歯科技工管理学研究

歯科技工管理学研究ブログ
歯科技工士・岩澤 毅

若月俊一  「村で病気とたたかう」

2020年08月22日 | 基本・参考
話の舞台を、戦争が終わる前の信州、千曲川沿いの南佐久郡臼田町(現・佐久市)
の佐久病院(現・JA長野厚生連佐久総合病院)に移そう。
こんにちの佐久総合病院グループは、高度専門医療と救命救急を担う「佐久医療センター」
(450床)と地域に密着した「佐久総合病院本院」(309床)、南佐久の中核病院
である「小海分院」(99床)を中心に老人保健施設や訪問看護ステーションなどを傘下
に収め、信越地方有数の医療複合体に発展している。
「農民とともに」をスローガンに掲げ、国際保健医療にも熱心で「地域医療のメッカ」
と称されているが、そのころはまだ診療所に毛が生えたような病院だった。

ここに敗戦の5か月前、3人目の医師として若月俊一(わかつきとしかず、のち院長、名誉総長:
1910ー2006)が赴任して、山あいの町は驚天動地の医療革命の最前線に変わった。
庶民にとって医者にかかるのは身上を潰すほどの「ぜいたく」なのに、若月は誰でも診る。
それどころか「手術」までして命を助けてくれる。
驚くなという言うほうが無理だった。

若月は、1936年に東大医学部を卒業している。
東大分院外科の大槻菊男教授のもとで修行を積んだ。
徴兵された若月は、軍医見習士官として牛込の陸軍軍医学校で学ぶ。
ノモンハンに出征する直前、十代で患った肺結核がぶり返し、
「東一(臨時東京第一陸軍病院)」に半年間入院した。
退院して除隊の命令が届いた。

人の運命は不思議なものだ。
あの石井四郎と若月は面識があった。
後年、若月は「石井軍医のことは知っていた。
酒席の誘いも受けた。
部隊にも勧誘されたが、母親の体調がすぐれないとか何とか、ごまかして逃げた。
同期の戦友はみんな死んだよ」と語っていた、と佐久病院の医師が教えてくれた。
石井から逃げて運命が変わったひとりだろう。

太平洋戦争中、若月は「大衆の中に身をひそめて大衆とともに闘うことが本すじ」と考え、
石川島造船所や立川飛行機、石川県の小松製作所などの軍需工場に入った。
診療をしながら労働災害の調査をし、学会で何度か発表をした。

それが特別高等警察(特高)の目にとまる。
治安維持法違反の容疑で、東京の目白警察署に勾留された。
まる1年、留置所に入れられ、毎日、尋問で責め立てられて、唐突に釈放される。
恩師の大槻教授を訪ね、若月は畳に手をついて詫びた。
そのときの大槻の反応を、自伝『村で病気とたたかう』にこう記している。

「いや、君が主張したようにこの戦争はどうも負けらしい。
東京もまもなく焼野原になるだろう。
僕は天皇の侍医だから、天皇といっしょに東京にとどまって死ぬつもりだ。
しかし、君のような新しい考えをもっている者は、生きのびて国民のために尽くしてくれないか。
国破れて山河ありというが、たとえ日本が負けても日本の民族がほろびるようなことはあるまい。
新しい日本の再建のために、山の中で農民のために働く気はないか」

こうして信州・臼田の佐久病院への赴任が決まったのだった。

臼田の町は、北に浅間山、南は八ヶ岳連峰がそびえ、高山列車の小海線がコトコト走るのどかさと、
旧天領の封建的な気風が入り交じっていた。
若月は地域で唯一の外科医だった。
手術治療をしなくては意味がない。
しかし手を消毒する滅菌水の設備もなかった。
どうにか設備を整え、3か月後には乳がんの手術を行う。
外科治療は外来だけでは無理なので、病院内の物置を片づけ、患者を入院させた。
臼田の人たちは目を白黒させて驚く。

というのも、それまで臼田や近隣の町村の農民は医療に手が届かなかった。
医師は、遠い小諸や長野から呼ばなければ診てもらえない「ぜいたく」な相手だった。
医師に往診を頼むことを、「芸者をあげる」に似たニュアンスで「医者をあげる」と言う。
よほどの資産家でなければ、医者をあげての大盤振る舞いはできず、
手術など夢の夢だったのである。

若月の診療は衝撃的だった。
『ノルトマン、キルシュネルの手術書』全10巻や『ドイツ医学中央雑誌』
と首っ引きで帝王切開から慢性中耳炎、泌尿器の病気と、あらゆる手術を行う。
しかも手術場に観覧席を設け、患者の家族に手術を必ず見学してもらい、
術後の経過を一緒に見守った。
当初、手術に恐怖心を抱いていた人たちも、その効果に目をみはる。
青年団や婦人会と連絡を取って、「出張診療」にも出かけた。
若月の名は近郷近在に知れわたる。
戦争が終わり、町にも虚脱感が漂ったが、若月の診療は止まらなかった。
農民でも手術が受けられて、医療に革命が起きたようだった。

しかし、1946年に佐久病院に従業員組合が結成され、初代組合長に若月が選ばれて
上部団体の長野県農業会(のち解体されJA農業協同組合)と団体交渉をしたあたりから、
雲行きがおかしくなった。
農家の「純粋青年」たちが、病院は臼田の秩序を壊す、と反感を持つ。
メーデーで若月組合長は「労働者農民の統一戦線をつくろう」と演説し、
医師や看護師が白衣のデモ行進をすると、即座に反動が現れた。

長野県警察で長く特高を務め、公職追放された人物が、事務長の肩書で佐久病院に赴任してくる。
地元の保守勢力は、露骨に病院運営を妨げた。

「命が惜しくば直ちに臼田を撤退すべし」
「汝の一族に鉄槌下るべし」
と脅迫文が舞い込んだ。
新聞に「病院はアカの巣窟である」と載る。
長野県農業会本部は、組合を解散しなければ病院を閉鎖する、と脅した。
若月は病院長に就任し、農業会本部との十数回の激しい交渉を重ね、
前代未聞の「労働協約」を結ぶ。
病院の診療体制は、辛うじて守られた。

戦後民主主義の価値観がぶつかる混乱期に若月は感染症差別ともわたり合った。
そうして佐久病院に「伝染病棟」を建てると言いだしたのだ。
またもや町は上を下への大騒動となった。
『村で病気とたたかう』をもとに「伝染病棟」建設の顛末を再現しておこう。

「避病舎」と外科手術

若月には、臼田に腰を落ち着けると決めたときから気がかりなことがあった。
町のはずれの小さな神社のそばの「避病舎」だ。
平屋のそまつな建物で、障子は破れて、畳はぼろぼろ、便所は汚い。
井戸にポンプはなく、釣瓶(つるべ)で水をくみ上げる。
伝染病にかかった人は、ここに入れられ、一日一度だけ医者の往診を受けた。
三度のお粥は保健婦(現・保健師)がこしらえる。
農繁期には建物を消毒し、託児所にも利用するのだが、あばら家同然で不衛生きわまりない。
伝染病患者は姥捨(うばす)てのような処遇を受けていた。
町の衆は「避病舎」ではなく、「死病舎」と陰口をたたく。

そのころ、農村には赤痢にジフテリア、腸チフス、発疹チフス、天然痘と伝染病がはびこっていた。
若月は、他人ごとではないと思い、寒気がした。

ある夜、「先生! 先生! 急患です。
子どもが大変です」
と保健婦が駆け込んできた。

眠い目をこすりながら起きていくと、

「避病舎にいるジブテリアの子どもが死にそうなんです。
喉(のど)のなかが腫れ上がってつまって、夜中になって急に息ができなくなりました。
ヒイヒイいって、だんだん顔が紫色に腫(は)れあがってきました。
チアノーゼです。
まるで喉を締め上げられているようで、とても見ていられません」

と保健婦は息せき切って喋り、若月に手術を哀願した。

「先生の手で気管を切開する手術をやっていただけませんか。
たぶん助かります」

若月は気管切開術の経験がなかった。

ジフテリアは、ジフテリア菌による急性感染症である。
患者や無症候性保菌者の咳などの飛沫を介して感染する。
潜伏期間は2ー5日。
感染しても症状が出るのは1割で、多数の無症候保菌者を介して感染する場合がある。
症状は、咽頭(いんとう)や喉頭(こうとう)の病変が多く、発熱に嘔吐、頭痛、咳に始まり、
扁桃(へんとう)や気道に「偽膜」が形成されて呼吸困難をきたす。

佐久病院26年の歴史を語りおえて、気恥ずかしいというより、むしろ
危険を犯したような感が強い。
なぜなら第一に、佐久病院を作ったのは私個人ではなく、従業員全部の力であり、
農民の協力であり、指導し支持してくれた多くの人々のおかげである。
第二に、佐久病院を最初の20ベッドから今日のような780ベッドの病院にした
というような、形のうえのことは第二義的なことであって、
この病院の本当の値うちは、「農民の健康を守る」仕事を、いかに実行するかにかかっており、
それはむしろ、これからの課題なのだからである。

私はこの本で、次のことを述べたいと思った。
第一に、私たちのようなインテリゲンチャにとって、農村に入り、農民とともに生活し、
その心をとらえることがいかに重要かということ。
第二に、その農村の現実の中で私たち医療保健の技術者が、その無医村的環境とたたかって、
農民の健康を守る実践をつづけることがどんなに苦しいか、しかもそれこそがどんなに大切か、
ということ。
第三に、従来、健康を犠牲にしてかえりみなかった「百姓根性」から農民を解放し、
その意識を変革して人権意識にまでたかめることの意義、である。
このことこそ、そのまま今日の日本の平和を守る運動につながるというのが私の考えなのである。

これらはいずれも、いうは易く行なうは難い問題である。
私たちの実践はまだまだ足りない。

村の中での、病気とのたたかいも、村の中だけではかたずかない問題をたくさんかかえている。
すでに具体的に述べてきたとおり、
農村の病気をとりあげれば、日本の農業全体をいやでも考えさせられる。
出稼ぎや主婦の内職による新しい「農夫症」の問題にしても、必然的に高度経済成長の批判に
ならざるをえないし、農薬公害とのたたかいは、いうまでもなく製薬資本との対決なくしては
一歩の前進もできまい。
無医村の問題も、一村だけの問題ではない。

医者は、単なる技術者であってはならないのではないか。
従来の医者はあまりにも「生物学的」にすぎた。
もっと「人間的」「社会的」医者であってほしいと、国民は願っているのである。
私ども農村医学会は、自分たちの学問を社会医学と規定している。
私どもは、社会科学的な考え方と、
ヒューマニズムの精神とを、私どもの学問の二本の柱としたいと思う。

本書を書くにあたって、佐久病院の従業員の諸君、なかでも内田直人君には特別のご厄介になった。
心から感謝したい。
佐久病院の仕事を語るについては、もっと多くの人々の名前をあげねばならなかったのだが、
「新書」という制約の中で、すべて割愛させていただいた。
それだけが筆者の心残りである。

なお、岩波書店の、名取湧子氏、海老原光義氏、田畑佐和子氏、後藤洋一氏の御協力に
心からお礼を申しあげたい。

「村で病気とたたかう」  おわりに  1971年2月10日  若月俊一

https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%91%E3%81%A7%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%A8%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%9D%92%E7%89%88-%E8%8B%A5%E6%9C%88-%E4%BF%8A%E4%B8%80/dp/4004150132/ref=sr_1_1?adgrpid=105767809562&dchild=1&gclid=Cj0KCQjw4f35BRDBARIsAPePBHyL-Pg17O_4FTmf-SbGyoITsQAn6V9g8Vhp68VbVmnPAMDYjbxBrl0aAi-hEALw_wcB&hvadid=447919668121&hvdev=c&hvlocphy=1009132&hvnetw=g&hvqmt=e&hvrand=14859751971291592280&hvtargid=kwd-398191152477&hydadcr=18482_11151908&jp-ad-ap=0&keywords=%E6%9D%91%E3%81%A7%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%A8%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%86&qid=1598074710&sr=8-1&tag=googhydr-22

村で病気とたたかう (岩波新書 青版) Paperback Shinsho – June 12, 2002
by 若月 俊一 (著)

長野県臼田町――予防医学や巡回診療に数々の業績を残し,国際農村医学会の主催地ともなった佐久病院がそこにある.戦前の学生運動の挫折後,初心を忘れず農村に入り,敗戦後院長となった著者が,戦後民主主義を身をもって実践しつつ築き上げたこの病院の苦闘の歴史から,医療とは何か,人間の生き方の問題等多くの示唆が得られよう.


最新の画像もっと見る