盛岡城下へ戻りましょう。
まずは盛岡城のディテールについてお勉強。
ということで、本丸から三の丸、周囲の模型を観想。周辺は桜山界隈(随分前に桜山界隈再開発が論じられたが、太田和彦氏が反対意見を岩手日報に寄稿して立ち消えになった)や現在の公園になります。
公園内の赤い橋は元々は本丸と二の丸の渡り廊下でした。

(2008.1 僕が橋の上から撮影したものです)
廃城後に建てられたのが南部中将銅像ですが、第二次世界大戦における金属供出で消えてしまいました。

(同じ日に撮影)
そもそも盛岡城の前身・不来方城は福士氏の居城でした。その中枢部だった淡路丸をリノベーションしたのが盛岡城と言うことになるのですが、花崗岩の石垣は17世紀半ばに完成しました。
1634年、盛岡藩は10万石と公表されましたが、30年後に南部重直の急逝により重信・直房の両名が領土を分割(これについては水戸黄門でもネタにしてました)すべしという裁定が下りました。
これにより直房の八戸藩2万石が生まれることになり、盛岡藩は8万石に減らされました。
江戸時代後期になると、盛岡藩は20万石まで石高を回復しますが、凶作や石高相応の蝦夷地警備負担により財政難にあえぐことになります。
当然重税に苦しむ庶民の怒りはおさまりません。こうして起きたのが三閉伊一揆なのです。三浦命助や佐々木弥五兵衛、畠山太助の一揆は藩政改革につながることになります。
幕末、南部両藩は隣国伊達(仙台・一関藩)らと奥羽越列藩同盟を立ち上げ薩長新政府軍と対決しますが、秋田藩佐竹氏の裏切り(それを薩摩が支援)により敗北。これにより伊達領内である白石城(宮城県白石市・片倉家のお城ですね)へ転封されました。
白石転封時の南部家当主・南部利恭は盛岡帰郷後にいち早く廃藩置県を行ないました。一関県と合併し岩手県が生まれたのはその2年後です。
(このへんについては以前岩手日報で「いわて県民の日を」ということで寄稿した文が詳しいです)
ちなみに盛岡市誕生は下って1889年、盛岡県誕生の19年後になります。この時に市章として現在まで使われている十字菱のエンブレムが登場しますが、これは先述の列藩同盟で盛岡藩が肩に着けていたタグのエンブレムだったりします。
盛岡市誕生後、旧城下町には盛岡町家が並ぶようになります。そして石川啄木、宮沢賢治(他金田一京助や野村胡堂ら)を輩出する時代へ続くのですが…それは別の話(by森本レオ)。
まずは盛岡城のディテールについてお勉強。
ということで、本丸から三の丸、周囲の模型を観想。周辺は桜山界隈(随分前に桜山界隈再開発が論じられたが、太田和彦氏が反対意見を岩手日報に寄稿して立ち消えになった)や現在の公園になります。
公園内の赤い橋は元々は本丸と二の丸の渡り廊下でした。

(2008.1 僕が橋の上から撮影したものです)
廃城後に建てられたのが南部中将銅像ですが、第二次世界大戦における金属供出で消えてしまいました。

(同じ日に撮影)
そもそも盛岡城の前身・不来方城は福士氏の居城でした。その中枢部だった淡路丸をリノベーションしたのが盛岡城と言うことになるのですが、花崗岩の石垣は17世紀半ばに完成しました。
1634年、盛岡藩は10万石と公表されましたが、30年後に南部重直の急逝により重信・直房の両名が領土を分割(これについては水戸黄門でもネタにしてました)すべしという裁定が下りました。
これにより直房の八戸藩2万石が生まれることになり、盛岡藩は8万石に減らされました。
江戸時代後期になると、盛岡藩は20万石まで石高を回復しますが、凶作や石高相応の蝦夷地警備負担により財政難にあえぐことになります。
当然重税に苦しむ庶民の怒りはおさまりません。こうして起きたのが三閉伊一揆なのです。三浦命助や佐々木弥五兵衛、畠山太助の一揆は藩政改革につながることになります。
幕末、南部両藩は隣国伊達(仙台・一関藩)らと奥羽越列藩同盟を立ち上げ薩長新政府軍と対決しますが、秋田藩佐竹氏の裏切り(それを薩摩が支援)により敗北。これにより伊達領内である白石城(宮城県白石市・片倉家のお城ですね)へ転封されました。
白石転封時の南部家当主・南部利恭は盛岡帰郷後にいち早く廃藩置県を行ないました。一関県と合併し岩手県が生まれたのはその2年後です。
(このへんについては以前岩手日報で「いわて県民の日を」ということで寄稿した文が詳しいです)
ちなみに盛岡市誕生は下って1889年、盛岡県誕生の19年後になります。この時に市章として現在まで使われている十字菱のエンブレムが登場しますが、これは先述の列藩同盟で盛岡藩が肩に着けていたタグのエンブレムだったりします。
盛岡市誕生後、旧城下町には盛岡町家が並ぶようになります。そして石川啄木、宮沢賢治(他金田一京助や野村胡堂ら)を輩出する時代へ続くのですが…それは別の話(by森本レオ)。