透明人間たちのひとりごと

アリとセミの物語 <2>

 《喉元過ぎれば熱さを忘れる》 が如き毎日
の連続なのか、それとも、あまりに目まぐるしく 頻発する
事件や事故の顚末適度に忘れてしまわないことには
新鮮でホットな情報を蓄えるべき脳の記憶容量が不足して
しまうからなのか
  
 いずれにしても忙(せわ)しく過ぎ去っていく日々の繰り返し
のなかで、師走 も 9日となりましたが、覚えるべき事柄を
追い越す勢いでの忘却事が甚だ多い毎日の連続なのです。
 
 何事も覚える先から忘れてしまうようですが、そうでもないと
今の時代、暮らし難(にく)いのかもしれません。

 これも時代を生き抜くための防衛本能なのかもネ … eq

 次々に生まれては消えてゆく流行語や取り入れたばかりの
知識さえも、瞬く間に陳腐化してしまうような 変化の激しい
現代社会がゆえの悲しい性(さが)なのかもしれません。

 そう言えば、12月 のことを …

 坊主(師)がお経をあげるために、あちこちの家々を忙しく
走りまわることから 師走 と言うと、どこかで聞きかじった
覚えがあるけど、これじゃ、 《師走》どころか、創作四字熟語
《師弟皆走(していかいそう) になってしまいそうです。

 その限りにおいては、一匹の 『アリ』 の如きにセカセカ
とした心境の 2号 なのですが …。

 『キリギリス(セミ) よろしく、のんびりと構えている
のが、師匠筋にあたる 1号 さんです。

 となると、もはや

 《師弟皆走》 ではなく 《師歩弟走 (しふていそう)
あるいは、《師止弟走 (ししていそう) ですかねぇ …


 さて、そんな折のことです。

 1号 さんから、 「屁理屈屋の 2号 に頼みがあるんだ。
『アリとセミの物語』 を論理的に解説してみてくれ」
と依頼されて考え込んでしまったのです。

 Yes か、Noeq または、 なのか、 なのか eq 
と対立軸を際立たせて教訓めいた 《たとえ話》 を強要する
のがイソップ物語の特徴であり常套的な手法なのだと思って
いました。

 有名な 「ウサギとカメ」 にしても、「キツネとツル」 にしても、
今回の 「アリとキリギリス(セミ)」 の話にしても …

 足が速いか、遅いか eq  とか、嘴(くちばし)が細長いか、
そうじゃないか eq  とか、働き者なのか、怠け者なのか eq
といった特徴的な対比で構成される実に明解で分かりやすく
仕立てられた子供向けの寓話なのだと思っていました。

 だから、論理的な解説も何も必要ないだろうと …

 一にも二にも、そう思っていたのですが、1号 さんによる
前回の 『アリとセミの物語 <1>あらすじ では
、我々のよく知っている対立構図 right 夏の季節に額に汗して
働くアリと木陰で歌っているセミ(キリギリス)との描写はなく、
いきなり冬の季節から物語が始まります。

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/210.html (参照)

 たとえば、こんな具合に …

  冬にアリたちが湿った穀物を乾かしていると …、そこに
 腹を空かせたキリギリス(セミ)が物乞いに現れます。

 こうして、物語は唐突に始まり、侮蔑の一言で、あっさりと
物語りは終わるのです。

 「夏のあいだ歌っていたのなら冬は踊っていればいい

 とばかりに辛辣に皮肉り、飢え死にするセミ(キリギリス)
の運命を暗に示しているのです。

 というよりも、むしろ 《未必の故意》 ならぬ 《暗黙の殺意
すら感じてしまいます。

 そこには多分に 1号 さんの恣意的な作為があるのかと
思いきや、この手(冬の場面からの語り)は存外に少なくない
のです。

 前段にあるべき夏の描写 right 働き者のアリと怠惰で享楽的
なセミ(キリギリス)との対比を欠くことでアリの投じた言葉は
より一層の痛烈さをもって現実の社会の厳しさ(備えなき者
は亡ぶということ)を示唆するものとなっているのです。

 もっと端的に言ってしまえば、「アリたちはセミ(キリギリス)
が飢えて死ぬのを待って、その死体を食べる」 という自然界
の生態サイクル=食物連鎖に基づくものなのです。

 それが、古(いにしえ)からの寓話作家たちの意図したもの
だったのでしょうか
 
 その真意はともかくとしても日本人として慣れ親しんできた
ストーリー right 「親切なアリたちは、セミ(キリギリス)に食べ物
を分けてやりました」 というヒューマニズム溢れる倫理観から
すると相当に違和感を感じる人たちもいるかもしれません。 

 先の対立構図のように、二者択一的な話から一般的には、
スピードを競わせながら、継続する努力と天才肌の才能とを
対比させるのが 「ウサギとカメ」 であり、食性や食事様式の
違いを強調しての復讐劇が 「キツネとツル」 で、勤勉と怠惰
を主題とするのが 「アリとセミ(キリギリス)」の物語なのです
が、実は勤勉なアリに対比されるものは、セミでもキリギリス
でもコガネ虫でもその他の昆虫でも何でもよかったのです。

 確かなことはアリの 《勤勉さ》 に対する怠惰の象徴となる
昆虫類が必要なだけで、セミやキリギリスが 《怠け者》 だと
いうわけではないからです。

 2号 が思うに、

 ここで、求めているのは、いわゆる 《しっぺ返し》 で、
因果応報的な 《意趣返し》 でもあるのです。

 相手のからかいや揶揄や蔑みに対する復讐心に起因する
出来事(物語)でもあるのです。

 その視点を外してしまうと、イソップの真意は見えなくなって
しまいます。

 カメをからかい挑発したウサギのレース結果も、キツネの
意地悪な接待行為に対するツルのお返し的な復讐接待も、
懸命に働くアリを蔑み軽蔑するかの様子のセミ(キリギリス)
の憐れな末路も …

 ある意味では、目には目を 歯には歯を 
そのものなのですbomb2explosion

 宗教や風土や国情の違いによる倫理観の相違が作者の
意図や物語の結末を危うくすることがあるとしても、いくつか
の疑問が残ります。

 イソップにとって、

1 アリの勤勉さは、常に肯定されるべきものだったのか
2 夏に歌い冬に踊る生き方は否定されるものだったのか
3 セミ(キリギリス)が冬を生きることは不可能だったのか

 … 等々ですが、ひょっとしたら、この疑問が、1号 さんの
言うイソップ物語を指して【予言の書】であるとすること
と関係するのかもしれません …

 ところで、『アリとセミの物語』 を、

  「ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の《白熱教室》
をアレンジするかたちでの問題提起型のリレー方式で解説を
しよう」 という提案が 1号 さんからあって、しばらくの間は
このテーマでの投稿記事となります。

  『ウサギとカメの物語 <1> ~ <7> を、
1号 さんが独占してしまったことの反省からなのでしょうが
書きたい事が何か別にある場合には、それはそれで苦痛
なんです …ase

 ともかくも、次は 5号 の番ですが 『イソップ物語』
が興味深いこともまた事実なのです。

 これから、5号 にバトンを手渡しますが …、

 アリ じゃ、くだらないなどと セミ ないで下さいね。

 アリ でも、精一杯 なのですから … ase2
 
 これで、もう ホントキリギリス ッす
 どうか、アリからず!!  … って、

 で、でか~っ   アリ エナイ 展開です …
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