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AKIRA-NEWS by goo

Tcupサ終のため2022年春に移籍しました。岩手盛岡のことやサッカーなどスポーツのことを書きたいと思います。

3.17 盛岡のこと②(盛岡の歴史)

2018-03-18 20:27:00 | 岩手のネタ
盛岡城下へ戻りましょう。

まずは盛岡城のディテールについてお勉強。
ということで、本丸から三の丸、周囲の模型を観想。周辺は桜山界隈(随分前に桜山界隈再開発が論じられたが、太田和彦氏が反対意見を岩手日報に寄稿して立ち消えになった)や現在の公園になります。

公園内の赤い橋は元々は本丸と二の丸の渡り廊下でした。

(2008.1 僕が橋の上から撮影したものです)

廃城後に建てられたのが南部中将銅像ですが、第二次世界大戦における金属供出で消えてしまいました。

(同じ日に撮影)

そもそも盛岡城の前身・不来方城は福士氏の居城でした。その中枢部だった淡路丸をリノベーションしたのが盛岡城と言うことになるのですが、花崗岩の石垣は17世紀半ばに完成しました。

1634年、盛岡藩は10万石と公表されましたが、30年後に南部重直の急逝により重信・直房の両名が領土を分割(これについては水戸黄門でもネタにしてました)すべしという裁定が下りました。
これにより直房の八戸藩2万石が生まれることになり、盛岡藩は8万石に減らされました。

江戸時代後期になると、盛岡藩は20万石まで石高を回復しますが、凶作や石高相応の蝦夷地警備負担により財政難にあえぐことになります。
当然重税に苦しむ庶民の怒りはおさまりません。こうして起きたのが三閉伊一揆なのです。三浦命助や佐々木弥五兵衛、畠山太助の一揆は藩政改革につながることになります。

幕末、南部両藩は隣国伊達(仙台・一関藩)らと奥羽越列藩同盟を立ち上げ薩長新政府軍と対決しますが、秋田藩佐竹氏の裏切り(それを薩摩が支援)により敗北。これにより伊達領内である白石城(宮城県白石市・片倉家のお城ですね)へ転封されました。

白石転封時の南部家当主・南部利恭は盛岡帰郷後にいち早く廃藩置県を行ないました。一関県と合併し岩手県が生まれたのはその2年後です。
(このへんについては以前岩手日報で「いわて県民の日を」ということで寄稿した文が詳しいです)
ちなみに盛岡市誕生は下って1889年、盛岡県誕生の19年後になります。この時に市章として現在まで使われている十字菱のエンブレムが登場しますが、これは先述の列藩同盟で盛岡藩が肩に着けていたタグのエンブレムだったりします。

盛岡市誕生後、旧城下町には盛岡町家が並ぶようになります。そして石川啄木、宮沢賢治(他金田一京助や野村胡堂ら)を輩出する時代へ続くのですが…それは別の話(by森本レオ)。

3.17 盛岡でのこと①(盛岡昔ばなし)

2018-03-18 19:41:00 | 岩手のネタ
3月17日 晴れ

盛岡市内丸のもりおか歴史文化館に行きました。


実は金払って入館したのはこれがはじめてだったりします。

入り口には盛岡藩領の前史として645年から1600年までの盛岡の歴史と、南部領のディテール。
古地図で陸奥の国を見ると青森県東部(と言うか大間崎・尻屋崎)から岩手県中央部(北上・遠野・釜石)までが南部領となる。これは陸奥の北3分の1は南部領だったということですね。

そしていよいよ御城下へ。まずは新山舟橋、今の明治橋のところにかかっていた船を繋いだ橋です。
現在、舟橋と船着場があった場所に下町資料館があります。よかったら見てください。但し休みの日しか空いてませんが…

その後城下二十八丁の話(材木町や肴町、青物町がそれにあたる)など見て、盛岡城コーナーへという時に、小野寺瑞穂さんによる盛岡弁昔ばなしがまもなく始まりますよ、というアナウンス。
場所は近代の町家をモチーフにしたスペース(これは後で説明します)でした。来ていた人は比較的母よりお歳を召された方が多いようで…


ここで小野寺瑞穂さんについてご説明。

盛岡弁の語り部として知られ、岩手県内ではめんこいテレビ「山海漬」のナレーターとしてもおなじみ。その柔らかみのある声質は優しい波平さんみたいだなと思います。

まずは畑中館長(この方も盛岡弁の達人として有名)からご挨拶。
その中で県外人から「あなた、語り部の方ですか?」と言われたことがある、と言う話。確かに県外の人から見れば畑中さんも語り部に見られるのかなぁ、と思います。でも「語り部」というのは盛岡じゃねぇぞ!と心の中で思うのです(むしろ遠野でしょ)。

小野寺さんのお話は3つ。
①「わからない手紙」
昔、沢内村の山奥に住んでいた若者が、盛岡城下で見聞を広めようとしていた。
日も暮れて、どこに泊まろうかとした若者は、ある大店に泊めてもらえることに。そこで歓待を受けた若者はとんちんかんなことをメモしてしまう。

その後帰ってきた若者は、ある家で事故に遭遇。医者に手紙を書いたが、城下で覚えたとんちんかんな言葉が列挙された手紙を医者が読めるはずもなく、若者は赤っ恥を書いてしまった。

②「婆様の見た極楽」
昔、若い夫婦と暮らす婆様がいたそうだ。
若い夫婦は年老いた婆を山に捨てようと決め、「極楽へ連れて行く」ともっこ(骨組みだけのリュックと考えてください)に婆を乗せていった。

山の崖の上で婆の息子は婆を突き落とすが、婆は藤蔓につかまって無事だった。
夜、お堂で一夜を明かそうとした婆は、山賊たちの酒盛りを目撃。そこで銭や金品も見てしまった。
お堂から出た婆は傷だらけで、山賊たちはヤマンバだと勘違い。銭や金品を置いて逃げてしまった。

翌朝、婆は山で極楽を見たといったが、それを真似した息子夫婦は崖から落ちて一巻の終わり。

③「ケラ売り爺様」(ケラ=蓑、雨具の一種。蓑虫や隠れ蓑の蓑はここから来ています)
ケラ売り爺様は、マダ(シナノキ)の皮をはいでケラを作り、それを街で売って生活してたど。

ある日爺様の前に大男が現れた。ひしゃくのようなキセルに火をつけたり、いろいろやっていると、大男が負傷していたのを見て処置することに。
この処置に感謝し、大男は何かお礼したいと言うことになったが、商売道具をほったらかしにする間の悪さ…おまけに三日三晩ひきこもり。

数日経って爺様は商売道具を忘れたことに気付く。その時大男が夜になってマダ皮を爺様の家に持ってきてくれた。さらに春には山菜、秋にはキノコやクルミ・栗を届けてくれた。
こうして爺様は裕福に暮らすことができた。まさに「どんどはれ」=ハッピーエンド。