ディケンズ・カントリー(3)―コバムからクーリングへ
3.郊外に広がるディケンズ・カントリー
ディケンズ・カントリーの中核であるチャタムとロチェスターについて語ってきたが、今回はロチェスター郊外に広がるディケンズゆかり場所に目を転じよう。ここを巡る文学散歩は、ディケンズの時代がそうであったように、ウォーキングで周るのが相応しいのだが、私が過去5回ほど訪れたときには、時間的制約のためレンタカーかタクシーを利用した。
(1)メドウェイ川沿いのコバム
ロチェスターの北端のメドウェイ川の橋をロンドン方向に渡り、左折してB260道路をメドウェイ川沿いに上流方向に6.5㌔に行くと、コバムという小さな村がある。ディケンズは、『ピックウィック・ペイパイズ』(1836-37)のなかで、「人間嫌いが住むのに選ぶ場所としては、もっとも美しい」といっているが、今日でも鄙びた雰囲気が漂う村である。
コバムには有名なオールド・レザー・ボトルというディケンズゆかりの古いパブがある。パブ好きの私としては、当然立ち寄ることになる。(写真①)

(写真①)ディケンズゆかりの古いパブ、オールド・レザー・ボトル
このパブに入ると、いわゆるディケンズ・グッズや写真がところ狭しとばかりに飾られており、ヴィクトリア朝にタイム・スリップした気分になる。(写真②)

(写真②)筆内にディケンズ・グッズや写真が飾れているオールド・レザー・ボトル
ディケンッズは死の前日に最期の散歩をしたのが、このコバムあたりの森であったと伝えられている。
(2)ディケンズが新婚旅行で訪れたチョーク
さらに、ドーヴァー街道を北にロンドン方向にいくと、A226道路沿いにチョークという寒村がある。ここはディケンズが新婚当時訪れた村で、その記念に「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」と称する小奇麗な家がある。(写真③)

(写真③)「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」の銘版が掛けてある瀟洒な家
実際は、ディケンズが新婚時代に訪れた「新婚の家」は現存していないが、その家に滞在中、『ピックウィック・ペイパイズ』の一部を執筆した。また、この近くには『大いなる遺産』の主人公、孤児のピップが育った鍛冶屋のジョーの家のモデルとされる家があることでも知られている。
ディケンズは、しばしばこの村を訪問し、町外れの聖母マリア教会にも立ち寄った。(写真④)

(写真④)ディケンズがよく立ち寄った聖母マリア教会
(3)『大いなる遺産』の舞台になったクーリング
この近くには、『大いなる遺産』の舞台のモデルとなった場所が点在する。そのひとつクーリングには、作品の冒頭で主人公の孤児のピップが、脱獄囚マグウィッチと衝撃的に遭遇する墓地のモデルである「ピップの墓」がある。彼の両親と兄弟の墓地は、この村のセント・ジェイムズ教会に設定されている。 (写真⑤)
考えてみると、元々はフィクションの主人公にまつわる墓地が実際にあるのも、おかしな話ではある。しかし、このうら寂しい教会の墓地に佇んでいると、小説のヒーロー、ピップの背景をなす幼年時代のディケンズに立ち戻って、その後ロンドンに旅立ってからの波乱に満ちた作家の人生に想いをはせている私自身に気づかざるをえないのである。

写真⑤ 「ピップの墓」があるクーリングのセント・ジェイムズ教会
教会の背後には、現在は豊かな麦畑が広がっている。(写真⑥)
ここは、かつて脱獄囚マグウィッチが逃亡してきた沼地が広がっていた。「堤や土手や水門があって、牛がちらほら草を食べている、教会のむこうの、暗い、まっ平らな荒地は、沼地だということ、(・・・)風が吹きまくってくる、荒涼とした(・・・)海だという」(第1章)イメージが鮮やかに浮かぶのである。

(写真⑥)教会の裏手に広がる、かつてのテムズ川下流沼沢跡の干拓地
(4)ギャッズ・ヒル・プレース
チョークやクーリングからA226道路に戻ると、ロチェスターの北西5㌔ほどのところに、ギャッズ・ヒルという寒村がある。この街道沿いにギャッツ・ヒル・プレイスという周囲では目立つ邸宅がある。前述したようにディケンズが幼少のころ父親連れられてここを通るたびに、「いつかこのような屋敷に住めるような成功者になれるよう頑張れ」と励まされた邸宅である。(写真⑦)
少年チャールズは、この夢を忘れず、作家として大成して夢をかなえた後、1856年にロンドンを引き払い、晩年までこの邸宅に住んで、『ニ都物語』(1859)、『大いなる遺産』(1861)、『われら共通の友』(1865)などを執筆した。そして、ギャッツ・ヒル・プレイスの屋敷は、ディケンズの死の床になったのだが、晩年の作家についての仔細は、稿を改めることにしたい。

(写真⑦)ディケンズが晩年に住んだギャッズ・ヒル・プレイスの邸宅
ディケンズはロチェスター近郊に広がる緑豊かな田園からロンドンに旅立って、光と影にみちた都会で活躍するのだが、この作家の物語の主人公は、都市と田園のコントラストを色濃く反映している。特に、孤児を主人公にした小説は、『オリヴァ・トゥイスト』(1837-39)のオリヴァにしても、『ディヴィッド・コパフィールド』(1849-50)のディヴィッドにしても、『大いなる遺産』(1860-61)のピップにしても、幼少期に田園地帯からロンドンに旅立ち、苦難の末に成功を手に入れた。それは、ディケンズ自身が没落階級から階級上昇を遂げて、成功していった人生の歩みと重なり合う。都市と田園のコントラストを背景にしながら、産業革命の生んだ中産階級と労働者階級の相克、その交差する階級のドラマの原点が、チャタムやロチェスター、その近郊への旅で実感できるのである。
山本 證
3.郊外に広がるディケンズ・カントリー
ディケンズ・カントリーの中核であるチャタムとロチェスターについて語ってきたが、今回はロチェスター郊外に広がるディケンズゆかり場所に目を転じよう。ここを巡る文学散歩は、ディケンズの時代がそうであったように、ウォーキングで周るのが相応しいのだが、私が過去5回ほど訪れたときには、時間的制約のためレンタカーかタクシーを利用した。
(1)メドウェイ川沿いのコバム
ロチェスターの北端のメドウェイ川の橋をロンドン方向に渡り、左折してB260道路をメドウェイ川沿いに上流方向に6.5㌔に行くと、コバムという小さな村がある。ディケンズは、『ピックウィック・ペイパイズ』(1836-37)のなかで、「人間嫌いが住むのに選ぶ場所としては、もっとも美しい」といっているが、今日でも鄙びた雰囲気が漂う村である。
コバムには有名なオールド・レザー・ボトルというディケンズゆかりの古いパブがある。パブ好きの私としては、当然立ち寄ることになる。(写真①)

(写真①)ディケンズゆかりの古いパブ、オールド・レザー・ボトル
このパブに入ると、いわゆるディケンズ・グッズや写真がところ狭しとばかりに飾られており、ヴィクトリア朝にタイム・スリップした気分になる。(写真②)

(写真②)筆内にディケンズ・グッズや写真が飾れているオールド・レザー・ボトル
ディケンッズは死の前日に最期の散歩をしたのが、このコバムあたりの森であったと伝えられている。
(2)ディケンズが新婚旅行で訪れたチョーク
さらに、ドーヴァー街道を北にロンドン方向にいくと、A226道路沿いにチョークという寒村がある。ここはディケンズが新婚当時訪れた村で、その記念に「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」と称する小奇麗な家がある。(写真③)

(写真③)「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」の銘版が掛けてある瀟洒な家
実際は、ディケンズが新婚時代に訪れた「新婚の家」は現存していないが、その家に滞在中、『ピックウィック・ペイパイズ』の一部を執筆した。また、この近くには『大いなる遺産』の主人公、孤児のピップが育った鍛冶屋のジョーの家のモデルとされる家があることでも知られている。
ディケンズは、しばしばこの村を訪問し、町外れの聖母マリア教会にも立ち寄った。(写真④)

(写真④)ディケンズがよく立ち寄った聖母マリア教会
(3)『大いなる遺産』の舞台になったクーリング
この近くには、『大いなる遺産』の舞台のモデルとなった場所が点在する。そのひとつクーリングには、作品の冒頭で主人公の孤児のピップが、脱獄囚マグウィッチと衝撃的に遭遇する墓地のモデルである「ピップの墓」がある。彼の両親と兄弟の墓地は、この村のセント・ジェイムズ教会に設定されている。 (写真⑤)
考えてみると、元々はフィクションの主人公にまつわる墓地が実際にあるのも、おかしな話ではある。しかし、このうら寂しい教会の墓地に佇んでいると、小説のヒーロー、ピップの背景をなす幼年時代のディケンズに立ち戻って、その後ロンドンに旅立ってからの波乱に満ちた作家の人生に想いをはせている私自身に気づかざるをえないのである。

写真⑤ 「ピップの墓」があるクーリングのセント・ジェイムズ教会
教会の背後には、現在は豊かな麦畑が広がっている。(写真⑥)
ここは、かつて脱獄囚マグウィッチが逃亡してきた沼地が広がっていた。「堤や土手や水門があって、牛がちらほら草を食べている、教会のむこうの、暗い、まっ平らな荒地は、沼地だということ、(・・・)風が吹きまくってくる、荒涼とした(・・・)海だという」(第1章)イメージが鮮やかに浮かぶのである。

(写真⑥)教会の裏手に広がる、かつてのテムズ川下流沼沢跡の干拓地
(4)ギャッズ・ヒル・プレース
チョークやクーリングからA226道路に戻ると、ロチェスターの北西5㌔ほどのところに、ギャッズ・ヒルという寒村がある。この街道沿いにギャッツ・ヒル・プレイスという周囲では目立つ邸宅がある。前述したようにディケンズが幼少のころ父親連れられてここを通るたびに、「いつかこのような屋敷に住めるような成功者になれるよう頑張れ」と励まされた邸宅である。(写真⑦)
少年チャールズは、この夢を忘れず、作家として大成して夢をかなえた後、1856年にロンドンを引き払い、晩年までこの邸宅に住んで、『ニ都物語』(1859)、『大いなる遺産』(1861)、『われら共通の友』(1865)などを執筆した。そして、ギャッツ・ヒル・プレイスの屋敷は、ディケンズの死の床になったのだが、晩年の作家についての仔細は、稿を改めることにしたい。

(写真⑦)ディケンズが晩年に住んだギャッズ・ヒル・プレイスの邸宅
ディケンズはロチェスター近郊に広がる緑豊かな田園からロンドンに旅立って、光と影にみちた都会で活躍するのだが、この作家の物語の主人公は、都市と田園のコントラストを色濃く反映している。特に、孤児を主人公にした小説は、『オリヴァ・トゥイスト』(1837-39)のオリヴァにしても、『ディヴィッド・コパフィールド』(1849-50)のディヴィッドにしても、『大いなる遺産』(1860-61)のピップにしても、幼少期に田園地帯からロンドンに旅立ち、苦難の末に成功を手に入れた。それは、ディケンズ自身が没落階級から階級上昇を遂げて、成功していった人生の歩みと重なり合う。都市と田園のコントラストを背景にしながら、産業革命の生んだ中産階級と労働者階級の相克、その交差する階級のドラマの原点が、チャタムやロチェスター、その近郊への旅で実感できるのである。
(おわり)