論としていつか書きたいと思っているが、ここでは、階級制度との関連で、ダイアナの死を悼むイギリスの庶民の反応について、少し触れたい。
ダイアナの実家のスペンサー家は15世紀からの古いイギリスの貴族・伯爵である。驚いたのは、いわば特権階級の葬儀当日の庶民の反応である。本葬はウエストミンスター寺院で国民葬が営まれ、列席者は上流階級の人々であった。しかし、ハイドパークには5万人を越える庶民が参集し、ダイアナの弟のスペンサー伯の弔辞に涙しながら聞入り、最後に拍手が沸き起こったのである。彼らの中にはエスニック・マイノリティや労働者階級の人々もいたが、ダイアナの事故死を上流階級の醜聞とは捉えず、わがことのように悲嘆にくれていたのである。
イギリスの階級社会は、中世以降長い間、貴族が支配していたが、18世紀の中期に産業革命がおこり中産階級のブルジョワジーが勃興して、紳士階級(ジェトルマン)が社会の支配者となった。そこから、イギリスは「紳士の国」というイメージが生まれた。しかし、「世界の工場」として繁栄に光輝いたイギリスにも、影はあった。支配されていた労働者階級や貧民のうめきがあったのである。
イギリスの階級制度は、通例、富裕階級(貴族・上層中産階級)と庶民階級(下層中産階級、労働者・農民)に分けられる。デズレリーのいう「二つの国民」つまり、「富める者と貧しい者と二つに分かれている」のである。「職業、教育、身についた習慣によってさまざまな種に分かれており、しかもほとんどが軽蔑と悪意をもってお互いを見ている」(サミュル・ジョンソン)のである。それにもかかわらず、ダイアナの事故死みられた、ほとんど階級の違いを超えた悲しみの共感は何だったのであろうか。
イギリスの貴族のルーツは、1066年のノルマン・コンクェストに遡る。フランスから侵攻したウイリアム一世とともにイギリスに入った。公爵(duke)、侯爵(marquis)、伯爵(earl)、子爵(viscount)、男爵(baron)である。貴族の下位に準貴族として世襲の準男爵(baronet)、さらに、一代貴族のナイト爵(knight)が続いた。貴族の数は、17世紀初めに約60、17世紀末に170、19世紀には300~400を数える。現代(1987年)では、王族公爵5、公爵26、侯爵36、伯爵192、子爵126、男爵482、女伯爵5、女男爵13で、全体で885家の貴族と準貴族が現存する。上流社会の住居がカントリー・ハウス(貴族の館)であり、1500~2000館のうち約800館が公開されている。(小林 24-25)
19世紀後半(1870年代)におけるイギリスの大土地所有者2500人の内訳は次のとおりである。
種 別 土地所有規模 人 数
Ⅰ 10万エーカー以上 44人
Ⅱ 5万~10万エーカー 71人
Ⅲ 2万~5万エーカー 299人
Ⅳ 1万~2万エーカー 497人
Ⅴ 6000~1万エーカー 617人
Ⅵ 3000~6000エーカー 982人
合 計 2500人
種 別 地代収入規模 人 数
Ⅰ 10万ポンド以上 15人
Ⅱ 5万~10万ポンド 51人
Ⅲ 2万~5万ポンド 259人
Ⅳ 1万~2万ポンド 541人
Ⅴ 6000~1万ポンド 702人
Ⅵ 3000~6000ポンド 932人
合 計 2500人
J・ベートマン『大ブリテン・アイルランドの土地所有者』(1887) (松浦 111)
紳士階級(ジェントルマン)は、貴族階級は無論、元来ジェントリという爵位をもたない地主階級から出たもので、エスクワイア、ジェントルマン(狭義)、ヨーマンを含んだ。ディケンズが生まれた19世紀初頭の紳士階級の数は、貴族287、バロネット540、ナイト350、エスクワイア6,000、ジェントルマン(狭義)20,000であった。(青山 214) さらに、16・17世紀以降、貿易商、大商人、法律家などの成功者が上層中産階級入りし、貴族の次三男である聖職者、官職保持者と法廷弁護士や内科医などのプロフェッショナル階層がジェントルマンに位置づけられた。
イギリスは西欧では稀な大土地所有制の国であった。1870年代における貴族・ジェントリの全所有地は、国土の50%以上であった。貴族は最低でも12,000万坪、ジェントリは最小ででも120万坪の土地を所有する殿様であった。(今井 176-177)
イギリスにおけるジェントルマンの条件は①土地所有(地主)であること、②教育によって教養を身につけ品性のあるエスタブリッシュメントが身についていることであった。当然、「高い身分に伴う義務」、つまりノブレス・オブリージ(公正、勇気、礼節、寛大、雅量、名誉心)を体現していなければならなかった。いくら財力を蓄えて中産階級へと階級上昇しても、エスタブリッシュメントが身についていない成り上がり者は、スノバリ(snobbery)と呼ばれ軽蔑の対象となった。
中産階級は大きく次の三つのレベルがあった。
①上層中産階級:知的職業(聖職、研究者、法律家、軍隊の士官)、大商人、経営者
②中層中産階級:ロワー・ミドルのうち富を築き、子どもを教育して上昇した人
③下層中産階級:労働者階級出身で教育を受けた者、ホワイトカラーの事務職や小規模小売業
階級間の上昇や下降の移動は、かなり頻繁に起こった。
さらに労働者階級は庶民階級であり、次の二つの階層に大別された。
①上層労働者階級:熟練工など収入の良い労働者、町工場職人、上層の農民
②下層労働者階級:雇用されている職人、家事手伝い・使用人、小作人
イギリスの「階級と階層」の定義は、「歴史上のある時期における、社会の上下序列的な秩序を記述するためのカテゴリー」であり「家柄・血統、法的能力、政治的特権、財産・所得、生活様式、学歴・教養、名声・信望など」の尺度から「同一の位置を占める社会集団」である(青山213)。従って、地位・身分と経済力、受けた教育や使用する言語、日常のマナー・客のもてなし、教会・慈善団体への寄付、居住地・住宅、奉公人や自家用車・馬車の所有の有無などによって、属する階級が、紳士階級なのか労働者階級なのかが決まった。
現代では、階級差別を嫌い国勢調査では、階級のカテゴリーを排除し、階層を職種別・職業別のカテゴリーに分類する。
現代の国勢調査の階層のカテゴリーは次のとおりである。
グループ 職種別 職業別
Ⅰ 専門職 医師、裁判官、弁護士、教授、重役、高級官僚・・・
Ⅱ 管理職 企業部長、パイロット、教員・・・
Ⅲ-① 技能職(非筋肉労働者) 一般事務職、秘書、タイピスト・・・
Ⅲ-② 技能職(筋肉労働者) 鉱山労働者、警官、運転手、料理人、大工頭・・・
Ⅳ 半熟練労働者 郵便配達人、農業従事者、店員・・・
Ⅴ 未熟練労働者 臨時工、ゴミ集配人、雑役・・・
(スノードン 65-66 )
日本人は中流意識を持つ国民が多い。自ら中流と感じている国民は90.2%であり、その内訳は中の上10.4%、中の中53.2%、中の下26.2%である。それに対してイギリスでは、上流階級が2.6%、中流階級が42.5%、労働者階級が49.0%、分からないが5.9%である (スノードン 66)。イギリスでは、労働者階級が強い一体感を持ち、特に熟練労働者は高い誇りを持っているのである。ブレア首相は、選挙におけるマニフェストで、階級間格差をなくし中流階級の育成を主張していたのも肯ける。
第1次世界大戦前のイギリスでは、上流階級が人口の1%に過ぎないにもかかわらず、私有財産の70%を所有し、全国民所得の20%を得ていた。都市部では30%の住民が貧困に喘いでいた。第2次大戦後ですら、人口の1%に富が集中し全国私有財産の50%を所有していた。(スノードン 63)。イギリスにおいては、階級によって富の格差は絶大であった。
しかし、今日では前述したように、階級矛盾や経済格差はあるものの、国民の多数派の階級意識は、中産階級化しているように思われる。好調な経済発展や教育の成果により、労働者自らも労働者階級を脱して上昇し、階級移動を果たしている場合も多い。それが、ダイアナの国民葬の風景に現れていたのかもしれない。そして、階級矛盾は、現代ではエスニック・マイノリティへの人種差別という新たな矛盾になっているが、このことについても、いつか私自身の現地調査報告を書きたいと思っている。
<参考文献>
イギリスの階級制度については、下記の文献を参照した。
1.今井宏(他)『新版概説イギリス史―伝統的理解をこえて』(有斐閣選書)(Cue-title: 今井)
2.松浦高嶺『イギリス現代史』(山川出版)(Cue-title: 松浦)
3.小林章夫『イギリス貴族』(講談社現代新書)(Cue-title: 小林)
4.海保真夫『イギリスの大貴族』(平凡社新書)
5.新井潤美『階級に取りつかれた人びと―英国ミドル・クラスの生活と意見』(中公新書)
6.新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ―イギリス小説と映画から読む「階級」』(平凡社新書)
7.ポール・スノードン(他)『イギリスの社会―「開かれた階級社会」をめざして』(早稲田大学出版部)(Cue-title: スノードン)
8.トマス・ライト、村岡健(他)訳『ジェントルマン・その周辺とイギリス近代』(ミネルヴァ書房)
(つづく)