前回の記事でご紹介した菅原隆太郎さんについて
簡単にですが、補足してご紹介していきたいと思います。
■菅原隆太郎(1879年~1963年)
・岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)を卒業後、教員になる。
・大迫尋常小学校(現・大迫小学校)や盛岡市の桜城小学校の校長を歴任した後、
大正12年から「ドルトン・プラン」と呼ばれる自由教育を約10年間行った。
・1955年 岩手日報文化賞受賞
・1962年 大迫町名誉町民第一号に推戴される。
賢治さんとの関わりは、菅原隆太郎さんの日記から追うことができます。
大迫の教育に尽くし、当時としては画期的な教育法に挑んだ菅原隆太郎さん。
賢治さんのことを「私のしたっている方だ」と記し、
国語の授業を参観した賢治さんに
「いいいいといはれたのに汗が出た」とも。
賢治さんの遺言として贈られた「國訳妙法蓮華経」には、
「日 第参拾号 昭和九年六月 謹呈 菅原隆太郎様」とあります。
「宮沢政次郎」という鉛筆書きの付箋が挟み込まれていたことから、
賢治さんの父・政次郎が贈ったものと考えられています。
簡単にですが、補足してご紹介していきたいと思います。
■菅原隆太郎(1879年~1963年)
・岩手県師範学校(現・岩手大学教育学部)を卒業後、教員になる。
・大迫尋常小学校(現・大迫小学校)や盛岡市の桜城小学校の校長を歴任した後、
大正12年から「ドルトン・プラン」と呼ばれる自由教育を約10年間行った。
・1955年 岩手日報文化賞受賞
・1962年 大迫町名誉町民第一号に推戴される。
賢治さんとの関わりは、菅原隆太郎さんの日記から追うことができます。
大迫の教育に尽くし、当時としては画期的な教育法に挑んだ菅原隆太郎さん。
賢治さんのことを「私のしたっている方だ」と記し、
国語の授業を参観した賢治さんに
「いいいいといはれたのに汗が出た」とも。
賢治さんの遺言として贈られた「國訳妙法蓮華経」には、
「日 第参拾号 昭和九年六月 謹呈 菅原隆太郎様」とあります。
「宮沢政次郎」という鉛筆書きの付箋が挟み込まれていたことから、
賢治さんの父・政次郎が贈ったものと考えられています。