戦争当時を思い出す。
自分は当時14才「国民学校、高等科2年生」
現在の中学2年生である。
軍国主義で戦争は末期、大中都市は空襲で焼け野原、
自分たちは学徒動員、男子は軍需工場へ飛行機の部品作り、
女子は織物工場へ軍服、毛布、生産手伝い、
又、男子は少年兵として「陸、海、空、へ全員志願」
自分も海軍乙種予科練習生へ志願、
広島県大竹海兵団、第2試験後入隊待ち。...終戦
当時物資不足で食糧難腹が減って腹が減って、ふらふらする勝までは辛抱。
当時歌った歌を思い出す。
勝ち抜く僕ら小国民、天皇陛下の御為に、死ねと教えた父母のおお、
堅い教えを受け継いで.........
後、涙がでて書けません。
戦争のない平和な世界で有ります様にお祈りします。
自分は当時14才「国民学校、高等科2年生」
現在の中学2年生である。
軍国主義で戦争は末期、大中都市は空襲で焼け野原、
自分たちは学徒動員、男子は軍需工場へ飛行機の部品作り、
女子は織物工場へ軍服、毛布、生産手伝い、
又、男子は少年兵として「陸、海、空、へ全員志願」
自分も海軍乙種予科練習生へ志願、
広島県大竹海兵団、第2試験後入隊待ち。...終戦
当時物資不足で食糧難腹が減って腹が減って、ふらふらする勝までは辛抱。
当時歌った歌を思い出す。
勝ち抜く僕ら小国民、天皇陛下の御為に、死ねと教えた父母のおお、
堅い教えを受け継いで.........
後、涙がでて書けません。
戦争のない平和な世界で有ります様にお祈りします。
無かったけど、父が終戦の直前に戦死した事がなり
より辛いし、母が女手一つで良くも私たち子どもを
大してひもじい思いもさせず、必死になって育てて
下さった今は無き母に感謝せずにはいられません。
今、一社会人として生活できるのも尊い命を国に捧
げた父のみならず、多くの先人方、或いは近所の方々
のお陰であると、この歳になって特に思う今日この頃
です。
お父さんが戦死され大勢の子供を抱え、
子供に食べさせて自分はろくろく食べず、
必死の生活だったと思います。
親、先祖に感謝の気持ちを忘れずに、
平和な世界で有りますように。