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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 黄金比

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 黄金比(改)』です。

 (以下、本文)

 

 今回は、前置きなしの真っ向勝負です。

 芸術(絵画)や建築などにおいて、数学的に
導き出された、所謂(いわゆる)「黄金比」
なる「美しさを定義する」指標としての
客観的基準(数値)があるようですが、


        黄金比 オウムガイ

 そもそもの「黄金比」とは何でしょうか

 古代ギリシャの数学者エウクレイデス
(ユークリッド)は、


 エウクレイデスと黄金比 urbandental.ec-net.jp

 「ひとつの線分を、ふたつの等しくない線分
 に分けたとき、線分全体と長い部分の比が
 、長い部分と短い部分の比に等しくなれば、
 その線分は黄金比で分けられている」

 と定義しました。


     長方形の黄金比 wikipedia

 しかし、エウクレイデスは、



       

 「黄金比」美的性質を有する
とはただの一言も主張していないのです。



 我々が何かを「美しい」と認識するもの、
それが個人の主観であることは自明です。

 ダ・ヴィンチがロゴス(宇宙論理)をして、
イデアが織り成す内的秩序
部分的な現象を「黄金比」であると理解
したということは、



 それが、時代を超えて普遍にして不変なる
比率なのかどうかについての、些か
ならざる疑義があったからに他なりません。

 というのも、ダ・ヴィンチ自身が

     
      黄金比 ミロのビーナス

 「美は善ではない」という趣旨
言葉を残していますし、

 「美と醜とが並ぶと互いに
     より力強く見える」
とか、

 「美しいものと醜いものはともに
   あると互いに引き立て合う」


 とも言っていますが、そうした言葉の裏側に
潜んでいる本当の意味こそが問題なのです。

 

 ここでは類比(アナロギア right アナロジー)
ではなく対比(コントラスト)の効果の方が
「美」にしろ 「醜」にしろ、その個人が持つ
基準の枠を超えてその度合いを際立たせると
しているわけで、その判断基準は外的秩序
(公に認められる美の比率)にあるのではなく、
あくまでも内的秩序(個々人が思い描く美)
の部分的な現われが「黄金比」意識
させ、その助成を促しているというわけです。



 要は、

 二つ以上のものを比較して類推する類比
から得られる「美醜」の基準よりも、二つの
対立する「美醜」に対する判断基準の方が
直接的である分だけ、判断上の決定における
強い主導権を持つ、ということのようです。

 言い換えれば、

 引き立て合うものの存在や比較する対象に
よって「美」評価に違いがあらわれるの
だとしたら、



 あるいは「美醜」「善悪」の基準が、
その時々(ケース・バイ・ケース)の条件により
個人的な(違い)を生じさせるように

       

 万人に共通する「美」「比率」などの
存在現実にはであって、

 ウィトルウィウス的人体図とは

 

 理想とする人体比例を見い出すこと
が理想的な建築につながるものと考えた
ウィトルウィウスの理論をダ・ヴィンチが
具象化して、図解をしたものですが、



 彼はすべての構造は円と正方形を操る
行為になるとして、人体は理想的な比例
関係にあり、円形と正方形の考え方から

 

 人体の中心はへそであり、その部分に
コンパスを置いて円を描くと、指先と爪先
が円に内接し、足底から頭頂までの長さ
と広げた両手の長さを比べると正方形の
ように等しいと説いたそうです。

 この場合の半径(へそから下)の長さと
両手を広げた長さの比が、1:1.618…



 いわゆる「黄金比」になるということ
ですが、この図の比率を実際に計測
すると、1:1.6088…となり 近似値
ではあるのですが、辻褄合わせなのです。

 exclamation 実際の計測値の詳細については、

 url <ahref="http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/VitruvianMan/index-j.html">http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/VitruvianMan/index-j.html

 を参照してみてください。

 それによると、    

 ダ・ヴィンチは相当の苦労をして、この
「ウィトルウィウス的人体図」
をあらわしたように感じるのですがase2

 尤(もっと)も、その主たる目的は、

 『ダ・ヴィンチの罠 幾何学』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/511.html
 『ダ・ヴィンチの罠 相似性』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/512.html

 などに記したようにまったく別のところに
あったというわけで ・・・



 あくまでも内的秩序部分的傾向
を、あたかも「黄金比」であるかのように
錯覚させているということのようです

 もちろん、「罠」仕掛け人としては、

 こうした錯覚最大限利用しない
はないわけで、こうしてダ・ヴィンチ自身が

  
    出典:urbandental.ec-net.jp

 端から「黄金比」存在を知っていた
かの如き伝説誘導するような事実
誤認がまかり通ることになるわけです。

 当然に、そのことは、

 視覚によるものだけでなく、イメージ
や解釈上における錯誤もあるわけですが、


 たとえば、

 ジョン・レノンが『イマジン』する世界
からは程遠い不気味なこれらの絵画は、

 ― 1


 ― 2


 ― 3


 ― 4 ― ①


 ― 4 ― ②


 ― 5


 ― 6


 ― 7

  
 アナタに想起させ、どんな物語
語らせるというのでしょうか

 ― 8
   

 ― 9
  

 小生ならば、迷うことなく、

 1 終末の海を往く「ノアの箱舟」の物語
 2 現代版における「バベルの塔」の物語
 3 終末の名高い英雄「ネフィリム」の物語
 4 荒れ野で男の子を産む女の物語①.②
 5 「マギの礼拝」と終末の聖母子の物語
 6 『ヨハネの黙示録』の蒼白い馬の物語
 7 崩壊し破滅する「ノアの箱舟」の物語
 8 イエス・キリストの磔刑に纏わる物語
 9 廃墟で産声をあげる神の子の物語

 そして、突き詰めれば、


       出典:www.2cb.info


 ということになるわけですが ・・・



 さて

 ズジスワフ・ベクシンスキー
いう名の画家がポーランドいました。

  

 彼は、2005年にワルシャワの自宅において
メッタ刺しにあって殺されています。

 前記した絵画の制作者です。

 事件は二人の若者によって凶行され、彼の
長年のパトロンであり友人の息子が主犯格と
して逮捕されていますが、

 果たして、

 借金を断られたことが動機になっているよう
ですが、真相不明です

 個人的にはもっと別のおぞましい理由
あるように思えてなりません。

 そうでなければ、

 全身に17箇所(内2箇所が致命傷)の傷を
負わせる動機としては、余りにも短絡で希薄
過ぎる気がします。


 ・・・ って、さあ、

      
     (黄金比と何か関係あんの)

 そ、そうですねase2

 もう少し我慢して付き合ってください。

 このベクシンスキーの描く絵には
タイトルがないのです。

 というよりも、作者がタイトルをつける
ことを禁じていたのです。

 従って、

 1 の場合には、制作年度の「1985」
呼ぶ以外に方法が見つかりませんし、他も
同様の呼び方(タイトル)となっています。

 ベクシンスキーは自分の作品に
何らかの意味付けや物語的解釈をされる
ことを頑なに拒み続けた画家でした。

   

 彼の画集(Pan-Exotica)の帯文
には、「荘厳なまでに美しく静寂にみちた
終末世界
」とのキャプションが付いている
し、どのを見ても終わりの世界の情景
を感じさせるものばかりですが、

 そもそも、画家が自らの作品を鑑賞する
者に対して、その解釈を拒むなどという
ことがあってもいいのでしょうか

 いったい如何なる了見によるものなのか
事態がいまいち呑み込めません

 第一それは画家にあるまじき越権行為
であり、見る側がどんな解釈をつけようと
それは勝手だし、自由なはずです。

 奇怪で、そのくせ妙に卑猥で、きわめて
具象性のある衝撃的な作風からは、否応
なく強烈なストーリーが誘発されます。

 そこで、さらに勝手にタイトルを付ければ

  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


  【偽キリスト・反キリストの出現物語】


  【鉄の杖を持つとされた男の子の彷徨】


  【選ばれし144,000人の天国への入口】


 といった具合に、

 どこまで行ってもことのごとく悲観的
悲愴感に溢れるベクシンスキーですが、


 しかし、

 それでも、なお、拒否するのであれば、
それはどんな解釈もあたらないものとして、
すべて間違いであり、ありとあらゆる解釈
が正しくないという意思表示(宣言)で
あると理解するほかはないでしょう。


 もし、仮に、     

 世界終焉に立ち会ったとして ・・・

 この世の終わりを目撃する時、我々は
その光景に瞠目し、身動きできないまま
に、ただ凝視するだけの自分を知ること
になるのかもしれません。

 おそらく、

 ベクシンスキーは、そうしたことを
伝えたかったのかもしれません。

 願わくば、

  

 何が起こったのかさえも気づかぬうちに、
瞬時に消えてしまうのが望ましいのですが、



 状況を理解できずに茫然と佇んでいる
のがオチなのかもしれません

 それでも、まだ、

 彼のように17箇所も刺されて苦しみながら
死ぬよりはずっとマシかもしれませんが、

 さて

 ベクシンスキーを引き合いに出した
のは、ある意味で、ダ・ヴィンチとは同極
あり対極にある画家だと思ったからです。

 あらゆる解釈拒否する者とあらゆる
解釈容認する者という違いだけでなく、



 あからさまに終焉る者と、気づかぬ
ままにをこまねいていると破滅
という物語がざるを得ない者同士の
対極が魅せる「黄金」対比です。



 連続する歴史のストーリーを排除すれば、
どちらも終末ターゲットに、それを
明示するのか、暗示するのか、の違い
であって、表現しているモチーフは同じ
「この世の終わり」です。

 

 一方は、その結果としての惨状を、他方は
その成り立ちからのプロセスとともに回避の
祈りと願いを込めた「罠」としてそれぞれ
の作品に表象しているのです。

 ありていに言えば、

 ベクシンスキー終末以外
解釈余地極端に恐れた結果
として、いかなる解釈をも拒んだのであり、

   

 逆に、ダ・ヴィンチは「何でもあり」
解釈を許すかわりに終末へのベクトル
を避ける道を「罠」に託したわけです。



 もちろん、だからと言って、

 「何でもあり」を理由に、ヨハネ
右腕も「二本ある」などという虚言
弄するつもりは毛頭ありませんが、

 ええい、黙って聞いてりゃ、さっきから

     
  (ゴチャゴチャとうるせえんだよな)

 だから、いつになったら二本の腕の秘密が
分かるわけ

 それに、

 三次元空間とか、四次元時空とかの話も
疾(と)うの昔に消えちゃってるし ・・・


 え~と、何分(なにぶん)にも



 あれこれと外堀を埋めて行かないと複雑
で理解しずらいトリックですからase2


 それでは、

 早速、本題に入りましょう

 って、おいおい、

 「前置きなしの真っ向勝負じゃないの

     

 「マッコウ勝負じゃ」

   

 そ、それは、

 

 「マッコウクジラのジャンプ」

  

 まあまあ、つまり

 「こういうことじゃな」

 ベクシンスキー VS ダ・ヴィンチの関係が
終末における対比としての 1:1.618
「黄金比」のような錯覚を起こして
いるというお粗末一席なんじゃとさ。


 と、いうことで、

 「どうも、お後がよろしいようで」


    

 ほんとうは、



 「ちっともよろしくないんですけど」



            !! ase





 … to be continue !!




      



コメント一覧

おじゃま虫
またしても、このページに辿り着いてしまったようですが、

「Ⅾ」の秘密と言うよりは「Ⅾ」の目的と言い換えた方がいいくらいに「Ⅾ」の汎用度は広いですね!

デーモン、デビル、ディストピア、ダブル・スタンダード、ディープ・ステート、ドミニオン、ダイバーシティ、その他、黄金比についてもドイルさんたちのコメントにあるようにディバイン・プロポーションやダイナミック・シンメトリーで表現できるし・・・

何か、天(神)の計画を感じてしまいそうです。
やぶにらみ
そう言えば、トランプ大統領も「Ⅾ」ですぞ。

ドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)!

「大統領」も日本語での頭文字は「Ⅾ」だけど、まさか「Ⅾ」の秘密に関係するとは思えないし、まあ、どうでもいい話ですな!
ダメな便利屋
ちなみに、「D」の打ち合いなら、オレも「D」だけど、
ドイル氏も「D」だし、刑事プリオ氏も「D」だよなぁ。

どうでもいい話だけど・・・
やぶにらみ
このページでも「D」の打ち合いが展開されてますな!
むらさき納言
ケイシさんやドイルさんたちが指摘するようにこのページも
「D」の秘密に関係があると思われますが、『黄金比』も
『匙加減』もバランスが肝要です。

そして、それを選択し、決定する自由や裁量、つまり決定権(Discretion)は、芸術や建築においても総監督(Director)が握っています。

「D」って、不思議とキーワードの頭文字になるんですね!
江戸川ケイシ
「D」の秘密とは、おそらく、ダイナミック・デザイナー、今風に言えば、インテリジェント・デザイン論の立場からの提言のような気がします。

ドイルとディスカッションをするなかで思ったことですが、
現在、意識的なパラダイムシフトやコペルニクス的な転回が起きつつある状況下でのプロローグではないかとの推論です。
江戸川ドイル
黄金比を英語で、Golden Ratioというよりも、ダイナミック・シンメトリー(黄金分割構図)⇒黄金比率における動的均斉と表現した方がベターだよな!

つまり、黄金比には、神によるディバイン・プロポーションと人間の手からなるダイナミック・シンメトリーに属するものとがある。

どちらも「D」が頭文字だが、デザイナーズ・ディビジョンなのか、それとも、ただの偶然なのだろうか?
刑事プリオ
ケンタッキーフライドチキン専門のクレーマーという設定にしたいのか?

それとも、正真正銘のチキンなのか?

刑事としてのカンでは〇〇〇だな!
チキンクレーマー
負けたよ、参りました。

見えない相手じゃ、埒があかないし、話になんねえ!

もう許したるわ。 だけどチキンだからって、ビビりだと
思って勘違いすんなよな。

ケンタッキー専門だから、ちょっと勝手が違ったのさ!
透明人間2号
あのぅ、呼ばれてからずっとこの姿🙇なのですが ・・・
チキンクレーマー
チキンクレーマーだからって、おちょくってんじゃねえよ!

「出て来い! 透明人間!!」
透明人間2号
責任者ですが、どうかなさいましたか?

えっ、姿が見えないですって!?

あっ、何しろ、透明人間ですので申し訳ございません🙇
チキンクレーマー
黄金比だと思って読んでたら、いつの間にか気持ち悪い絵が出て来て、チンパンジーの言うように「関係あんの!」って叫んだ。

「我慢して付き合ってくれ」って言うから最後まで来たけど、ちっともオアトがヨロシクないんだけど!

「責任者、出て来い!!!」
シャボン玉
「ち・が・う・だ・ろ!」の豊田真由子議員のヒステリーは、
まさに黄金比のごとき凄まじさでしたね!

いやあ、懐かしい。

この記事とはまったく関係ないですが、「通りすがり」さんにつられて、思わず振り返ってしまいました。
通りすがり
忖度は危険ですよ!
「そんなつもりはなかったんですぅ~」
(ミュージカル調)
by 豊田某議員
皮肉のアッコちゃん
「無意味」の証明が殺人事件の被害者であることですか。
それでベクシンスキーは犯人捜しを断固拒んだわけね!
余計な詮索はするなって・・・ なるほど、なるほど。
むらさき納言
無意味かどうかはわかりません。
でも、この世界が不条理で無情で儚いものだということを思い知らされるような出来事ですね。
ベクシンスキーの無残な最期ですが・・・
驀進好き
勝手に分析してんじゃねーよ!

無意味といったのは作者にしか分からないものを詮索しても無駄だし、無理だし、無益だと思うわけ、そもそも、ベクシンスキー自身の人生が無意味な世の中と運命との皮肉を物語っているわけで、無意味を象徴するような最期がそれを証明してんだよ!
透明人間2号
芸術家は批評されてナンボの世界の住人ですから、意味づけや解釈を拒む姿勢を含めたすべてを自己の作品(商品価値)としているのが、ベクシンスキーのスタンスではないでしょうか。

驀進好き(バクシンスキー)さんのハンドルネームが示すように、そこにシャレを効かせているのですから、言わば、越権行為はひとつの問題提起だったのでしょうね。

タイトルが「無意味」なのかどうかは、面白いテーマなので、次回は内容を書き替え(変更)してダ・ヴィンチの「罠」もまた無意味なるものなのかどうかを考察してみたいと考えています。

意外と「瓢箪から駒」が出てくるのかもしれませんので。
ココナン
先入観をまったく持たずに見て欲しいのは、ダ・ヴィンチもベクシンスキーも同じだったと思いますが、イメージの固定化を恐れたのがベクシンスキーで、ダ・ヴィンチの方は宗教画としてのイメージを演出したうえで、固定化される写実性の中にいろんなメタファーを盛り込んんでいるのだと思われます。
みのる
ダヴィンチのモナリザや最後の晩餐にしても、思いっきりコラージュして楽しんでいる現代です。

ベクシンスキーの絵を見て想像したものを、個人が「タイトル」として表現化しても、そう目くじら立てることではないと思います。
デッキブラシ
個展も開かず、絵も売らなかったのならば、その意思は大いに尊重されるすべきところだが、そうでなければどのように理解され、意に沿わぬ解釈が下されようが、それはその作品を見た者の自由であって、それに文句をつける権利も筋合いも制作者にはないと思うのだが。
驀進好き
作者が嫌がってるのに好き勝手に適当なタイトルをつけてんじゃねーよ!
ベクシンスキーにとっては無意味なんだよ。作品を固定観念化させるタイトルなんてものは・・・、
あんたの方がよっぽど越権行為じゃねえのかな?
透明人間2号
ココナンさん、ドイルさん、焦らすつもりも、はぐらかすつもりもないのですが、まっすぐに結論に突き進むタイプの話ではないのでゴメンなさい。🙇
それと、この世の中のデザインは「自然があるから芸術がある」かのようなものではなく、人間(生物)も自然も含めた森羅万象のすべてが完全を模倣するが如き「思想型」だということです。

なるほど、「5」は『受胎告知』もいいですね!
ストレートにイメージングできます。

みのるさん、むらさき納言さん、ネーミングを認めていただき、ありがとうございます。

『黄金比』については、「あると言えばあり、ないと言えばない」ということです。

『黄金比』は無理数であって、自然界のほとんどは無理数でできていますから ・・・

「罠」の謎については、遅々として進展しないもどかしさを感じていると思いますが、特にヨハネの右腕は解説が困難で、隠し絵の中の動物探しのような「見える(わかる)ヒトには見える」みたいなところがあって、それをどのように説明したら理解してもらえるのか、中途半端にできないだけに試行錯誤の連続なのです。
むらさき納言
私ならベクシンスキーの絵の「5」は「マギの礼拝」の部分を「受胎告知」にしますね。
ダ・ヴィンチの『受胎告知』での聖母マリアのようにも見えるので・・・
でも、みのるさんと同じく見事なネーミングだと思います。
ただ、錯覚にしろ、何だろうと「黄金比」的なものがあるのは確かでしょう。
みのる
ベクシンスキーのタイトルのネーミングがいいですね。
江戸川ドイル
何かがはぐらかされているようで、しっくりしません。
2号さんの言う、宇宙が完全を模倣する「思想型」なら、
セネカの言う「あらゆる芸術は自然の似姿である」や
アリストテレスの「芸術は自然を模倣する」という言葉
がスッと腑に落ちます。
たとえば、フィボナッチ螺旋や数列ですが、隣同士の数
の比は数が増えるにしたがって黄金比の値に限りなく
近づき、数式は一定の法則性を持っていてキレイです。
どこか神秘的で法則性が内在していることは、公理や
公式と同じく外的秩序に分類すべきもので、錯覚で
片付けられるものではないと思うのですが?
ココナン
「3回見たら死ぬ」と噂のベクシンスキーの絵が
ここで登場してくるとは予想外の展開です。

それにしても、ジラされっぱなしの連続のような。
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