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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 受膏者

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 受膏者(改)』です。

 (以下、本文)

 

 『ダニエル書』9:26の最初のフレーズ、

 その六十二週の後、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


 このとは、

 いったいのことを指しているのか

 聖書信奉者が100人いれば、おそらくは
100人が全員もれなくイエスの名を挙げ、

 聖書の研究者にしても、大多数の者が
それはイエスであると言うでしょう。



 すなわち、「ユダのライオン」
「神の子羊」としてのイエスです。

 しかし、ダ・ヴィンチは違いました。

 この受膏者洗礼者ヨハネだと、

 考えてもみてください。

 「彼には何も残らない」のです。

 さて

 『ダニエル書』に限らず『聖書』
は微妙に異なる意訳が多々見られます。


    出典:i.ytimg.com

 もちろん、翻訳の仕方よって、それらは
大きく違った意味にも、あるいは、まるで
逆の趣旨にも感じられるものもあります。

 冒頭の一節は 【新改訳改訂第3版】
ですが、他の『聖書』でのその部分は
 
 「その六十二週の後にメシアは断たれ
 るでしょう。 ただし自分のためにでは
 ありません」   (口語訳)

 と、なっています。

 その他にも 【新改訳改訂第3版】では

 「あなたの民とあなたの聖なる都につい
 ては、七十週が定められている。
 
 それはそむきをやめさせ、罪を終わらせ、
 咎を贖(あがな)い、永遠の義をもたらし、
 預言とを確証し、至聖所
 をそそぐためである」

   (ダニエル書 9:24)


 古代のエルサレム jollyboy.sakura.ne.jp

 「あなたの民」とはユダヤ人のことで、
「あなたの聖なる都」とはエルサレム
のことをさしています。

 この節においても多くの『聖書』では、

 この「七十週が定められている」の後は、

 「これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、
 不義をあがない、永遠の義をもたらし、
 預言者じ、いと聖なる者に
 油をそそぐためです」  (口語訳)

 と、なっていて、主に下線部分に大きな
相違が見られます。

 一方は、

 預言確証し、膏を至聖所
そそぐためであり、

 もう一方では、

 預言者じ、油をなる
にそそぐためとなっています。

 片や、幻と預言の数々を確実に証明し、
至聖所に膏をそそぐ ・・・


   「神の栄光」 mayonez.jp

 つまり、「幻と預言とを確証する」とは
『聖書』のすべての預言成就
することで、「至聖所に膏をそそぐ」とは
神の栄光の光(シャカイナ・グローリー)を
見ることですから、この聖句の場合には、



 現在においても、未だに、その成就
見ないでいることを意味します。 

 片や、幻と預言者の現出を封印して、
最も聖なる者に油をそそぐ ・・・

 つまり「幻と預言者とを封じる」とは、
「神」からの天啓的預言者
これ以後には出現させないことを意味
し、「いと聖なる者に油をそそぐ」とは
最も聖なる者をメシアにすることです。

 そのいずれにせよ、これはダニエル
の祈りに対して、天使ガブリエル
語った「神」約束言葉ですが、

  

 ダ・ヴィンチはそのどちらの解釈ともに
微妙な間違いがあると考えたようです。

 一般に、

 『旧約聖書』『ダニエル書』9章
メシア到来の時期と十字架上の死、
そして終末出来事を語ったもので
「七十週預言」として有名ですが、

 いかなる状況下での話かと言うと、

 イスラエルの民が「神」に従わずに、
罪を犯していることを嘆いたダニエルが、

 その行いが「神」「悪」なる
ものとなれば、イスラエルのユダヤ人は
「選民」ではなくなり、約束されていた
メシアの到来も反古にされると憂いて
一心不乱に祈りを捧げていたところに
ガブリエルが現れて「神」の言葉
を告げるという設定です。

 その意味では、直前の「永遠の義」
も未だにもたらされてはいませんが

 それでは、『ダニエル書』


 出典:www.mustardseedosaka.com

 第9章の頭の部分から見てみましょう。

 「メディア族のアハシュエロスの子ダリヨス
 が、カルデア人の王になったその元年、」
     (ダニエル書 9:1)

 「すなわち、その治世の第一年に、わたし、
 ダニエルは、預言者エレミヤにあった主の
 言葉によって エルサレムの荒廃が終わる
 までの年数が七十年であることを、文書
 によって悟った」  (ダニエル書 9:2)

 とあります。

 バビロンの王ベルシャザルが殺害されて
ダリヨスが王となり、そこでダニエルは大臣
になりますが、おそらく、それはエルサレム
帰還の1-2年前のことだったと思われます。

 ここでエルサレムの荒廃が終わるまでの
年数が七十年であるとは、バビロン捕囚
の後、七十年でエルサレムに帰還できると
いう約束のなかで「神」が語った言葉で
あって、メシア出現終末を告げる
「七十週預言」と直接関係するもの
ではありません。

 「神」の計画通りにエルサレムへの
帰還は成就しますが、


 エルサレム帰還後の神殿の再建 blog.livedoor,jp

 問題はダニエルの祈りにありました。

 七十年を経ての「神」による救済計画
には、「(私を)呼び求めて歩き、祈るなら」、
また「心を尽くして、探し求めるなら」という
願い、求め、祈る、ことが条件でした。

 ですから、ダニエルはただひたすらに
未来でのメシア来臨が必ずや成就
されるようにと祈り続けていたわけです。

 『ダニエル書』の場面設定はおおむね
バビロンの捕囚時代(前605年ー539年)の
バビロンが舞台です。


   バビロン捕囚 wikipedia

 バビロンの第一次捕囚を前597年とする
のが普通ですが、ダニエルたち一部の
有能な者を連れ去ったのは前605年で、

   第一次捕囚 B.C.605年、
   第二次捕囚 B.C.597年、
   第三次捕囚 B.C.586年、
   第四次捕囚 B.C.583年、
 
 都合4回の捕囚があったというのが小生
の見方です。

 『ダニエル書』『旧約聖書』の正典
の一書ですが、アカデミズム的な見解では
紀元前164年の前半ごろに書かれたものと
推測が主流のようです。


 「アレクサンドロス大王とその家族」Wikipedia

 それというのも、紀元前323年6月10日に
アレクサンドロス大王バビロン
急逝してから、パレスチナ(ユダヤ)の地は
エジプトプトレマイオス王朝の支配
の下に置かれていました。



 紀元前198年にセレウコス朝シリア
アンティオコス3世がパレスチナを支配下
に置くと比較的平和だった時代から事態は
一変することになります。

 エルサレムを占領したアンティオコス4世
エピファネスは エルサレム神殿を略奪、
ユダヤ教を迫害し、偶像崇拝を強要します。

     
      エピファネス

 エピファネスによるユダヤ教の弾圧に
対し、紀元前167年~164年にかけ、ユダヤ
側からの激しい抵抗運動が起こります。

 所謂(いわゆる)、「マカバイ戦争」
(マカバイの反乱)ですが、『ダニエル書』
もまた、こうした状況下における抵抗文学と
して、ユダ・マカバイとは別のグループ
(共同体)によって書かれたものとの見方が
大勢のようです。

 つまり、


 ユダ・マカバイの勝利 ギュスターヴ・ドレ画

 それは実際の出来事をベースに預言
組み立てられたようで、エピファネス
最初にエルサレムを襲ったのは前169
で、前167年の2度目のエルサレム襲撃
からユダヤ教に対する全面的な迫害が
始まるわけですが、

 この後、およそ3年半あまりの期間を経て
エルサレムが解放され 神殿が浄められる
のが前164年のことです。

 8章13-14節にある「2300の夕と朝」
を日に換算すれば1150日ですから、3年
少々ですが、この間に「荒らすことをなす
罪と聖所とその衆群がわたされ」
(8:13)

 12章11-12節 の

 「荒らす憎むべきものが立てられる
時から、
1290日が定められている」



 そして、さらに、

 「待っていて 1335日にいたる者は
さいわいです」
とは、エピファネス
ユダヤ教の迫害を始めてから3年8か月
あまりを経て、エルサレムの神殿が回復
されたことを示すとの解釈であって、

(この祝いがユダヤ教の神殿奉献祭です)

 これらの記述から、『ダニエル書』
弾圧が始まり、迫害が3年目に入った頃
(前164年の前半)に書き始められ、3年
半ほどして、纏(まと)め上げられたもの
(後に加筆あり)と推定されるわけです。
 
 ところが

 『新約聖書』と違って『旧約聖書』
は甚だ寛容なレオナルド・ダ・ヴィンチは、



 ダニエルなる者が、「バビロン捕囚」の
終わりの時代にバビロンの地で、この書を
記したものとして推理を展開したようで、

 『ダニエル書』記述内容(私訳)も、



 「あなたの民と、あなたの聖なる都に
 ついては七十週が定められている。

 これは、

 背きをやめさせ、罪に終わりを告げ、
 以って不義をあがない、永遠の義を
 もたらし、幻と預言とを封じ、至聖所
 に膏をそそぐためである」(9章24節)

 「それゆえ、エルサレムを建て直せと
 いう命令が出てから、メシアなるひとり
 の君が来るまで、七週と六十二週ある
 ことを知り、かつ悟りなさい。その間に
 しかも苦しみの時代に、エルサレムは
 広場と堀が建て直される」(9章25節)

 「その六十二週の後、膏そそがれた者
 は断たれ、彼には何も残らない。 また
 来たるべき君の民は、町と聖所を破壊
 する。 終わりは、洪水のように起こり、
 その終わりまで戦いが続いて、荒廃が
 定められている」  (9章26節)

 「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
 を結び、半週の間、いけにえと捧げ物
 とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
 者の翼に現れる。 ついに定められた
 絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」

 

  (ダニエル書9章24-27節)

 といった私的な翻訳で、その解釈も、

 24節については、これまでの罪や不義
なる行いをイスラエルの民が悔い改める
 つまり、改心するのならば「神」
約束において、不義(あがな)い
永遠をもたらすと言っているので
あって、下線の部分は七十週の期間が
終わるまでに「神」が執り行う行為
目的を述べているとしたわけです。

 聖書の常識から言えば、

 25節はイエス・キリスト降誕
時期に関する預言とされていますが、

 この場合のメシアとは単なる大祭司
や王ではなく、

 「背きをやめさせ、罪に終わりを告げ」
させる人物を指していて、その行為が
「神」の目において確証された後に、

 「不義を贖って、永遠の義をもたらす」
という「神」の約束を果たさせること
ができる存在でなければならず、



 『ルカの福音書』でのダビデ王
再来としての出現の告知でも、

 『マタイの福音書』から人々
救う者としてのキリストの存在とも、



 少なからざる違いが生じるわけです。

 そして26節では、その六十二週の後、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


 つまり、この彼が「受膏者」
なるべきはずの洗礼者ヨハネであった
とするのが、ダ・ヴィンチの推理ですが、

 具体的には

 なる救世主(キリスト)はアロン
メシアであった洗礼者ヨハネであり、
彼の後継者たるイエスイスラエル
メシアとなる計画であったものが、

      

 ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパス
政治的判断からか、あるいはヘロディア
奸計によるサロメの一言(おねだり)
に起因するのかの真偽は別にしても、


 『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ(1608年)

 結果的には、頓挫してしまったわけで、


 『洗礼者ヨハネの斬首』部分

 まさしく、これが、

 「天の配剤」であるのか

 はたまた、

 「神の計画」であったのか



 ダ・ヴィンチは、その原因イエス
裏切りがあったと見たわけですね。

 「およそ女から生まれた者の
   うち、洗礼者ヨハネより
     偉大な者は現れなかった」

 とイエスは言っていますが、彼自身が
女(マリア)から生まれた者である以上、

 「私のほかに」とか、「私を除いて」とか、
の断りがない以上、洗礼者ヨハネ
方が自分よりも偉大であると自ら言明
していることになります。

 さらにQ資料によれば、

    

 イエス洗礼者ヨハネについて

 「すべての預言者と律法が預言した
 のは(救世主)ヨハネのことである」

 としています。

 ヘブライ語版の『マタイの福音書』
では、洗礼者ヨハネは「世を救うため
に遣わされた」との記述であるのに、

 ギリシャ語版では「すべてを元どおりに
するために遣わされた」と訳されていて、

 故意に「先駆者」としてのヨハネ
印象付ける文言に変更されています。

   

 編纂者による意図的な改竄があったと
疑われても仕方のない意訳ですが、

 イエス自らが、洗礼者ヨハネこそ
「救世主」(メシア)であると、


   出典:www.diwanmsr.com

 そう述べていて、その具体的な行動が
洗礼者ヨハネから受ける「洗礼」
であったわけです。


 イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp

 ちなみに、9章24節の下線部にある

 「幻と預言とを封じ」とは、次の
 「七週と六十二週あることを
 知り、かつ悟りなさい」
(25節)

 の、知って悟るべき事柄を指します。

 メシアなる人物が登場するまでに

 エルサレム帰還後の神殿の再建命令
が出されてから、七週と六十二週あると
わざわざ分けていることに 特段の意味
があるわけですが ・・・

 さすがに、

 それらの説明には紙幅が足りません
ので、次回の解説テーマといたします。

 さて、

 七週と六十二週の起点となるのは
再建命令のあった年ですが、

 命令は全部で4回、出されています。

  一回目 B.C.537年(~539年)
  二回目 B.C.518年(~520年)
  三回目 B.C.457年
  四回目 B.C.444年(~445年)

こりゃあ、何かあ

 「四択問題じゃな」



 三回目だけスッキリしてるし、

 「B.C.457年が正解ね」

   

 さても、それは、

 「引っかけじゃな」

 

 「甘い誘導じゃ !!

 わしゃ、一回目の真ん中を取って、

 「B.C.538年頃にするわ」

 ・・・ っておいおい



 またしても、汚い手を使いやがって ・・・
 
 もういい加減、

 「オチで遊ぶな !!

 

 でも、正解はB.C.457年なんだよね



 正解なんてあるのかよ

      
     (ホンマかいな)


  『洗礼者ヨハネの誕生』1655年頃

 そして、

 洗礼者ヨハネが「斬首」されたのは、


 『洗礼者ヨハネの斬首』部分

 A.D.28~29年頃のことと思われますが、


 『洗礼者ヨハネの斬首』部分



 『サロメ』ルシアン・レヴィーデュルメル画(1896年)

     こ、これは ・・・


      (ゲロゲロ ・・・)

 … to be continue !!
      (… to be continued !!)peace


  ドラゴン・レーダー(プロトタイプ)

『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

   


  出典:plaza.rakuten.co.jp


     『死海文書』(死海写本)

コメント一覧

ガブリアス・マーレン
七十週預言に興味があって「ダニエル書の罠」でググったら、このサイトが示されました。

黙示録の難解さに比べて、ダニエル書の預言は比較的わかり易く、史実にも適合していると思っていましたが、これが紀元前6世紀ではなく、紀元前2世紀に書かれたものであるとすると、4番目に登場するローマ帝国だけ名前が示されていないことの説明がつきます。

しかし、ここでは、あえて、紀元前6世紀にダニエルが書き記したものとして、預言の解釈をしていますが、預言されていたメシアの到来はイエスではなく洗礼者ヨハネだとする、到底、あり得ないような推理を展開しています。

どんな根拠を示すのか? 「七十週」というページもあるので、これから読み進めてみたいと思います。
やぶにらみ
このページを前後して、『ダニエル書』9章の解読に関する解説が続いているが、ドイルさんのコメントにあるように、サロメはどうなっているのか?

これだけ引っ張るからには、それなりのオチが用意されているのだろうが・・・
ダメな便利屋
ダニエル書とポントルモの絵に関連があるかどうかについては関知しないし、きくらげ氏のコメントも憶測の域を出ないものである。

『七十週』でのドイル氏のコメントにあるように、考えすぎだと思うし、次回以降への布石である公算が高いと考える。
きくらげ
2回の間を置いてから、ダニエル書9章についての解説を
最新の記事『七十週』において、展開したのは、やはり
「DN」⇒ ダニエル書9章 = Daniel Nine
のサインの疑いのあるポントルモの絵の話題をコメント欄
から一時的に避けて遠ざけるための迂回作戦だったとの
邪推や憶測も生まれるが、果たしてどうなのだろうか?
江戸川ドイル
このページの続きが近々にあるのは間違いないことだけど、
思わせぶりだけで、ちっとも進まないサロメには、一体、
何が隠されているのだろう?
ココナン
その両方とも可能性が高いと思いますよ。ダブル絡みでは、
特に『中性美』ですかね、今のところかすりもしませんが、

それと、このページの続きがあるはずです。

四択問題を出しておいて、そのまま知らんぷりはないはず
ですから・・・
江戸川ドイル
それって、ダブル絡みのページに伏線がある可能性のこと、
それとも「ダニエル書」の9章絡みの方のことかな?
ココナン
どう答えようかと思案中に『神格化』がアップされたので、
むらさき納言さんへのコメントを控えたんですが、ヘタな
ことを書かなくて良かったと思っています。

やぶにらみさんが『神格化』で指摘したように、多面的で
計画的ではあっても、コメント欄の内容に左右されている
ことは確かなようで、サロメの話がなかなか進まないのも
その影響というか、進行上の都合や差し障りのある何かが
コメントの中にあったのかもしれません。

さらに言えば、ドイルさんの7/18と7/20のコメント内容に
近いストーリーが、これから展開されるような気がします。
むらさき納言
更新のタイミングや記事の内容をコントロールしてるとするなら、今回の遅れ(『邪魔者』からひと月近く更新無し)は何が原因だとココナンくんは思うわけ。
ココナン
こっちで騒ぐ内容が「罠」の進行の妨げになると感じた時に、更新のタイミングと記事の内容をコントロールするから、極端な遅れや予告と違う内容になるんだと思いますよ。

現に、『邪魔者』は『濡れ衣』の焼き直しで、『眉唾物』の一部もリピートです。

この頃にアナグラムから導かれたポントルモの絵や三種の神器や諏訪湖などがコメント欄での話題の中心でしたが、ポントルモの絵はともかく、三種の神器やマナの壺に似た諏訪湖は、今は話題になりません。

迂回して鎮静化をはかったと思っていますが、[D]の謎の発生源もココですし、何か狙いがあるのだと思います。
むらさき納言
最新の記事『邪魔者』の中で、ポントルモの絵に関連する
何かが書かれているかもと期待をして読んでたんですが、
肩透かしもいいとこでした。

ダ・ヴィンチの絵に限らずポントルモの場合も明らかに
ヨハネとイエスの入れ替えを意識してると思います。

核融合の意味は、やぶにらみさんの言う通りですが、

次回の解説のテーマとしていたダニエル書の預言にある
七週と六十二週に、わざわざ分けていることへの言及は
一言もありませんでした。

あとで『邪魔者』にもコメントするつもりですが、確かに
ひとつひとつの点が線になっていく実感はあります。

でも、謎が多すぎるのは問題です。

と言っても、こちらが勝手に騒いでるだけのことですが。
やぶにらみ
その場合の核融合とは、水素(ヨハネ)がヘリウム(イエス)に変換されたことを指すわけですな!?
むらさき納言
ダニエル書9章でもダブルネームでも、その他の「DN」
の候補も、皆 それなりの説得力を持つように感じるのは
それだけポントルモの絵にさまざまな解釈を許すだけの謎
があるということですよね。

『中性美』と『裏切者』でのやぶにらみさんの解釈は見事
ですし、そちらにもコメントするかもしれませんが、この
「DN」のサインのある絵が、核融合的な反応を起こして
いるのは確かで、絵にもそうした意図が込められているの
かもしれません。
やぶにらみ
いやはや、そんなに買い被られても困りますな。

一応、『中性美』と『裏切者』のページを調べてみますが、期待せんでくだされ!
江戸川ドイル
ダブル・ネームいいですね。

そもそも、「DN」のサインのあるポントルモの絵画は、
隠された9頭のイルカが描かれた「ダブル・イメージ」
としての『隠し絵』のページが出発点だったはずです。

他にダブルで表現される副題は「ダブル・ジェンダー」
としての『中性美』ですが、ココナン君の直感にある
ように、このページにも伏線が仕組まれている可能性は
小さくないと思われます。

聖痕のある聖アントニウスという不可解な謎を秘める
『聖母子と聖アンナ』に登場する聖セバスティアヌス
がテーマの『中性美』には、きっと何かあるはずです。

現時点では、皆目見当もつきませんが、何か気づいたら
『中性美』のページにコメントを入れます。

そして、もうひとつ、『裏切者』もダブルで表記される
タイトル(Double crosser)で、ここにも伏線があると
睨んでいるのですが、やぶにらみさんの戯言を待つこと
にしたいと思います。
やぶにらみ
「二人でひとりの君」だったとするとポントルモの「DN」のサインとやらは、ダニエル書9章とふたつの名前(ダブルネーム)のダブルの意味かもしれませんな。

イタリア語では、Doppio Nome、

やぶにらみの戯言として聞き流してくだされ!
江戸川ドイル
要するに、ダニエル書9:25にある7週と62週後に来るとされる「ひとりの君」は洗礼者ヨハネのことであって、イエスではなかったけれど、イエスの裏切りで、結果的にイエスを指すことになったということですね。

ただ、『濡れ衣』の記事を読むと、「ひとりの君」ではなく、ヨハネとイエスの二人のメシアのはずだったので、「ひとりの君」とは「二人でひとりの君」という意味ではないのかとも思えるのですが、そういう解釈ではなかったのは意外です。

個人的に「D」の秘密の肝はダブルにあると睨んでいるので、そうだと嬉しいのですが、今後の記事の展開に期待します。
ココナン
ダニエル書9章か! 気づかなかった。

この『聖母子と聖人たち』の絵については、かなり前から
不思議に思うことがあって、使徒ヨハネと聖ヤコブの兄弟
はヤコブの方が兄なのに壮年ぽく描かれていて使徒ヨハネ
はジイさんです?

同様に、十字の杖を持っている方がイエスではなく本当は
洗礼者ヨハネだとすると、ここでも見た目での年齢が逆転
するし、「斬首刑」でむらさき納言さんの言う聖母マリア
と幼児のヨハネがそっくりなのも、本当はヨハネがイエス
で、イエスがヨハネなら辻褄が合います。

つまり、それは『岩窟の聖母』のパターンで、記事の内容
とも合致するように思われるのですが・・・
おじゃま虫
記事を読みながら、何かアナグラムにつながることがないかと、ぼんやり考えていた時に、ビビッて来たんです💡

ポントルモの絵の「DN」て、Daniel Nove
ダニエル書9章の略じゃないか?って・・・

それで、絵を見直して、またドキッてしたんです。

「DN」のサインのある石に腰かけているのは使徒ヨハネで
ヨハネが書いているのが、福音書ではなく黙示録だとすると
終末預言その他、ダニエル書との関連性はバッチリです。

きくらげさんやケイシさんたちは、認めたがらないけど、
やっぱ、アナグラムやスヌーピー謎は記事の内容とリンク
してると思います。
きくらげ
そう感じるだけで認めたということとは違います。

「兄弟」が一つの鍵になっていると思わせる配役や構成に
なっているように思えるということです。
むらさき納言
今回のきくらげさんのコメントは随分とお堅い感じですが、

ポントルモの絵にヨハネとイエスの兄弟説を窺わせる臭い
を感じたということですよね!
きくらげ
翻訳や意訳という観点からだけで言えば、聖書の預言解釈も
アナグラムの解読も、さほど大きな差があるとは思えない。

少なくともノストラダムスの四行詩なんかよりはよっぽど
確度が高い。

もっとも、何をもって確度とするかだが、その拠りどころ
いかんでは、只の危ういだけの言葉遊びになってしまうが
まったくの無視も出来ない。

なぜなら、偶然に見える必然は存在するし、必然に見える
偶然もあるからだが、ここでのアナグラムが前者であって
欲しいと願わずにはいられないのは、ポントルモの絵画が
それだけ奇怪で意味深な顔をのぞかせる点にある。

ただし、むらさき納言さんの唱えるアナグラム派ではない
ことをひとこと添えておく。
やぶにらみ
何か、今回もはぐらかされたような。

毎回のように思わせぶりなサロメの印象操作があるが、
サロメが主役となる日は、本当に来るのか!?
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