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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 黄金比(改)

 「黄金比」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 黄金比 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 黄金比 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

goo blog

 

『ダ・ヴィンチの罠 黄金比』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで11作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 黄金比(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 今回は、前置きなしの真っ向勝負です。

 芸術(絵画)や建築などにおいて、数学的に
導き出された、所謂(いわゆる)「黄金比」
なる「美しさを定義する」指標としての
客観的な基準(数値)があるようですが、


      黄金比 オウムガイ

 そもそもの「黄金比」とは何でしょうか

 古代ギリシャの数学者エウクレイデス
(ユークリッド)は、


 エウクレイデスと黄金比 urbandental.ec-net.jp

 「ひとつの線分を、ふたつの等しくない線分
 に分けたとき、線分全体と長い部分の比が
 、長い部分と短い部分の比に等しくなれば、
 その線分は黄金比で分けられている」


        長方形の黄金比 wikipedia

 と定義しました。

 しかし、エウクレイデスは、

   
オックスフォード大学自然史博物館にあるエウクレイデスの像 wikipedia


ラファエロの壁画「アテナイの学堂」に画かれたエウクレイデス wikipedia

 「黄金比」が美的な性質を有する
とはただの一言も主張していないのです。


          画像元: e-kantei.net

 我々が何かを「美しい」と認識するもの、
それが個人の主観であることは自明です。

 ダ・ヴィンチがロゴス(宇宙論理)をして、
「イデアの影」が織り成す内的秩序の
部分的な現象を「黄金比」であると理解
したということは、



 それが、時代を超えて普遍にして不変なる
美の比率なのかどうかについての、些か
ならざる疑義があったからに他なりません。

 というのも、ダ・ヴィンチ自身が
     

    
    黄金比 ミロのビーナス

 「美は善ではない」という趣旨の
言葉を残していますし、

 「美と醜とが並ぶと互いに
     より力強く見える」とか、

 「美しいものと醜いものはともに
   あると互いに引き立て合う」

 とも言っていますが、そうした言葉の裏側に
潜んでいる本当の意味こそが重要なのです。



 ここでは類比(アナロギア right アナロジー)
ではなく対比(コントラスト)の効果の方が
「美」にしろ 「醜」にしろ、その個人が持つ
基準の枠を超えてその度合いを際立たせると
しているわけで、その判断基準は外的秩序
(公に認められる美の比率)にあるのではなく、
あくまでも内的秩序(個々人が思い描く美)
の部分的な現われが「黄金比」を意識させ、
その助成を促しているというわけです。



 要は、

 二つ以上のものを比較して類推する類比
から得られる「美醜」の基準よりも、二つの
対立する「美醜」に対する判断基準の方が
直接的である分だけ、判断上の決定における
強い主導権を持つ、ということのようです。

 言い換えれば、

 引き立て合うものの存在や比較する対象に
よって「美」の評価に違いがあらわれるの
だとしたら、

 あるいは「美醜」や「善悪」の基準が、
その時々(ケース・バイ・ケース)の条件により
個人的な差(違い)を生じさせるように

    

 万人に共通する「美」の「比率」などの
存在は現実には幻であって、


       基準・標準(STANDARD) nativecamp.net

 それを、以下に、例えてみると、

 ウィトルウィウス的人体図とは、

  

 理想とする人体比例を見い出すこと
が理想的な建築につながるものと考えた
ウィトルウィウスの理論をダ・ヴィンチが
具象化して、図解をしたものですが、



 彼はすべての構造は円と正方形を操る
行為になるとして、人体は理想的な比例
関係にあり、円形と正方形の考え方から



 人体の中心はへそであり、その部分に
コンパスを置いて円を描くと、指先と爪先
が円に内接し、足底から頭頂までの長さ
と広げた両手の長さを比べると正方形の
ように等しいと説いたそうです。

 この場合の半径(へそから下)の長さと
両手を広げた長さの比が、1:1.618…

 いわゆる「黄金比」になるという

ことですが、この図の比率を実際に計測

すると、1:1.6088… となり、 近似値

ではありますが、辻褄合わせなのです。


exclamation 実際の計測値の詳細については、

url http://www.crl.nitech.ac.jp/~ida/education/VitruvianMan/index-j.html

を参照してみてください。

 それによると、

 ダ・ヴィンチは相当の苦労をして、この
「ウィトルウィウス的人体図」
をあらわしたように感じるのですがase2

 尤(もっと)も、その主たる目的は、

☆★『ダ・ヴィンチの罠 相似性』
『ダ・ヴィンチの罠 幾何学(改)』

 などに記したようにまったく別のところに
あったわけで ・・・


          水準・標準・基準 hinative.co

 あくまでも内的秩序の部分的傾向
を、あたかも「黄金比」であるかのように
錯覚させているということのようです

 もちろん、「罠」の仕掛け人としては、

 こうした錯覚を最大限に利用しない
手はないわけで、こうしてダ・ヴィンチ自身が

 
  
 端から「黄金比」の存在を知っていたか
の如き伝説を誘導するような事実の誤認が
まかり通ることになるわけです。

 当然に、そのことは、

 視覚によるものだけでなく、イメージ
や解釈上における錯誤もあるわけですが、


 たとえば、

 ジョン・レノンが『イマジン』する世界
からは程遠い不気味なこれらの絵画は、

 ― 1 ―


 ― 2 ―


 ― 3 ―


 ― 4 ― ①


 ― 4 ― ②


 ― 5 ―


 ― 6 ―


 ― 7 ―

  
 アナタに何を想起させ、どんな物語を
語らせるというのでしょうか?

 ― 8 ―
   

 ― 9 ―
  

 小生ならば、迷うことなく、

 1 終末の海を往く「ノアの箱舟」の物語
 2 現代版における「バベルの塔」の物語
 3 終末の名高い英雄「ネフィリム」の物語
 4 荒れ野で男の子を産む女の物語①.②
 5 「マギの礼拝」と終末の聖母子の物語
 6 『ヨハネの黙示録』の蒼白い馬の物語
 7 崩壊し破滅する「ノアの箱舟」の物語
 8 イエス・キリストの磔刑に纏わる物語
 9 廃墟で産声をあげる神の子の物語

 そして、突き詰めれば、


       出典:www.2cb.info

 ということになるわけですが ・・・


        出典:www.2cb.info

 さて、

 ズジスワフ・ベクシンスキーという
名前の画家がポーランドにいました。

 

 彼は、2005年にワルシャワの自宅において
メッタ刺しにあって殺されています。

 前記した絵画の制作者です。

 事件は二人の若者によって凶行され、彼の
長年のパトロンであり友人の息子が主犯格と
して逮捕されていますが、

 果たして、

 借金を断られたことが動機になっているよう
ですが、真相は不明です。

 個人的にはもっと別のおぞましい理由が
あるように思えてなりません。

 そうでなければ、

 全身に17箇所(内2箇所が致命傷)の傷を
負わせる動機としては、余りにも短絡で希薄
過ぎる気がします。


 ・・・ って、さあ、

        
     (黄金比と何か関係あんの)

 そ、そうですねase2

 もう少し我慢して付き合ってください。

 このベクシンスキーの描く絵には
タイトルがないのです。

 というよりも、作者がタイトルをつける
ことを禁じていたのです。

 従って、

 1 の場合には、制作年度の「1985」と
呼ぶ以外に方法が見つかりませんし、他も
同様の呼び方(タイトル)となっています。

 ベクシンスキーは自分の作品に
何らかの意味付けや物語的解釈をされる
ことを頑なに拒み続けた画家でした。
   

 

 彼の画集(Pan-Exotica)の帯文
には、「荘厳なまでに美しく静寂にみちた
終末世界」とのキャプションが付いている
し、どの絵を見ても終わりの世界の情景
を感じさせるものばかりですが、

 そもそも、画家が自らの作品を鑑賞する
者に対して、その解釈を拒むなどという
ことがあってもいいのでしょうか?

 いったい如何なる了見によるものなのか
事態がいまいち呑み込めません。

 第一それは画家にあるまじき越権行為
であり、見る側がどんな解釈をつけようと
それは勝手だし、自由なはずです。

 奇怪で、そのくせ妙に卑猥で、きわめて
具象性のある衝撃的な作風からは、否応
なく強烈なストーリーが誘発されます。

 そこで、さらに勝手にタイトルを付ければ

  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


  【偽キリスト・反キリストの出現物語】


  【鉄の杖を持つとされた男の子の彷徨】


  【選ばれし144,000人の天国への入口】


 といった具合に、

 どこまで行ってもことのごとく悲観的で
悲愴感に溢れるベクシンスキーですが、


 しかし、

 それでも、なお、拒否するのであれば、
それはどんな解釈もあたらないものとして、
すべて間違いであり、ありとあらゆる解釈
が正しくないという意思表示(宣言)で
あると理解するほかはないでしょう。


 もし、仮に、

 世界の終焉に立ち会ったとして ・・・

 この世の終わりを目撃する時、我々は
その光景に瞠目し、身動きできないまま
に、ただ凝視するだけの自分を知ること
になるのかもしれません。

 おそらく、

 ベクシンスキーは、そうしたことを
伝えたかったのかもしれません。

 願わくば、

 何が起こったのかさえも気づかぬうちに、
瞬時に消えてしまうのが望ましいのですが、

   
茫然自失 proverb-encyclopedia.com

 状況を理解できずに茫然と佇んでいるか、
へたり込むのがオチなのかもしれません。

 それでも、まだ、

 彼のように17箇所も刺されて苦しみながら
死ぬよりはずっとマシかもしれませんが、

 さて、

 ベクシンスキーを引き合いに出した
のは、ある意味で、ダ・ヴィンチとは同極に
あり対極にある画家だと思ったからです。

 あらゆる解釈を拒否する者とあらゆる
解釈を容認する者という違いだけでなく、


         「YES or NO」 coconala.com

 あからさまに終焉を語る者と、気づかぬ
ままに手をこまねいていると破滅に到る
という物語を紡がざるを得ない者同士の
対極が魅せる「黄金」の対比です。


    画像元:サタンとイエス blog.goo.ne.jp

 連続する歴史のストーリーを排除すれば、
どちらも終末をターゲットに、それを
明示するのか、暗示するのか、の違い
であって、表現しているモチーフは同じ
「この世の終わり」です。


     来るべきこの世の終わり www.youtube.com

 一方は、その結果としての惨状を、他方は
その成り立ちからのプロセスとともに回避の
祈りと願いを込めた「罠」としてそれぞれ
の作品に表象しているのです。

 ありていに言えば、

 ベクシンスキーは終末以外の
解釈の余地を極端に恐れた結果
として、いかなる解釈をも拒んだのであり、



 逆に、ダ・ヴィンチは「何でもあり」の
解釈を許すかわりに終末へのベクトルを
避ける道を「罠」に託したわけです。

 
   「YES or NO」 hlt.no

 もちろん、だからと言って、

 「何でもあり」を理由に、ヨハネの
右腕も「二本ある」などという虚言を
弄するつもりは毛頭ありませんが、

 ええい、黙って聞いてりゃ、さっきから

    
 (ゴチャゴチャとうるせえんだよな)

 だから、いつになったら二本の腕の秘密が
分かるわけ


一本目の右手   二本目は結ばれた両手の一方

 それに、

 三次元空間とか、四次元時空とかの話も
疾(と)うの昔に消えちゃってるし ・・・


 え~と、何分(なにぶん)にも

    

 あれこれと外堀を埋めて行かないと複雑
で理解しずらいトリックですからase2


 それでは、

 早速、本題に入りましょう。

 って、おいおい、前置きなしの

「真っ向勝負じゃなかったのか!?」



 「マッコウ勝負じゃ」

 そ、それは、クジラだけど、



「マッコウクジラじゃねえし・・・」

  

マッコウクジラは、こちらです! 

   
 まあまあ、つまり

 「こういうことじゃな」

 ベクシンスキー VS ダ・ヴィンチの関係が
終末における対比としての 1:1.618
の「黄金比」のような錯覚を起こして
いるというお粗末な一席なんじゃとさ。
 

  

 と、いうことで、

 「どうも、お後がよろしいようで」

  

 ほんとうは、

 

 「ちっともよろしくないんですけど」


     画像元: domani.shogakukan.co.jp


       ネっ !! ase

OH!
   


 … to be continued !!

コメント一覧

小吉
ペクシンスキーの絵を見ていると厨二病的な感覚を持つ。
例えば僕が中学か高校生のころ特に理由もなく残酷な絵を書いていたけれど、それにはメッセージとか意図とかはなんにもなくて、ただただ「そういう絵を書きたかった」というものがある。
短絡的かもしれないけれどもしかしたらペクシンスキーの絵は「ただグロいものを書きたかっただけ」だったりして笑
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