亡くなられました

昭和19年(1944年)、陸軍中野学校を卒業後に情報将校
として、フィリピン・ルバング島に派遣されましたが、翌年の
終戦を信じぬままに任務の遂行を続け、昭和49年(1974年)
3月に元上官からの任務解除命令を受けることで、30年間
の潜伏を終えて漸(ようや)く日本に帰還した軍人です。
やせ細っていたもののシャキっと背筋を伸ばした姿勢での
敬礼姿が目に焼きついて離れません。
帰国時における凛々しくも正々堂々とした態度と物腰に
日本の軍人の神髄を見た思いがしたものです
それから40年の歳月が流れ、このたび天国に召された
わけですが、謹んで心よりのご冥福をお祈りいたします。
さて、
「20世紀の戦争では、多くの国の軍隊が非人間的な方法
で敵側の民間人を大量に殺戮したが、それを謝罪した国
は一つもなかった。 例えば、アメリカは第2次大戦で日本
に二つの原爆を投下し、殆(ほとん)ど全ての大・中都市を
無差別爆撃したが、それは勝つための正当な手段だった
と主張している。
戦勝国は、敵国の兵士と住民を大量殺戮した上、戦争
犯罪人裁判を実施し、敗戦国の領土を削り 賠償を取って
満足しているが、他方、敗戦国は再起不能の酷(むご)い
仕打ちを受けて深い恨みを抱いており 謝罪の観念は全く
生まれない。
ドイツは、600万人のユダヤ人を虐殺したが、その責任
者はナチ党員であってドイツ人ではないという理屈を貫き
ナチ党員の行為に限って謝罪した。
先進国は、膨大な植民地を支配して住民を奴隷のよう
に扱ったが、独立後の植民地政府に対して、謝罪した国
は一つもなかった。 フランスは、現在でも、旧植民地に
軍隊を派遣して影響力を行使している。 国際的な慣習
に従えば、日本は、中国、韓国、東南アジア諸国に対して
すでに実質的な賠償を支払っているから、謝罪する必要
がないはずだ」 ― (略) ― 「靖国神社は、1978年に、
突然、連合軍の軍事裁判によって処刑されたA級戦犯を
合祀(ごうし)した。残念ながら、敗戦当時の日本は、自ら
戦争責任者を追及し、裁判する意欲に欠け、その結果、
現在まで、A級戦犯を敗戦の責任者だと考える人と …
第2次大戦を起こした責任者だと判断する人の対立が
続いている」 ― (略) ― 「中国・韓国の両国は、日本
に対して確固たる「戦勝国」の位置を得られなかった不満
のはけ口を、首相や大臣による靖国神社参拝の批判に
絞っている。それは靖国への首相の参拝に反対する人は
日本にも多いから、内外の批判が合流して、日本の政治
的統率を弱めるというメリットがあるからだ」 ― (略) ―
「中・韓が首相の靖国参拝に反対するのは内政干渉で
あるが、今後、危険な摩擦を避けるため、A級戦犯の分祀
と、旧日本軍を謳歌している遊就館を神社境内から移転
することが、絶対に必要である」
以上は、県立大グローバル地域センター長 竹内 宏氏
による 1月9日付の静岡新聞 『論壇』 からの抜粋です。
同じく、1月15日付の 『論壇』 では、政治評論家である
屋山太郎氏が …
安倍首相の靖国参拝について米国務省、在日米大使館
から 「失望した」 とのコメントが出されたが、日本側から
も米国には 「失望した」 と感じたのではないか。 として、
「この際、米国、中・韓両国の見方はあえて間違いである
と断じておこう。 歴史的経緯をよく説明すれば米国は
理解するだろう」 ― (略) ― 「安倍氏がかねて主張
してきたことは「戦後レジーム」からの脱却だが、これは
戦前の日本に回帰することではない」 ― (略) ―
「戦後レジームは頭を低くして、人に目立たずひっそり
として生きる体制だった。自衛隊を保持しているが、自ら
の憲法解釈によって「集団的自衛権は行使できない」と
いう。 中・韓にはひたすら頭を下げて波風を立てるなと
いう生き方を強いられた。 一つの象徴が、“河野談話”
で、最近、産経新聞が談話全文をスクープしたが、証拠
も定かでないのに「強制性がありました」と詫びているの
である。 尖閣諸島などは中国の公式地図では1971年
以前、釣魚島という中国名は一切記されていなかった」
「中華圏に属する中国・韓国は古来、日本を征伐する国
と見なしてきた。 数百年にわたる干渉に対して、607年
聖徳太子は隋の煬帝にあてて書を送り、対等外交を通知
した。以来日本は中国大陸とは公の関係を持たず、最後
は鎖国を国策とするに至った。 この間将軍、足利義満ら
は明との密貿易を行って富を得た。日中政府関係が希薄
でも、互いに必要とするものを交易したわけだ。安倍用語
では、これを 『戦略的互恵関係』 という」


「中国共産党軍と日本は直接戦ったことはない。韓国とも
戦ったことはないのに、なにゆえに両国が日本の首相の
靖国参拝に文句をつけるのか」
「ケチをつけているだけだろう」
竹内・屋山の両氏は、中国・韓国に共通する意識として
「戦勝国」になれなかった屈折した妬みと十分な勝利
の報酬と恩恵に与(あずか)れなかった僻みがあって、
「何かにつけて難癖や因縁をつけてくる」と考えている
ようです。
つまり中国では、日本に勝ったのは国民党政府であって
、現在、中国を支配している共産党政府ではありませんし、
韓国は日本の植民地の時代に臨時の独立政府を海外に
樹立していなかった関係で、米軍により日本の領土の一部
として占領されてしまったので、残念ながら 「戦勝国」
にはなれなかったという経緯(いきさつ)があるのです
また、翌 1月16日付の 『論壇』 では、国際評論家の
清水邦男氏が安倍首相の靖国神社参拝は何が問題なの
だろうか と提議して …
「東京裁判でA級戦犯として処刑された戦争指導者たち
が合祀されていることだ。 だが、問題の核心は罪を
犯した死者に対する考え方の違い(異文化性)にある」
と日中の相互誤解を指摘しています。
「中国人は 『死後も死者の罪は追及し続けるべき』 と
考える(この点ではアメリカ人も韓国人も中国側になる)。
南宋時代の宰相、秦檜(1090~1155年)夫妻が牢獄で
鎖に繋がれた像に対し、千年近くたった今でも、人々は
唾を吐きかけ、『裏切り者』などと罵詈雑言を浴びせかけ
ているという」
「中国人からみるとA級戦犯を別の場所に移すか、合祀
を続けるなら、霊前では過ちを犯した日本軍国主義の罪
を非難すべきで、非難の言葉を表明せずに、冥福を祈る
行為は、戦犯の信条、行動を賛美する行為だと解釈する
のは当然、という考え方だろう。 ― ところが、日本人は、
『死者を鞭打ってはならない』 と、まるで正反対の考え方
をする。 『死ねば、みな、神仏になる』 という考え方が
背景にあるからだ。 死を契機に、反省して神仏になった
人(霊)に、お前は生前にこういう悪いことをした、だから
恥を知れと非難し続ける気にはなれない。 日本人は、
この道義観にしたがって、黙って冥福を祈る。 A級戦犯
が国策を誤ったのは確かだが、日本人は、指導者だけの
責任とは考えない。 二度と戦争の惨禍を引き起こさない
不戦の誓いを共有しようとする気持ちで参拝している。―
安倍首相の言葉に違和感を持つ日本人は少ないと思う」
「だから靖国参拝=軍国主義賛美だという中国人の解釈
は理解できない。 中国側の政治的な意図的な反日の
こじつけだと誤解して感情的な反撥を起こしやすい。善悪
の基準が正反対なことを知らずに、相手を自分の基準で
判断して非難すれば、当然、相手は反撥する。 互いに
理解ができないまま非難の応酬を続ければ、感情的対立
の落とし穴に陥る」
と記しています。
「落とし穴を回避するためには、双方の異文化性の認識
が出発点だ。 『死ねば神仏』 という考え方は外国人
に理解されないと思われているが、中国人の日本研究家
の法政大学教授、王敏さんは、『日中二千年の不理解』
(朝日新書2006年刊)のなかで、死を神聖視し、美化して
禊(みそ)ぎで罪や汚れが清められるというのは日本人
の独特の感性の表れだという理解の仕方を示している。
この日本人の死生観、道義観を日本人の側から明確に
説明する努力がなされていない。 靖国を参拝しても、
なぜ日本人は軍国主義賛美とは考えないのか、説明が
ないから誤解されるのだ」
「正義の追求は憎悪の悪循環を生み出しやすい。
『死ねば、皆、神仏』 との考え方は、悪循環を
断ち切るには有効な思考の型と言える。 『和』 を
最優先する日本人が生み出した知恵なのかもしれない」
「一方で、この考え方は 善悪 の判断と責任の所在を
あいまいにするというマイナス面がある。 日本文化の
マイナス面を克服し、二度と同じ過ちを犯さないために、
『先の戦争』 の国民的総括、コンセンサスの形成
を急がねばならない。 それが中国との対話への道を
開くだろう」
と締めくくっています。
この点(靖国参拝の誤解)についてと、「先の戦争」
の国民的な総括及びコンセンサスの形成について
は、全くの同感ですが、A級戦犯の解釈には多少
の異議があります。
個人的には、「先の戦争」 に対して巷間流布する
ような一方的な侵略であると決めつけることには違和感と
抵抗を覚えますが、侵略であったと断罪されても致し方の
ない事実もあったとは思っています。
ただ、
靖国問題、特に東京裁判の結果とA級戦犯に
関しては疑義があり、より深い検証と議論の余地も含めて
異議申し立てを乞うものであります。
1922年、和歌山県亀川村(現海南市)に生まれた小野田
さんは42年に応召し、陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦の
特殊訓練を受け、44年にルバング島に派遣されましたが、
翌年、敗戦となります。
ところが、任務解除命令 を受けなかったとして、終戦を
信じずに部下3人とともに密林(敵に発見されないようにと
身を隠すために山中深く)に潜伏しました。
しかし、時として島民の生活を脅かすこともあって、彼ら
から恐れられていたそうですが、逃亡や銃撃戦などで次々
に部下を失い一人っきりになってしました。
74年2月に、冒険家の故・鈴木紀夫氏(当時24歳)に発見
されると、現地に赴いた元上官の命令を受けて武装解除し、
翌3月、30年ぶりに帰還したのは先のとおりです。
帰国後の第一声は 「長い間ご迷惑をかけました」でした。
何かと因縁をつける中国・韓国には、
小野田さんに倣って、これまでのイチャモンに対して
「長い間ご迷惑をかけました」
と、謝罪して欲しいものですが …
まあ、無理でしょうね
お互いが 「落とし穴」 に嵌るのならば、
せめて、
パンチ、パンチ、パンチ
程度の反撃くらいは返したいものですが …