このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
「あなたがたによく言っておく。およそ女
から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
偉大な者は現れなかった。しかし天の国
で最も小さい者でも彼よりは偉大である」
(マタイの福音書11:11)
大雑把に言ってしまえば、古(いにしえ)
の昔から現在までイスラエル(ユダヤ)の
人々にとって、救い主となるべきメシア
の預言は成就しないままにあるのです。
旧約時代のすべての族長も預言者
も王も民衆も「メシア」(救世主)の
到来を待ち望んでいたわけですが、
イスラエル(ユダヤ)の人々にとっての
「メシア」(救世主)は21世紀の現在
に至るも未だ見えざる存在なわけです。
ところが、
その待望の「メシア」(キリスト)が
イエスであって 「救世主」としての
イエス・キリストを信じれば救われる
(永遠の命が保証され、天国へと行ける)
とするドグマ(教義)を打ち立て、
出典:Wikipedia
世界的な大宗教へと上り詰めたのが
「キリスト教」なのですが、
彼らが、2000年も前に果たされたという
旧約聖書の「メシア預言」の成就
を謳(うた)う以上、
イエスの弟子であるマタイとしては
『最後の晩餐』でのマタイ
イエスが、洗礼者ヨハネのことを
「女から生まれた者のうち、
最も偉大な者である」と
評したとするしか手がなかったのです。
その理由(わけ)は、洗礼者ヨハネ
がアダム(正確にはアダムは、女から
生まれた者ではないのだが、)に始まり、
アブラハム、イサク、ヤコブを経て、
「大洪水」を生き延びたノアから
出典:blog.goo.ne.jp
さらに
ダビデ、ソロモンと続く家系(子孫)
から出現する「メシア」=イエスに
洗礼を授けた人物だからであって、
「あなたがたによく言っておく。およそ女
から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
偉大な者は現れなかった。しかし天の国
で最も小さい者でも彼よりは偉大である」
(マタイの福音書11:11)
つまり、突き詰めれば、
「古い時代(旧約)に生まれた者の中で
最も偉大な洗礼者ヨハネよりも、
新しい時代(新約)において、イエスが
キリスト(救世主)であると信じる者の方
がずっと偉大だ」と喧伝しているのです。
巧みなレトリックと言うか、計算された
詐欺的な大言壮語と言うか ・・・
例えて言えば、
キリスト教徒でないアナタがキリスト教に
改宗し、心からイエス・キリストを信じ、
帰依したならば、アナタは紀元前の時代に
活躍したギリシャの大哲学者たちやブッダ
や孔子や老子などの東洋の偉人たち ・・・
そして、
『預言者モーセ』フィリップ・ド・シャンパーニュ(1648‐63年)
旧約聖書に登場するモーセやエリヤなど
の大預言者たちよりも、ずっと偉大である
ということなのです。
なにしろ、イエス以前には
「洗礼者ヨハネより偉大な者は
現れなかった」というわけで、
古えの聖人・哲人などの偉人たちよりも、
ただ単にイエスを信じ、帰依するアナタ
たちクリスチャンの方がずっと上位にあり、
偉大であると ・・・
そう言っているわけです。
これほどに不遜で図々しくも厚かましい
文言があるでしょうか
ラファエロ・サンティの代表作
『アテナイの学堂』ラファエロ・サンティ
『アテナイの学堂』に登場する
人物よりも、イエスを信じたというだけ
で天の国への切符を手にした人たち
の方がずっと偉大であると ・・・
『アテナイの学堂』部分 Wikipedia
① ゼノン
② エピクロス
③ 不明
④ エンペドクレス
⑤ イブン=ルシュド(アヴェロエス)
⑥ ピタゴラス
⑦ アレクサンドロス大王
⑧ アンティステネス
⑨ ヒュパティア( Rの愛人マルゲリータ)
⑩ クセノフォン
⑪ パルメニデス
⑫ ソクラテス
⑬ ヘラクレイトス( ミケランジェロ)
⑭ プラトン( レオナルド・ダ・ヴィンチ)
⑮ アリストテレス
⑯ ディオゲネス
⑰ プロティノス
⑱ アルキメデス
⑲ ゾロアスター
⑳ プトレマイオス
㉑ プロトゲネス( ソドマ or ペルジーノ)
R ラファエロ自身
印は、モデルとされるRの同時代人
上記は Michael Lahanas の推理による
ものですが、
詳しくはWikipediaを参照してください。
でも、これって、
「PC(ポリティカル・コレクトネス)」
ポリ・コレ的に言ってアウトでしょ !!
「PC」=ポリ・コレについては、
『ダ・ヴィンチの罠 先駆者』
を参照してみてください。
イエスの登場以前に、この世に生を
享けた人間は、たとえ、どんなに立派な
業績を残して誠実に生きたとしても、
イエスの登場以後にクリスチャンに
なっただけの人間より劣るなんぞは・・・
「愚の骨頂」も骨頂で、甚だしく
馬鹿げていて話にならないと思ったか
どうかは知りませんが、
かのレオナルド・ダ・ヴィンチが
これを問題視したのは確かでしょう。
つまり 何が言いたいのかと言えば、
洗礼者ヨハネはイエスの深層に
魔導師やトリック・スター的な影の
要素を見つけ出していたのではないかと、
ダ・ヴィンチが疑っていたということです。
ところで、
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)では、
洗礼者ヨハネをイエスの到来以前
に、その道を整える「預言者」であると
位置付けられていて、彼はエリヤである
とされていますが、それこそがイエスの
計画に沿った視点からの誘導なのです。
洗礼者ヨハネがエリヤであるという
福音書の伝承は、メシア出現の先駆けと
してエリヤの再来が預言(期待)されて
いたからですが、
洗礼者ヨハネについては、
『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ
彼自身も否定し、彼を取り巻く会衆である
ヨハネ共同体の弟子たちの認識もエリヤ
の再来とは見做していなかったようです。
『ヨハネの福音書』によれば、
「あなたはどなたですか」と訊ねられた時、
「わたしは、エリヤでも、キリストでも
ない、ただの荒野の声だ」と答えています。
(ヨハネの福音書1:19-23)
「わたしは、預言者イザヤが言ったように
『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んで
いる者の声です」 (ヨハネの福音書1:23)
その『イザヤ書』にある言葉とは、
『イザヤ書の第二写本』
「荒野に呼ばわる者の声がする」
『主の道を整えよ。荒れ地でわたしたち
の神のために、広い道を平らにせよ』
(イザヤ書 40:3)
この道とは主が通られる道のことです。
バビロンから解放し、あなたを罪の縄目
から解き放ってくださった主が、この道を
通り、神の都エルサレムに帰って来ます。
そのための「道を整えなさい」と
いうほどの意味なのですが、
『バビロン捕囚』
これを洗礼者ヨハネの言葉にして、
主であるイエス・キリストが来られる
前の先駆けとして、その道を真っ直ぐに
整える「先駆者」というかたちに見事
なまでのすり替えをしているわけです。
自分はエリヤでもキリストでもなく、
ただの荒野の声だとしておきながらも、
『荒野で説教をする洗礼者ヨハネ』
サルヴァトル・ローザ
イザヤの言葉を利用して、主である
イエス・キリストの道を整えるように
呼ばわる、あの「荒野の声」である
との詭弁を弄したのです。
手の込みようは『出エジプト記』の
「見よ、わたしは使いをあなたの前に
遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが
備えた所にあなたを導いて行かせよう」
(出エジプト記23:20)
にある前半部分をちゃっかり着服する
だけでなく、
「預言者イザヤの書にこう書いてある。
『見よ。わたしは使いをあなたの前に
遣わし、あなたの道を整えさせよう』
荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道を
まっすぐにせよ』」
(マルコの福音書1:2-3)
このように、
『マルコの福音書』(1:2-3)は、
実際には『マラキ書』(3:1)の言葉
からの借用ですが、『イザヤ書』の
引用として語られています。
『マラキ書』と『イザヤ書』には
重なる部分があるからですが、
それについては、
『ダ・ヴィンチの罠 預言者』
を参照してください。
さらに、
そこに『出エジプト記』(23:20)の
前半部分を重ねています。
『イザヤ書』のバビロン捕囚からの
解放と、かつてのエジプトからの苦難の
脱出劇の果てに約束の地カナン、栄光
のエルサレムへと民衆を導いて行く姿
を「メシア」(救世主)たるイエスに
幾重にもオーバーラップさせようとする
いかにもで、さもありなんの演出です。
しかも、冒頭および前述の ・・・
「あなたがたによく言っておく。およそ女
から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
偉大な者は現れなかった。しかし天の国
で最も小さい者でも彼よりは偉大である」
(マタイの福音書11:11)
の直前に記された文言では、
「この人こそ『わたしは使いをあなたの
前に遣わし、あなたの道を、あなたの前
に備えさせよう』 ・・・
・・・ と、書かれているその人です」
(マタイの福音書11:10)
と わざわざイエスに口を衝いて出た
が如くに、さらっと言わしているわけです
から念には念が入っています
ですから、
初期キリスト教団としては、是が非でも
エリヤの再来としての彼をイエスに
先駆ける使者であると同時に、旧約最後
の「預言者」に仕立てる(とどめ置く)
ことにしたかったのですが、
『キリストの洗礼』ヴェロッキオ工房作
洗礼者ヨハネこそが「救世主」
であると思い込んでいるダ・ヴィンチには
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
「その手は桑名の焼き蛤」で、
そうした旧約聖書の預言を利用した
すり替えの事実や入れ替えの実態を、
(ヨハネとウリエル、イエスとガブリエル)
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
彼や彼の弟子たちの作品を通して、
(幼児のヨハネが消えて、子羊が現れる)
人知れずに表現しているわけです
(聖ヨセフと聖アンナに関する秘密とは)
(煙の如く消え去った聖アンナの謎とは)
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように出来ている」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
それにしても、
ダ・ヴィンチにすれば洗礼者ヨハネ
を「先駆者」なんぞと呼ぶのは、
「うそを築地の御門跡」じゃったり、
「いやじゃ有馬の水天宮」じゃな
そだね。 ・・・ でなければ、
「びっくり下谷の広徳寺」だとか、
「恐れ入谷の鬼子母神」かしら
いやいや、
「何だ神田の大明神 !!」
「何か用か九日十日」
・・・ って、
どんどんと離れていくようですが
それじゃあ、
ダ・ヴィンチに成り代わって小生が、
【洗礼者ヨハネ・キリスト説】
の大願成就を祈念して ・・・
出典:kamusabia.com
「どうぞ叶えて暮れの鐘」
なんちゃって、
(甘すぎやで・・・)
最後に、
イエスとエリヤに絡めて一首、二首、
「神をイエスとヨブものは
エリヤ好みのテサロニケ
イザヤ・ダニエル・ゼカリヤに
ヨエル・エレミヤ・マラキかな」
これじゃ、まるで、
「神がイエスの専売特許」って
感じだけど ・・・
それなら「神」を「嘘」に言い換えて、
「嘘をイエスとモーセしは、
エリヤ憎しのエゼキエル
情けヨシュアの福音も
わずか四書のエズラかな」
お粗末でした。「 !!」
・・・ って、おいおい、
はてさて、今回もまた、
予告を裏切る内容に終始してしまった
わけですが、洗礼者ヨハネとイエス
の関係においては、それぞれの主宰する
会衆(共同体)での方針の違いや方向性
の相違から、徐々にすきま風が吹きつつ
あったことを、なんとなく感じて欲しかった
ことと洗礼者ヨハネがイエスの中に
ただならぬモノ(破滅の芽)を見い出して
いたことを知らせておきたかったのです。
上手く伝えられませんが、
現代風に言えば、危険なトリックを操る
マジシャン(魔術師)やイリュージョニスト
(奇術師)、または妖術を使うソーサラー
(魔導師)といった特異で奇異なる因子を
内包していると感じていたわけです
一言すれば、
「魔導師」が最も近い印象かも
しれませんね
は~い !! 刮目してください
「裏切ったのはユダではない」
「わたしなのだ !!」
サルバトール・ムンディ(救世主)
『ダ・ヴィンチの罠 継承者』
出典:cardiac.exblog.jp
出典:deskgram.net
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
そりゃあ、 ナンボなんでも、
(考えすぎだぜよ・・・)
… to be continue !!
『アテナイの学堂』 ラファエロ・サンティ
『最後の晩餐』に出席した奴らは、
俺以外、全員、聖人になってるし、
クリスチャンは彼らより偉いのか
出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net