今は違った景色になってきている・・・
でも、この時も、神様が働かれ、私を1mmずつ、変えてくださっていたと信じて感謝!
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
2015年8月16日 ルカによる福音書6章27節~36節 「愛しなさい」
この聖書の箇所は、イエス様が弟子達に向かって語られた、「平地の説教」の中の一
部分です。小見出しには「敵を愛しなさい」と書かれております。この聖書の箇所を
通じ、私がこの半年ほどの間に神様によって示されたことをお話ししたいと思いま
す。
私はマタイによる福音書5章43節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさ
い」というみことばカードを持っています。それは日めくりのようにいつめくっても
よいカードなので、自宅の机に飾ってあるものですが、なぜか、このみことばから離
れられずにいました。このカードが昨日も必要、今日も必要といった感じで、このみ
ことばが迫ってくるのです。仕事の場で、家庭で、行き詰るテーマが「敵を愛す
る」・・・この辺りに集中していたのかもしれません。それはなぜなのかわかりませ
んが、見過ごせないテーマとして、神様はこの半年、このみことばを私に示し続けて
おられました。
「敵を愛しなさい」。「敵」などと言いますと、生活の中で、ピンと来ない方もいる
かもしれません。日常生活の中では、少し大げさなような気もします。辞書によると
「敵」とは「自分に危害を加えようとしている相手」、とあります。27節を見ると、
“「敵」を愛し、「あなたがたを憎む者」に親切にしなさい”とありますから、
「敵」とは「あなたがたを憎む相手」と言いかえられるのかもしれません。もし、私
たちに危害を加えようとしたり、私たちを憎んでくるような人がいたとしたら、私た
ちは一般にどうしてしまうのでしょうか? きっと、怖い!と思ってしまい、「その
人を愛し、親切にするなんて、とてもできない、難しい」ということを感じてしまう
のではないでしょうか。
私もそのような場面、とは言わないまでも、仕事や家庭で、追い詰められてしまうよ
うなことが多々あり、そのような時、みことばを思い出して「敵を愛さなくては」
と、祈れることで乗り切ろうとすることがしばしばありました。しかし、それはまる
で、苦いものを食べるかのような、やっとの祈り、信仰がついていけず言葉だけの祈
りだったように思います。
28節に「悪口(わるぐち)を言う者に祝福を祈り」とあります。祝福を祈る。これはま
たとても難しいことです。けれども、祝福をこれまたなんとか祈ってみるのです。私
の内には祝福を祈るような心が無いにもかかわらず、祈ってみたのです。する
と・・・確かに不思議と言いますか、恵みと言いますか、次第に私の関心は、「敵」
「相手」ではなくて、「私自身の心」へと向かい、自分の至らなかった点に気づくこ
とになっていくのです。これは聖霊のお働きなのだと、思わされます。聖霊が私を照
らし、示してくださることとは、私の内にこそ、「愛が無く、憎しみでいっぱいに
なっている」という事実でした。私自身が誰かを憎む者になっていることに気づかさ
れるのです。みことばは、このように、誠に、隠れているものを明らかにされます。
みことばによって、罪の輪郭がくっきり、はっきりと浮かびあがるのです。
そもそも、イエス様の言う「敵を愛しなさい」ということは、一体、どういうことな
のでしょうか。それは、「相手の人間がどのような仕打ちにでようとも、相手の幸福
をおもんぱかってやまない」ことだと、ある本に書いてありました。
28節の後半部。「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」とありますが、ま
さにイエス様は、十字架の上でこのように祈られました。ルカによる福音書23章34
節。“「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないので
す。」” 自分を十字架にかけた者、侮辱する者のために、その幸福をおもんぱかっ
て、神様に執り成しの祈りをされたのがイエス様のなさった祈りでした。
私も、本当に苦しいことがあったときに、苦し紛れにこの祈りを祈ったことがしばし
ばあります。ですが、ただ真似をして「彼らをお赦しください。自分が何をしている
のか知らないのです」と祈ってみた時に、どうも“上から目線”になってしまうこと
に気が付きました。「祈ってみるけれど、苦しい、そんな堂々巡りにいるなぁ。それ
も今はみこころなのかもしれないなぁ。」というのが、毎日思うことでした。
少し話は変わりますが、4月頃、個人的には、15歳の息子を岐阜県に送り出すという
転機がありました。知らない土地で新しい環境に慣れるまで、「息子は連絡を取れな
い状況にいるし・・・どうなったかな」と憶測しながら過ごすのは不安なものでし
た。そんなおり、平塚にいる私の母が、クリスチャン新聞の「モーセの母」という記
事を送ってくれました。詩編55章23節。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなた
を支えてくださる。」とあり、またモーセの母が、赤ちゃんモーセをファラオに殺さ
れないように、最後は全く命の保障のないナイルの茂みに、わが子を置き去りにす
る、そんな別れをせざるを得なかった母、について下線が引いてありました。
息子のことでは、励ましを得ました。と同時に、思ったことは、「敵を愛しなさい」
ということについても、愛せない中で祈っている、そのままの状態を、葦の繁みに置
くように、神様におまかせしていく、ということ、ゆだねる、ということを示された
ように思いました。
仕事場に「お守りください」と祈って入っていくこと。また、家庭のことも、教会が
遅くなって、夫が教会を嫌いにならないように、ということも、神様におゆだねして
いく。祈った結果、それでもうまくいなかかったとしても、それもまたゆだねてみ
る、ということをしながら、「敵を愛しなさい」というみことばと向き合っていまし
た。
ある日、6月のことです。私は信徒大会準備会第1回会合に出かけた際に、8月開催
の青年部例会にお誘いを受けました。日曜日の夜の会合だったため「教会の用事で遅
くなる」ということは、夫が受け入れにくいと考えていて、それを説明するのに「夫
が教会アレルギーなので、遅いと出かけられません」などと、冗談ぽく言っていた時
のこと。横にいた、ある牧師先生を通して語りかけられた一言に、私はびっくりしま
した。
「教会アレルギーも信仰の一つですよ。」
さらに「従順な信仰というのも信仰ですが、信仰には“反発の信仰”というものもあ
る。ご主人の反発は信仰の表れなのですよ。そういう人にこそ、霊的なケアが必要で
す。放っておいてはいけない。」
そう言われてハッとし、そこで、目に涙がじわっとあふれてきてしまいました。
それは私にとって、強く、神様によって触れて頂いたような経験として迫ってきま
した。神様の目線によれば、夫は敵ではない! そのことを強く確信したのです。
「敵を愛しなさい」というみことばを思いながら、私はいつの間にか、夫を「敵」と
してしまっていたのだと気が付いたのです。神様は、改めて、「愛しなさい」と私に
教えてくださいました。だれが敵だと言ったのか? と神様は私に迫ってきたかのよ
うでした。「敵を愛さなきゃ」と祈っていたけれど、もちろん、敵対してしまうこと
はあったのだけれども、「敵はいない」と、神様に迫られたような気が致しました。
「むしろ、たった一人の伴侶ではなかったか?」 と、直接語りかけられたよ
うな思いでした。私の方こそ、信仰のない者、見えない者であったのだと気づかさ
れ、初めてそのことについて、悔い改めの祈りを口にのぼらせることができました。
感謝でした。ずっとつっかかっていた、私の中の憎しみが消えていきます。ルカによ
る福音書6章41節にあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、な
ぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」 私自身を悔い改めるスタートが与えら
れました。
また、私はなお、仕事面で、どうキリスト者として生きようかと考えていました時に
以下の箇所が目に飛び込んできたことを思います。32節。「自分を愛してくれる人を
愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪びとでも、愛してくれてい
る人を愛している。」とあります。また、33節。「自分によくしてくれる人に善いこ
とをしたところで、どんな恵みがあろうか。」とあります。「ああ、自分はまさにそ
うなんだな。」そう思わされる箇所です。
そこで私たちはイエス様はどうであったのかに目を転じたいと思います。イエス様
は、私が神様を愛していない時に先に愛し、私がまったく神様に背を向けていた時に
も、善い恵み、すなわち、このような私たちに、救いを用意してくださっていたとい
うことに目を向けたいのです。
先日、幼児洗礼の恵みにあずかりました娘・Yが、もう2週間前になりますが、K一
先生の枕元におりました。先生の枕元にも、写真入りのお葉書があり、そこには右側
にRくん、K美ちゃん、Yくん、Yくんを抱っこする娘がうつっており、左側にはベッド
の中のK一先生、Y人くんを抱っこするH世先生が写っておりました。
K一先生は、その写真を見て、「あぁ。弱い者たちばかりだ。」と言われました。
確かに。赤ちゃんも、幼い子どもたちも、お年を召した先生方も、世の価値観にあっ
ては、「弱い」という立場になるのでしょう。けれども、私にはK一先生が、
「あぁ。弱い者たちばかりだ。なんて素晴らしいんだろう。」と言ったように聞こえ
ました。「ここにいる者たちは弱いけれど、それゆえに、神様の、とても強い、完全
な強さの中にいる」という証しの言葉に聞こえてきたのです。「神様の強い守りの内
にいる幸いな者」と聞こえてきたのです。神様の大きな愛を知らされる一言でした。
さらにK一先生は、枕元から顔を出した娘に、「将来の宝だ」と突然に言われまし
た。
神様はそのような目線、私たちには唐突に聞こえるかもしれないけれども、真実、そ
のような目線をもって、この私を、私たちを、愛しれくれたのではなかったか、敵で
あったこの私のために十字架にかかられたのではなかったか、とこの日の交わりを通
して思い巡らしました。勲が無い者を主イエスのゆえに、勲あり、としてくださる目
線。信仰なき者をも、信仰あり、としてくださる目線。幼きままの者から将来の宝を
見出して慈しんでくださる目線であります。
そのような主だからこそ、私たちの選びとるべき道を35節のように教えてくださっ
ているのです。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当
てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子とな
る。」 これは、神様からの約束です。あなたにとって、私にとって、愛し得ない者
をこそ愛し、赦す道が、主のみこころの道であるということです。みこころなのだか
ら、そうしなさい、ということに尽きるのであります。そして、そこにこそ、栄光が
あるということです。
私の内に、人を赦す力が無いことは明らかです。けれども神様により頼むとき、ゆ
だねるとき、御霊により、私たちは心を新たに造り変えられ、私の罪に勝利する機会
が与えられ、喜んでみこころを行うよう、変えられていくことができると信じます。
主イエスとの交わりの中で、自分をゆだねる時、神様はきっと高みにいる罪深い私た
ち自身に気付きと悔い改めとをお与えになり、恵みの道へと導いてくださることで
しょう。
「愛しなさい」との声が聞こえます。主が、全ての敵意を打ち滅ぼしてくださったの
だから。主は全ての人のために十字架にお架かりになったのですから、その人のため
にも、主が十字架についてくださったことを、いつも礼拝を通し、みことばを通し、
祈りを通し、兄弟姉妹との交わりを通し、聖霊に満たされ、照らされつつ、示されて
いきたい。36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者
となりなさい」。
主が、私を、私たちを愛してくださった憐れみ深き恵みに包まれて、その恵みが、私
たちの「愛し得ない心」を覆い隠すまでに、あなたとのお交わりに満たされて、みこ
ころに従っていきたいと思います。お祈り致します。
天の父なる御神様。尊き主の御名を讃美しほめたたえます。
神様。この醜い心の私を主イエス・キリストの御前にゆだねます。私こそ、憎む者で
す。愛の無い私たちをお赦しください。十字架にお架かりになってくださったほどに
大きな愛に触れ、「愛しなさい」との御言葉に従いて、栄光を見ることができますよ
うに。
8月15日には70回目の終戦の日を迎えました。隣国と自らを戦禍に巻き込んだ罪を
心から認め、悔い改めつつ、これよりのち、主にあるまことの平和を築く道を選び
取っていけますように、主の平和をお恵みください。
これらの感謝と願いとを、救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致しま
す。アーメン
でも、この時も、神様が働かれ、私を1mmずつ、変えてくださっていたと信じて感謝!
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2015年8月16日 ルカによる福音書6章27節~36節 「愛しなさい」
この聖書の箇所は、イエス様が弟子達に向かって語られた、「平地の説教」の中の一
部分です。小見出しには「敵を愛しなさい」と書かれております。この聖書の箇所を
通じ、私がこの半年ほどの間に神様によって示されたことをお話ししたいと思いま
す。
私はマタイによる福音書5章43節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさ
い」というみことばカードを持っています。それは日めくりのようにいつめくっても
よいカードなので、自宅の机に飾ってあるものですが、なぜか、このみことばから離
れられずにいました。このカードが昨日も必要、今日も必要といった感じで、このみ
ことばが迫ってくるのです。仕事の場で、家庭で、行き詰るテーマが「敵を愛す
る」・・・この辺りに集中していたのかもしれません。それはなぜなのかわかりませ
んが、見過ごせないテーマとして、神様はこの半年、このみことばを私に示し続けて
おられました。
「敵を愛しなさい」。「敵」などと言いますと、生活の中で、ピンと来ない方もいる
かもしれません。日常生活の中では、少し大げさなような気もします。辞書によると
「敵」とは「自分に危害を加えようとしている相手」、とあります。27節を見ると、
“「敵」を愛し、「あなたがたを憎む者」に親切にしなさい”とありますから、
「敵」とは「あなたがたを憎む相手」と言いかえられるのかもしれません。もし、私
たちに危害を加えようとしたり、私たちを憎んでくるような人がいたとしたら、私た
ちは一般にどうしてしまうのでしょうか? きっと、怖い!と思ってしまい、「その
人を愛し、親切にするなんて、とてもできない、難しい」ということを感じてしまう
のではないでしょうか。
私もそのような場面、とは言わないまでも、仕事や家庭で、追い詰められてしまうよ
うなことが多々あり、そのような時、みことばを思い出して「敵を愛さなくては」
と、祈れることで乗り切ろうとすることがしばしばありました。しかし、それはまる
で、苦いものを食べるかのような、やっとの祈り、信仰がついていけず言葉だけの祈
りだったように思います。
28節に「悪口(わるぐち)を言う者に祝福を祈り」とあります。祝福を祈る。これはま
たとても難しいことです。けれども、祝福をこれまたなんとか祈ってみるのです。私
の内には祝福を祈るような心が無いにもかかわらず、祈ってみたのです。する
と・・・確かに不思議と言いますか、恵みと言いますか、次第に私の関心は、「敵」
「相手」ではなくて、「私自身の心」へと向かい、自分の至らなかった点に気づくこ
とになっていくのです。これは聖霊のお働きなのだと、思わされます。聖霊が私を照
らし、示してくださることとは、私の内にこそ、「愛が無く、憎しみでいっぱいに
なっている」という事実でした。私自身が誰かを憎む者になっていることに気づかさ
れるのです。みことばは、このように、誠に、隠れているものを明らかにされます。
みことばによって、罪の輪郭がくっきり、はっきりと浮かびあがるのです。
そもそも、イエス様の言う「敵を愛しなさい」ということは、一体、どういうことな
のでしょうか。それは、「相手の人間がどのような仕打ちにでようとも、相手の幸福
をおもんぱかってやまない」ことだと、ある本に書いてありました。
28節の後半部。「あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」とありますが、ま
さにイエス様は、十字架の上でこのように祈られました。ルカによる福音書23章34
節。“「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないので
す。」” 自分を十字架にかけた者、侮辱する者のために、その幸福をおもんぱかっ
て、神様に執り成しの祈りをされたのがイエス様のなさった祈りでした。
私も、本当に苦しいことがあったときに、苦し紛れにこの祈りを祈ったことがしばし
ばあります。ですが、ただ真似をして「彼らをお赦しください。自分が何をしている
のか知らないのです」と祈ってみた時に、どうも“上から目線”になってしまうこと
に気が付きました。「祈ってみるけれど、苦しい、そんな堂々巡りにいるなぁ。それ
も今はみこころなのかもしれないなぁ。」というのが、毎日思うことでした。
少し話は変わりますが、4月頃、個人的には、15歳の息子を岐阜県に送り出すという
転機がありました。知らない土地で新しい環境に慣れるまで、「息子は連絡を取れな
い状況にいるし・・・どうなったかな」と憶測しながら過ごすのは不安なものでし
た。そんなおり、平塚にいる私の母が、クリスチャン新聞の「モーセの母」という記
事を送ってくれました。詩編55章23節。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなた
を支えてくださる。」とあり、またモーセの母が、赤ちゃんモーセをファラオに殺さ
れないように、最後は全く命の保障のないナイルの茂みに、わが子を置き去りにす
る、そんな別れをせざるを得なかった母、について下線が引いてありました。
息子のことでは、励ましを得ました。と同時に、思ったことは、「敵を愛しなさい」
ということについても、愛せない中で祈っている、そのままの状態を、葦の繁みに置
くように、神様におまかせしていく、ということ、ゆだねる、ということを示された
ように思いました。
仕事場に「お守りください」と祈って入っていくこと。また、家庭のことも、教会が
遅くなって、夫が教会を嫌いにならないように、ということも、神様におゆだねして
いく。祈った結果、それでもうまくいなかかったとしても、それもまたゆだねてみ
る、ということをしながら、「敵を愛しなさい」というみことばと向き合っていまし
た。
ある日、6月のことです。私は信徒大会準備会第1回会合に出かけた際に、8月開催
の青年部例会にお誘いを受けました。日曜日の夜の会合だったため「教会の用事で遅
くなる」ということは、夫が受け入れにくいと考えていて、それを説明するのに「夫
が教会アレルギーなので、遅いと出かけられません」などと、冗談ぽく言っていた時
のこと。横にいた、ある牧師先生を通して語りかけられた一言に、私はびっくりしま
した。
「教会アレルギーも信仰の一つですよ。」
さらに「従順な信仰というのも信仰ですが、信仰には“反発の信仰”というものもあ
る。ご主人の反発は信仰の表れなのですよ。そういう人にこそ、霊的なケアが必要で
す。放っておいてはいけない。」
そう言われてハッとし、そこで、目に涙がじわっとあふれてきてしまいました。
それは私にとって、強く、神様によって触れて頂いたような経験として迫ってきま
した。神様の目線によれば、夫は敵ではない! そのことを強く確信したのです。
「敵を愛しなさい」というみことばを思いながら、私はいつの間にか、夫を「敵」と
してしまっていたのだと気が付いたのです。神様は、改めて、「愛しなさい」と私に
教えてくださいました。だれが敵だと言ったのか? と神様は私に迫ってきたかのよ
うでした。「敵を愛さなきゃ」と祈っていたけれど、もちろん、敵対してしまうこと
はあったのだけれども、「敵はいない」と、神様に迫られたような気が致しました。
「むしろ、たった一人の伴侶ではなかったか?」 と、直接語りかけられたよ
うな思いでした。私の方こそ、信仰のない者、見えない者であったのだと気づかさ
れ、初めてそのことについて、悔い改めの祈りを口にのぼらせることができました。
感謝でした。ずっとつっかかっていた、私の中の憎しみが消えていきます。ルカによ
る福音書6章41節にあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、な
ぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」 私自身を悔い改めるスタートが与えら
れました。
また、私はなお、仕事面で、どうキリスト者として生きようかと考えていました時に
以下の箇所が目に飛び込んできたことを思います。32節。「自分を愛してくれる人を
愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪びとでも、愛してくれてい
る人を愛している。」とあります。また、33節。「自分によくしてくれる人に善いこ
とをしたところで、どんな恵みがあろうか。」とあります。「ああ、自分はまさにそ
うなんだな。」そう思わされる箇所です。
そこで私たちはイエス様はどうであったのかに目を転じたいと思います。イエス様
は、私が神様を愛していない時に先に愛し、私がまったく神様に背を向けていた時に
も、善い恵み、すなわち、このような私たちに、救いを用意してくださっていたとい
うことに目を向けたいのです。
先日、幼児洗礼の恵みにあずかりました娘・Yが、もう2週間前になりますが、K一
先生の枕元におりました。先生の枕元にも、写真入りのお葉書があり、そこには右側
にRくん、K美ちゃん、Yくん、Yくんを抱っこする娘がうつっており、左側にはベッド
の中のK一先生、Y人くんを抱っこするH世先生が写っておりました。
K一先生は、その写真を見て、「あぁ。弱い者たちばかりだ。」と言われました。
確かに。赤ちゃんも、幼い子どもたちも、お年を召した先生方も、世の価値観にあっ
ては、「弱い」という立場になるのでしょう。けれども、私にはK一先生が、
「あぁ。弱い者たちばかりだ。なんて素晴らしいんだろう。」と言ったように聞こえ
ました。「ここにいる者たちは弱いけれど、それゆえに、神様の、とても強い、完全
な強さの中にいる」という証しの言葉に聞こえてきたのです。「神様の強い守りの内
にいる幸いな者」と聞こえてきたのです。神様の大きな愛を知らされる一言でした。
さらにK一先生は、枕元から顔を出した娘に、「将来の宝だ」と突然に言われまし
た。
神様はそのような目線、私たちには唐突に聞こえるかもしれないけれども、真実、そ
のような目線をもって、この私を、私たちを、愛しれくれたのではなかったか、敵で
あったこの私のために十字架にかかられたのではなかったか、とこの日の交わりを通
して思い巡らしました。勲が無い者を主イエスのゆえに、勲あり、としてくださる目
線。信仰なき者をも、信仰あり、としてくださる目線。幼きままの者から将来の宝を
見出して慈しんでくださる目線であります。
そのような主だからこそ、私たちの選びとるべき道を35節のように教えてくださっ
ているのです。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当
てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子とな
る。」 これは、神様からの約束です。あなたにとって、私にとって、愛し得ない者
をこそ愛し、赦す道が、主のみこころの道であるということです。みこころなのだか
ら、そうしなさい、ということに尽きるのであります。そして、そこにこそ、栄光が
あるということです。
私の内に、人を赦す力が無いことは明らかです。けれども神様により頼むとき、ゆ
だねるとき、御霊により、私たちは心を新たに造り変えられ、私の罪に勝利する機会
が与えられ、喜んでみこころを行うよう、変えられていくことができると信じます。
主イエスとの交わりの中で、自分をゆだねる時、神様はきっと高みにいる罪深い私た
ち自身に気付きと悔い改めとをお与えになり、恵みの道へと導いてくださることで
しょう。
「愛しなさい」との声が聞こえます。主が、全ての敵意を打ち滅ぼしてくださったの
だから。主は全ての人のために十字架にお架かりになったのですから、その人のため
にも、主が十字架についてくださったことを、いつも礼拝を通し、みことばを通し、
祈りを通し、兄弟姉妹との交わりを通し、聖霊に満たされ、照らされつつ、示されて
いきたい。36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者
となりなさい」。
主が、私を、私たちを愛してくださった憐れみ深き恵みに包まれて、その恵みが、私
たちの「愛し得ない心」を覆い隠すまでに、あなたとのお交わりに満たされて、みこ
ころに従っていきたいと思います。お祈り致します。
天の父なる御神様。尊き主の御名を讃美しほめたたえます。
神様。この醜い心の私を主イエス・キリストの御前にゆだねます。私こそ、憎む者で
す。愛の無い私たちをお赦しください。十字架にお架かりになってくださったほどに
大きな愛に触れ、「愛しなさい」との御言葉に従いて、栄光を見ることができますよ
うに。
8月15日には70回目の終戦の日を迎えました。隣国と自らを戦禍に巻き込んだ罪を
心から認め、悔い改めつつ、これよりのち、主にあるまことの平和を築く道を選び
取っていけますように、主の平和をお恵みください。
これらの感謝と願いとを、救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致しま
す。アーメン