このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
現代をキリスト(救世主)の再臨が間近に
迫った「終末の時代」であると考えて
いる聖書学者が多数を占めていますが、
『ダニエル書』 i.ytimg.com
本当のところはどうなのでしょう
聖書預言を知らない者が多い日本人の
我々も、今の世界が、人類の存続を左右
する重大な分岐点に差し掛かっている
と感じている人は少なくないはずです。
『ダニエル書』 mustardseedosaka.com
何となれば、
2020年のアメリカの大統領選挙を通じて、
我々は虚構の支配機構の中で生きている
ことをあらためて痛感させられたからです。
エレクション consultancymk.p-kit.com
この世は「虚構の世界」、虚構の中に
真実を求める社会であって、それが大勢と
なっていることを認識し驚愕したわけです。
バイデンVSトランプ note.com
たとえば、
『ダ・ヴィンチの罠 素粒子』
『ダ・ヴィンチの罠 ロゴス』
『ダ・ヴィンチの罠 追随者』
の中で語っているように、この世界は
「バーチャル・シアター」であって、量子論
(量子力学)の説く 不確定性原理が故に
妄想が現実をバックアップして試行錯誤
する世界を繰り返し上映しているだけの
「仮想劇」だと言ったのはそういう意味
と意図を持ったものだったからです。
我々の現実世界は、一握りの者たちで
構成された支配機構が他の大勢の人間
を都合よく操る閉ざされた仮想空間内に
存在し、マス・メディアに対する情報統制
によって、不都合なる真実は闇に葬られ、
支配機構の秩序を乱さないニュースだけ
が報道されるバーチャル・ワールドです。
ここでバーチャル(Virtual)についての
定義を確認しておきたいのですが、
日本語で「仮想」というと「仮の想定」
や「想像されたもの」というニュアンスで
すが、英語の「Virtual」には 「事実上」
「実質上」という含意があって、仮の想像
というわけではありません。
ウィキペディア(Wikipedia)の編集では、
【仮想現実(Virtual reality)は、単なる
「想像された現実」ではなく、「これまで
現実と呼ばれてきたものとは異なるが
事実上の現実」ということである】
【特に コンピュータ世界では「仮想」と
は、このような積極的な意味を持って
いるため、「仮想世界」という言葉が
コンピュータに関する文脈で出てきた
ときは、単なる想像世界以上のことを
意味していることに注意をしなければ
ならない】と、あります。
ここでの定義は、バーチャル(Virtual)
をコンピュータ上だけではなく、我々が
現実であると認識している空間にまで
広げたものであるということです。
20200807 mispronuncition-w640
奇しくも、今回、
アメリカ大統領選挙の顚末を見ることで、
我々は「虚構の世界」の住人であった
ことを知らされ、「虚構の空間」の中で
生かされていることに気づいたのです。
不正が堂々とまかり通り、1+1が2では
なく、3や4でも、それこそ好き勝手な数字
に置き換えられるカラクリと それを異常で
おかしいと指摘する言説が 言葉を狩るが
如くに公然と封殺(統制)されていく事態を
目の当たりにして、これが「虚構」でない
とするならば、事実や真実や正義とは
いったい何だというのでしょうか
ダ・ヴィンチの研ぎ澄まされた超感性が、
この世界を「バーチャル・シアター」である
と直感し、自らもそのように理解したのは、
幼少期に経験した「ハゲワシ」事件
(手記ではハゲタカ)の記憶や洞穴(洞窟)
内における恐怖体験 「白日夢」に
よりインスパイアされた啓示だったのか
果ても、それは、定かではありませんが、
この「ハゲワシ」についての詳細は、
『ダ・ヴィンチの罠 目論見』
のページを参考にすると良いでしょう。
そして、「白日夢」に関しては、
『ダ・ヴィンチの罠 松果体』
『ダ・ヴィンチの罠 白日夢』
などを参照してみてください。
少なくとも、我々が生活するこの世界は、
すべてシミュレーテッド・リアリティであると
する仮説、すなわち シミュレーション理論
とも呼ばれる現代のシミュレーション仮説
(仮想現実世界)をダ・ヴィンチは500年も
先駆けて構築していたわけで、
『モナ・リザ』における隠し絵の一部
それを隠し絵やミラーイメージなど
を駆使して見事に結実させた作品が
『ダ・ヴィンチの罠』なのです。
『モナ・リザ』におけるミラーイメージ
おそらく、
虚構の存在しない社会は存在しないし、
虚構が人間を動かすモチベ―ション
(原動力)になっているのかもしれません。
たとえば、
ほとんどすべての自然現象は数式で表現
することができますが、なぜ、そのようなこと
が可能なのでしょうか
かのアインシュタイン博士もその点に疑問
を感じて「この世界で最も理解し難いことは、
この世界が理解可能であることだ」という
ような意味深なる言葉を残しています。
この世界は整然とした物理法則に従って、
規則正しく運用されていますが、
出典:tel.co.jp
それはこの世の中の仕組みがあまりにも
コンピュータ 処理に適した都合のいいもの
になっているということです。
換言すれば、
世界はデジタル(連続的な量を段階的に
整数のような数値に 区切って表現できる)
仕様で作られているという事実です。
しかも、
出典:tel.co.jp
原子よりもよりミクロな量子の世界では、
あらゆるものが非連続的に変化している
ことが確認されています。
我々には連続的でアナログ仕様に変化
していると感じるものも、ミクロな視点から
眺めると極めて非連続的な変化によって
構成されているわけで、
出典:mynavi.jp
自然の本質とは、すなわち、デジタルで
あって、我々が知覚する事物や事象とは
何者かの所有によるコンピューター上の
計算結果の代物なのかもしれません。
出典:indee-jp.com
そして、そのプログラマーをダ・ヴィンチは
「サムシング・グレート」であると
したうえで、
「私の芸術を真に理解できる
のは数学者だけである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
つまり、「数学者ではない人は誰も自分の
作品の原理を読み取ることができないのだ」
と暗に罠の存在を示唆しているのですが、
「シミュレーション仮説」よれば、
アナタも小生も、レオナルド・ダ・ヴィンチも
シミュレーションの世界に存在する以上、
それぞれの個体は日常生活を送るなかで
自身の暮らす世界が「シミュレーション」で
あることに気づくことはないとされています。
ところで、
大天才の名を欲しいままにしている盛期
ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ
は、かく語りました。
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』
(38ページ) 岩波文庫
この世界を創造したとされる「神」も
まず最初に終わりを考慮したのでしょうか
そして、
十分に終わりのことを考えた そのうえで
、我々、人間を創造したのでしょうか
もしそうだとしたならば、
禁断の木の実 blog.livedoor.jp
『創世記』第3章でのアダムとイヴが
犯した罪の責任は誰にあるのでしょう
それを彼らと彼らの子孫である我々人類
に押し付けることは、真実において「義」
に適うことなのでしょうか
その答を知るためには、もう少しだけ時間
を先に進めければなりませんが、
タイムトラベル shingakunet,com
残念なことに、小生はドラえもんとは
友達ではないので、タイムマシンには
乗せてもらえません
ドラえもんのタイムマシン amazon.co.jp
そこで、その「答え」にはなりませんが、
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
と、説いたレオナルド・ダ・ヴィンチ先生は
終わりについて、どう考慮していたのか
この言葉を彼の最終作に当て嵌めて
考えてみると、
ダ・ヴィンチの最後の作品とされている
『洗礼者聖ヨハネ』は、制作目的の
最終形にして完結完全版であるはずです。
『洗礼者聖ヨハネ』1513年-1516年
したがって、この絵に隠されたダ・ヴィンチ
の意図を追いかけてみようと思うのですが、
その前提として、いくつかのコンセンサス
をチェックしておきましょう。
一般的に レオナルド・ダ・ヴィンチを評して、
完成作品が極めて少ない芸術家であると
よく言いますが、本当にそうなのでしょうか
「まず最初に終わりを考慮せよ」
とした当の本人に 未完成品がズバ抜けて
多いということは、どこか奇妙だし、何かが
おかしいと、そんなふうには感じませんか
そこには何かがあるとか、不思議である
とか思わないのでしょうか
当然ですが、自分が言った手前もあって、
彼は最初に終わりのことを十分に熟慮して
から作品の制作に取り掛かったはずです。
にもかかわらず完成作品が少ない
その代わりに、数千~数万点にものぼる
数の草案(アイデア)と、デッサンや手稿の
類が残されているわけですが、
デッサン&アイデアの一部
それらすべてが連結されたダ・ヴィンチの
作品であるとは考えられないでしょうか
なぜなら、
「あらゆるものは、他の
あらゆるものと関連する」
と綴った彼は、
「あらゆるものの部分は、それ自身
のうちに全体の性質を保っている」
として、
「どんな部分も全体に組み込まれる
ようにできている。 だからそれ
自体は未完成から逃れられる」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
と言っているからです。
そのくせ、
「芸術に決して完成ということはない。
途中で見切りをつけたものがあるだけだ」
と嘯(うそぶ)き卑下してみせるのですが ・・・
どうしてどうして、小生には何千、何万もの
特製ピースの組み合わせによる繊細にして
残されている手稿類の一部
重厚かつ複合的な次元を超えた重層構造
を有したジグソーパズルのような罠を
完成させたもの、と思わざるを得ないのです。
要するに、
「異次元」・「異世界」・「異空間」的
な要素を持ったパズルであるということです。
まずは、その点を共通の理解や認識とした
うえで、次なる考察に移りたいと考えます。
さて、
『洗礼者聖ヨハネ』1513年-1516年
ダ・ヴィンチの作品のあちらこちらに登場
する謎の人差し指ですが、これがピースを
繋ぐためのジョイント・サインのひとつです。
『洗礼者聖ヨハネ』部分 amazon.co.jp
そして、
完結版の『洗礼者聖ヨハネ』の指が、
そのアルファであり、オメガであって、
『洗礼者聖ヨハネ』のミラーイメージ
『洗礼者聖ヨハネ』1513年-1516年
そこから、
逆進的に時間軸を遡及させて推理すると
謎の人差し指が描かれている絵に込めた
一定の意図が浮かび上がってきますが、
紙面の都合上、それらの作品についての
解説は次回以降とすることにします。
『洗礼者聖ヨハネ』から見つけられる
次なるジョイント・サインは 中性美的な容姿
(姿態)や両性具有(半陰陽)的な描写です。
人間の姿をした天使&洗礼者聖ヨハネ
同様の趣旨で二元論的に背反する二つの
原理や基本要素に対する根源的な問いです。
たとえば、原理的には、
「善と悪」や「聖と邪」、「光と闇」の
他にも「陰と陽」や「男と女」など ・・・
そして、
基本的要素としては「精神と物質」で、
端的に言えば「心と体」です。
出典:tocana.jp 画像「getty images」より
そこから、さらに、
「思考と対象」や「意識と無意識」、
「自我と非自我」といった二元的テーマ
を内包しているものと考えられるわけです。
而して、結果的には、
「これはまさに不快を伴う快楽である」
出典:jfuits.com
「お互いに決して離れることがないのだから
、双生児として描いてある」
「お互いに反対なのだから、背中合わせに
描いてある」
「二人は同一の土台を持っているのだから
、同一の胴体の上に、すわっているように
描いてある]
『人生論―快楽と不快』 jrea.jo.jp
というのは、
「快楽の土台は このとおり不快を伴う労苦
であり、不快の土台もこのとおりさまざまな
放埓な快楽である」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
として一元論的な解釈を導いています。
この世界を物質世界と精神世界(イデア界)
に分け、後者こそが本当の世界であるとする
プラトンの思想に影響を受けたダ・ヴィンチ
は、我々が通常 感覚的に認識している世界
は「虚構」であり、「嘘の世界」であって、
我々は今で言う「シミュレーション世界」の
住人だという結論に思い至っていたのかも
しれませんね。
(ホンマかいな)
それにしても、
「頭が痛くなる話じゃのぅ」
映画『マトリックス』の世界ってことよね
『マトリックス』 natalie.mu
おいおい、わしゃ、
『マトリックス』 cinematoday.jp
「あんなエビ反り出来んぞい !!」
いやいや、心配、ご無用。
アンタは、すでに、
2次元の仮想空間の存在ですから ・・・
ギター侍、波田陽区 shigewp.com
ギター侍、波田陽区 geinounow.com
う~ん、残念 異次元斬り!!
… to be continue !!
(… to be continued !!)
うふふ。
『風景の中に立つ女性(指さす女性)』jrea.co.jp
「異次元」「異世界」「異空間」って、
向こう側にある世界なのかしら ・・・
それとも ・・・