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イギリス文化探訪

イギリスを様々な視点から訪ねる。写真付きで文化探訪をお見せします。

ディケンズ・カントリー(3)

2012-04-15 07:39:47 | イギリス文学
ディケンズ・カントリー(3)―コバムからクーリングへ
山本 證

3.郊外に広がるディケンズ・カントリー 
 ディケンズ・カントリーの中核であるチャタムとロチェスターについて語ってきたが、今回はロチェスター郊外に広がるディケンズゆかり場所に目を転じよう。ここを巡る文学散歩は、ディケンズの時代がそうであったように、ウォーキングで周るのが相応しいのだが、私が過去5回ほど訪れたときには、時間的制約のためレンタカーかタクシーを利用した。
(1)メドウェイ川沿いのコバム
 ロチェスターの北端のメドウェイ川の橋をロンドン方向に渡り、左折してB260道路をメドウェイ川沿いに上流方向に6.5㌔に行くと、コバムという小さな村がある。ディケンズは、『ピックウィック・ペイパイズ』(1836-37)のなかで、「人間嫌いが住むのに選ぶ場所としては、もっとも美しい」といっているが、今日でも鄙びた雰囲気が漂う村である。
 コバムには有名なオールド・レザー・ボトルというディケンズゆかりの古いパブがある。パブ好きの私としては、当然立ち寄ることになる。(写真①)


(写真①)ディケンズゆかりの古いパブ、オールド・レザー・ボトル

 このパブに入ると、いわゆるディケンズ・グッズや写真がところ狭しとばかりに飾られており、ヴィクトリア朝にタイム・スリップした気分になる。(写真②)


(写真②)筆内にディケンズ・グッズや写真が飾れているオールド・レザー・ボトル

 ディケンッズは死の前日に最期の散歩をしたのが、このコバムあたりの森であったと伝えられている。
(2)ディケンズが新婚旅行で訪れたチョーク
 さらに、ドーヴァー街道を北にロンドン方向にいくと、A226道路沿いにチョークという寒村がある。ここはディケンズが新婚当時訪れた村で、その記念に「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」と称する小奇麗な家がある。(写真③)


(写真③)「ディケンズ・ハネムーン・コテージ」の銘版が掛けてある瀟洒な家

 実際は、ディケンズが新婚時代に訪れた「新婚の家」は現存していないが、その家に滞在中、『ピックウィック・ペイパイズ』の一部を執筆した。また、この近くには『大いなる遺産』の主人公、孤児のピップが育った鍛冶屋のジョーの家のモデルとされる家があることでも知られている。
 ディケンズは、しばしばこの村を訪問し、町外れの聖母マリア教会にも立ち寄った。(写真④)


(写真④)ディケンズがよく立ち寄った聖母マリア教会

(3)『大いなる遺産』の舞台になったクーリング
 この近くには、『大いなる遺産』の舞台のモデルとなった場所が点在する。そのひとつクーリングには、作品の冒頭で主人公の孤児のピップが、脱獄囚マグウィッチと衝撃的に遭遇する墓地のモデルである「ピップの墓」がある。彼の両親と兄弟の墓地は、この村のセント・ジェイムズ教会に設定されている。 (写真⑤)
 考えてみると、元々はフィクションの主人公にまつわる墓地が実際にあるのも、おかしな話ではある。しかし、このうら寂しい教会の墓地に佇んでいると、小説のヒーロー、ピップの背景をなす幼年時代のディケンズに立ち戻って、その後ロンドンに旅立ってからの波乱に満ちた作家の人生に想いをはせている私自身に気づかざるをえないのである。

写真⑤ 「ピップの墓」があるクーリングのセント・ジェイムズ教会

 教会の背後には、現在は豊かな麦畑が広がっている。(写真⑥)
ここは、かつて脱獄囚マグウィッチが逃亡してきた沼地が広がっていた。「堤や土手や水門があって、牛がちらほら草を食べている、教会のむこうの、暗い、まっ平らな荒地は、沼地だということ、(・・・)風が吹きまくってくる、荒涼とした(・・・)海だという」(第1章)イメージが鮮やかに浮かぶのである。


(写真⑥)教会の裏手に広がる、かつてのテムズ川下流沼沢跡の干拓地

(4)ギャッズ・ヒル・プレース
 チョークやクーリングからA226道路に戻ると、ロチェスターの北西5㌔ほどのところに、ギャッズ・ヒルという寒村がある。この街道沿いにギャッツ・ヒル・プレイスという周囲では目立つ邸宅がある。前述したようにディケンズが幼少のころ父親連れられてここを通るたびに、「いつかこのような屋敷に住めるような成功者になれるよう頑張れ」と励まされた邸宅である。(写真⑦)
 少年チャールズは、この夢を忘れず、作家として大成して夢をかなえた後、1856年にロンドンを引き払い、晩年までこの邸宅に住んで、『ニ都物語』(1859)、『大いなる遺産』(1861)、『われら共通の友』(1865)などを執筆した。そして、ギャッツ・ヒル・プレイスの屋敷は、ディケンズの死の床になったのだが、晩年の作家についての仔細は、稿を改めることにしたい。


(写真⑦)ディケンズが晩年に住んだギャッズ・ヒル・プレイスの邸宅

 ディケンズはロチェスター近郊に広がる緑豊かな田園からロンドンに旅立って、光と影にみちた都会で活躍するのだが、この作家の物語の主人公は、都市と田園のコントラストを色濃く反映している。特に、孤児を主人公にした小説は、『オリヴァ・トゥイスト』(1837-39)のオリヴァにしても、『ディヴィッド・コパフィールド』(1849-50)のディヴィッドにしても、『大いなる遺産』(1860-61)のピップにしても、幼少期に田園地帯からロンドンに旅立ち、苦難の末に成功を手に入れた。それは、ディケンズ自身が没落階級から階級上昇を遂げて、成功していった人生の歩みと重なり合う。都市と田園のコントラストを背景にしながら、産業革命の生んだ中産階級と労働者階級の相克、その交差する階級のドラマの原点が、チャタムやロチェスター、その近郊への旅で実感できるのである。
(おわり)

ディケンズ・カントリー(2)

2012-03-25 07:42:49 | イギリス文学
ディケンズ・カントリー(2)―ロチェスター
山本 證

2.ロチェスター―メドウェイ川河口の古城のまち 
 ロチェスターはチャタムの北に隣接する国道A2沿いの古い街である。ローマ時代にローマに通じる街道が通っていた。ロンドンとカンタベリーの中間に位置するこの町は、12世紀にメドウェイ川河口の建てられた古城を中心とした城下町である。
 この街は、ディケンズ・カントリーの中心である。ディケンズの幼少期に自己形成の原点となった街であるばかりでなく、主要な作品の場面設定にもしばしば登場する街でもある。
(1)ロチェスター城
 ロチェスター城はこの街の中心的存在で、12世紀にノルマン人が建てた。この城の現役期間は短く、その後長く放置され荒れ果てた。多くの戦火を受け何度となく修復されて、今の姿で残っている古城である。ディケンズは『ピックウィック・ペーパース』(1837)のなかで、「堂々たる廃墟」、「ああ、美しい場所」と歌い上げている。(写真①)


(写真①)街の北側のメドウェイ川河口に堂々とそびえる廃墟の古城、ロチェスター城

 城壁に登ると、この壮麗な大聖堂建築の全貌を眺望出来る。この城やロチェスター大聖堂を創建したのは、ロンドン塔を設計したガンダルフで、この地の主教だった。11世紀の人で大半がネオゴシックの再建だが、正面入口(ファサード)は12世紀ロマネスク時代のものである。
 このタンパン(建物入口上の横木とアーチによって区画された装飾的な壁面)には、四福音書家のシンボルに囲まれた栄光のキリスト像などが彫られている。扉口のアーチ型のヴシュールは繊細で端正な装飾であり、円柱に彫られた細長い人物像はフランスの影響を受けている。身廊の下部とトリビューンは太い柱に支えられており、随所にノルマン的な装飾や意匠が見られる。12世紀の回廊の跡が残っており、ノルマンらしいアーチが残されている。
 最上階に登り、屋上からメドウエイ川河口方向を見下ろすと、行き交う船舶の向こう岸には、後述するディケンズ・カントリーの中心地、『大いなる遺産』の冒頭の舞台となったクールリング方向が見渡せる。(写真②)


(写真②)ロチェスター城の屋上からメドウェイ川河口方向の眺め

(2) ロチェスター大聖堂
 建立されたのは604年であるが、今の大聖堂の姿になったのは1080年の建造時からである。ノルマンの司教ガンドルフによって作られた。同時にベネディクト派修道院も併設されている。13世紀には聖ウィリアム公の援助でゴシック式に改築されるが、援助金が底をつき、ノルマン・ロマネスク様式に変更された。14世紀に入口のアーチを造り替えて、ほぼ今の姿になった。ディケンズ自身はここの墓地に埋葬されることを望んだそうだが、実際はウエストミンスターのポエッツ・コーナーに眠っている。(写真③)


(写真③)11世紀に建造されたノルマン・ロマネスク様式のロチェスター大聖堂

(3) タウン・センターのハイストリート
 チャタムに隣接するロチェスターの街中にも、近郊のコバム、チョークやクーリングにもディケンズ作品のゆかりの地が広がっている。いわば文学散歩のメッカである。ロチェスター駅に降りて、まず情報を入手するには、タウンセンターに入りハイストリート(写真④)の東側にあるツーリスト・インフォーメーション(写真⑤)に立ち寄るとよい。ディケンズゆかりの文学散歩地図が記載されているパンフレットが入手できる。


(写真④)ロチェスターのタウン・センターの中心街ハイストリート


(写真⑤)ディケンズ情報が入手できるハイストリートのツーリスト・インフォーメーション

①レストランになっているパムブルチィックの家 ツーリスト・インフォーメーションのすぐ前に、ディケンズの『大いなる遺産』に出てくるピップの伯父パムブルチィックが住んでいたという設定の家のモデルが現存する。この家は三軒続きのティンバー・ハウスの一番左側の家である。なかなか味の良いイギリス料理を出すレストランになっている。私はこの地を訪れる時には、いつもここで昼食をとることにしている。(写真⑥)


(写真⑥)今はレストランの『大いなる遺産』のパムブルチィックが住んでいた家のモデル(左側)

②イーストゲイト・ガーデン内のローマに通じる街道跡とスイス・シャーレ
 ハイストリートを城址方向に少し行くと、右側にヴィクトリア朝様式の3階建ての豪華な邸宅、イーストゲイト・ハウスが人目を引く。近年まで市民の文化的コミュニティ・センターとディケンズ資料館として利用されていたが、市当局の民営化政策であろうか、コミュニティ・センターとしては閉鎖されてしまった。(写真⑦)


(写真⑦)かつてディケンズ資料館として利用されていたイーストゲイト・ハウス

イーストゲイト・ハウスの庭園イーストゲイト・ガーデンズ内にはローマ時代のローマに通じた街道の石畳の道路跡が保存されていることでも知られている。(写真⑧)


(写真⑧)イーストゲイト・ガーデンズ内に保存されているローマ時代の道路跡の石畳

 また、ディケンズは晩年に、ギャッズ・ヒル・プレイスの邸宅の庭に建っていたスイス・シャーレ(スイス人のディケンズ崇拝者から贈られたという山小屋風の書斎)で文筆活動にいそしんでいたが、彼の死後、このスイス・シャーレは、イーストゲイト・ガーデンの庭園内に移築されている。(写真⑨)


(写真⑨)イーストゲイト・ガーデンに移築されたディケンズの書斎スイス・シャーレ

③ロイヤル・ヴィクトリア&ブル・ホテルとギルド・ホール
 ハイストリートをさらに城址方向に行くと、左側にディケンズゆかりのロイヤル・ヴィクトリア&ブル・ホテルがある。ここはディケンズの時代にはブル・ホテルと呼ばれ、『ピクウィック・ペーパーズ』で描かれている。(写真⑩)


(写真⑩)ディケンズゆかりのロイヤル・ヴィクトリア&ブル・ホテル

 このホテルの向かいには、今は博物館になっているギルド・ホールが建っている。ここもディケンズにゆかりがあり、『大いなる遺産』で描かれている。(写真⑪)


(写真⑪)ディケンズ『大いなる遺産』に描かれているギルド・ホール・ミュージアム

(4) レストレーション・ハウス
前述のイーストゲイト・ハウス近くのクロウ・レーンを南に入って数百メートルいった左側にレストレーション・ハウスがある。ここは、数々のディケンズゆかりの屋敷や建物の中で、もっとも感銘深い建物である。というのも、『大いなる遺産』の舞台のモデルのひとつとなった屋敷で、主人公ピップが幼少のころ奉公に通ったハビシャム夫人の邸宅サティス・ハウスのモデルであるからである。(写真⑫)


(写真⑫)『大いなる遺産』で、ピップが奉公に通ったハヴィシャム夫人の屋敷のモデル

 このレストレーション・ハウスは、街の中心部の閑静な公園の正面にある。結婚に破れたハヴィシャム夫人が可愛らしい娘エステラと陰鬱な孤独の生活をおくっている館であるが、そのイメージとは逆に、この邸宅は実際は166年に王政復古したチャールズ二世が投宿したと案内人が誇らしげに語るほど、部屋の内部は重厚な雰囲気の建物である。(写真⑬)


(写真⑬)チャールズ二世が投宿したという重厚な雰囲気の館の内部

 とりわけ美しいく印象的なのは、緑豊かな屋敷裏の庭園である。ここは、ピップとエステラの愛の物語の原点であり、『大いなる遺産』の最終章の舞台設定にも使われた。ちなみに、サティス・ハウスという名称の館は、ロチェスター城址の近くの高台に現存するが、ディケンズはレストレーション・ハウスにサティス・ハウス(満足邸)という名称を借用して、いかにも皮肉な名称をつけたのである。(写真⑭)


(写真⑭)ピップとエステラの愛の原点である『大いなる遺産』最終章の舞台となった庭園

(つづく)

ディケンズ・カントリー(1)

2012-02-24 08:47:31 | イギリス文学
ディケンズ・カントリー(1)―チャタム
山本 證

はじめに―都市と田園のコントラス
 イギリス産業革命期を作品テーマの背景とする19世紀のイギリスの文人は多い。その代表格はチャールズ・ディケンズ(1812~1870)である。本年2012年はディケンズ生誕200年に当たる。この連載は、これらの産業革命の文人たちの代表作を読み解きながら、文学論ではなく文化論として、作家や作品のゆかりに地への旅日記をまとめたエッセイである。
 産業革命期のイギリスは、18世紀後半から19世紀中頃にかけて上昇期をたどり、1851年の第1回ロンドン万博あたりをピークに繁栄し、大英帝国は「世界の工場」として覇権を誇った。その後、徐々に下降線をたどって、20世紀初頭の第1次世界大戦と第2次大戦の戦間時代までに、アメリカに主導権を譲った。
 この時代の社会矛盾は、言うまでもなく、大工場生産の産業主義がもたらす階級矛盾・貧富の格差と「日の沈むことのない大英帝国」といわれたアジア・アフリカ・カリブ海などの植民地支配の軋轢である。しかし、ディケンズの初期から中期の時代には、植民地支配の矛盾が社会問題として顕在化しておらず、ディケンズの主な産業革命による矛盾を描いたテーマは、階級矛盾や貧富の格差に焦点が当てられた。
 作家がどのよう社会格差の矛盾に切りこんだか、それはなぜなのかに迫りながら、ディケンズを育てた文学風土への旅をとおして、その秘密を解き明したい。ディケンズは主としてロンドンで活躍したのだが、イギリスの緑豊かな田園を背景にした文学作品が多い。その都市と田園のコントラストの光と影の関係を、産業革命期のイギリスの光と影に重ね合わせて、ディケンズの幼少期に育ったケント州のチャタムとロセスターに、ディケンズ文学のルーツをみてみよう。(写真①)


(写真①) ディケンズ・カントリーの入口、BRチャタム駅

1. ディケンズが幼年期を過ごした思い出のチャタム―作家の原点
(1) 幸せなチャタム時代
 ディケンズの生誕地はイギリス南部海岸の軍港都市ポーツマスである。父親が海軍経理部に勤務していた関係で、一時ロンドンに転勤のあと、5歳の時にケント州チャタムに移住した。チャタムはテムズ河口から北海沿いに数十キロ南東にいったメドウェイ川河口の海軍造船所の町で、ローマ時代からの城下町ロチェスターに隣接している。(写真②)


(写真②) チャタムの高台の公園からのメドウェオ川河口の眺め

 チャタムとロチェスター、その近郊の田園地帯は、「ディケンズ・カントリー」といえるほど作家ゆかりの地が点在する。作家の生涯のなかで最も幸せであったと、自ら語った少年時代の思い出の地であり、功なり名を遂げて生涯を終えた終焉の家ギャッツ・ヒル・プレイスは、ロチェスターから北西へ約5キロ、ドーヴァー街道をロンドン方向にいった田園地帯にある。いわば、ディケンズの原点ともいえる「光」に満ちたカントリー・サイドである。
 このチャタムの幸せな少年期の体験は、後にディケンズの文学のテーマに大きく反映しているように思われる。私はチャタムからロチェスター、その近郊のディケンズゆかりの地を過去5回ほど訪れた。訪れるたびに想うのは、時代を超えてディケンズの世界が追体験できると想えるほど、二百年近く以前の雰囲気が残されていることである。
 ディケンズの父が居を構えたのは、現在はチャタム駅前近くのオードナンス・テラス2番地(現在、11番地)に現存する三階建のテラス・ハウスである(写真③)。中産階級の中層(ミドル・ミドルクラス)の人々の居住区で、街外れの高台にある閑静な住まいである。ディケンズが住んでいたと記された四角いプラークが貼られている。ここから数百メートルロチェスター方向に行った高台の公園から、眼下にロチェスターの町並み、周囲の景色やメドウェイ川が見渡せる。ディケンズも外洋に出て行く大型船を眺めながら、少年時代の楽しい夢を紡いだに違いない。


写真③ 左から二軒目が中産階級が住んだディケンズの家

 ディケンズの父親は息子を連れて隣町ロチェスターの大聖堂や城址を眺めながらメドウェイ川を越えて散策した。ロンドンに通じるローマ時代からのドーヴァー街道沿いにギャッツ・ヒル・プレイスという周囲では目立つ邸宅がある。父親はここを通るたびに、いつかこのような屋敷に住めるような成功者になれるよう頑張れと励ましたという。少年チャールズは、この夢を忘れなかった。現実に作家として大成し、夢がかなって1856年から晩年まで、ギャッツ・ヒル・プレイスの屋敷に住むこととなった(写真④)。このことの仔細は、後述することになる。


写真④ ディケンズが晩年住むことになるギャッツ・ヒル・プレイスの屋敷

(2) 父親の没落の始まり
 ディケンズの少年期のチャタムの幸せな体験が、ディケンズ文学のテーマに大きく反映しているという話題に戻ろう。
 チャタムとロチェスターは、ディケンズがロンドンに出てからの苦難に満ちた人生の格闘に比較すると、相対的に明るい要素が強い思い出に地である。その源泉は、父親ジョンとの交流の心暖まる思い出である。父親の楽天的性格と子どもの陽気で天真爛漫なユーモアが共鳴して、ディケンズ親子は、友だちのような温かい思い出を紡いだ。こうした幼年期の肯定的要素は、のちにディケンズの作風が深刻なテーマに肉薄しながらも、絶えずヒューマンな楽天性やユーモアを作品のそこここに散りばめられている特徴につながっている。
 チャタムがディケンズ文学にバックグランドとして重要なもう一つの要素は、芝居への興味を植えつけられた原点であったことである。ディケンズは子ども時代から、街中のロイヤル劇場で観劇する機会を多くもった。当時、一流の役者が来演することもあったが、大衆的などたばた劇も大いに楽しんだ。とくに、母方の遠縁の演劇青年が同居していた事情もあり、家族ぐるみで観劇を楽しんだ。この経験は、後にブルームズベリの自宅のタヴィストック・ハウスを開放して素人芝居に興じたり、自作の一節を作家自身が朗読することで有名になったエンターテインメントに引き継がれるが、何よりも長編小説の構成のなかに織り込まれた演劇的要素と読者の興味を物語に引き込む場面の設定に影響した。
 さらに、チャタムがディケンズ文学に与えた重要な要素は、ロンドンに出てから少年ディケンズを苦難のどん底に陥れた父親の没落の予兆がすでに始まっていたことである。いわば、少年時代の「エデンの園」の終わりの始まりである。ディケンズは『ピックウィック・ペーパーズ』(1837)でこのチャタムの街の雰囲気を軍人と水兵と造船所の職人が溢れるごみごみしたところと描いていある。
 ディケンズ一家のチャタム時代の末期、1821年3月、ディケンズ9歳のとき、中層 中産階級の居住区である高台のオードナンス・テラスから、軍需景気が後退して寂れてしまったチャタムの街中のセント・メアリーズ・プレイス18番地の長屋住宅に転居した。(写真⑤)


(写真⑤)中央がセント・メアリーズ・プレイス18番地のディケンズが住んだ長家

 一家の経済状態がミドル・ミドルクラスからロワー・ミドルクラス(下層中産階級)のそれに階級下降し始めたのである。この原因は父親の楽天主義によるルーズな経済観念のせいであり、一家は家計の手綱を引き締めなければならなくなった。のちに、一家がロンドンに出てから、一家の経済的困窮がどれほどディケンズ文学に影響したかは、後述することになる。いずれにせよ、気位だけは中産階級の自負を持ちながら、労働者階級と紙一重の生活状態に陥った。そこから、ロンドンで青年期に刻苦精錬してジャーナリストから作家となり、階級上昇を遂げてアッパー・ミドル・クラス(上層中産階級)に登り詰めるのだが、そのどん底のスタート・ポイントがチャタムにあったのである。晩年の『無商旅人』(1860)では、ロチェスターからチャタム駅に入るトンネル入口を「醜く暗いトンネルの怪物」と表現しているほどである。
 今日、チャタムのダウンタウンの目抜き通りを歩いてみると、どことなく野暮で誇り臭い町並みである。次回に紹介するロチェスターの伝統的なイギリスの町並みとは、雲泥の差である。(写真⑥)


(写真⑥) 野暮臭いチャタムのダウンタウンの目抜き通り

(つづく)