外川目ときどき賢治さん

「早池峰賢治の会」会長の浅沼利一郎さんと巡る宮沢賢治の作品原風景。

初版本と遺言

2010-11-26 13:05:39 | 取材
今回は、いつものテーマと少しずれますが、
賢治さんに影響を与えた方として、
菅原隆太郎との親交についての浅沼さんのお話です。

以前のお話はこちら

「早池峰と賢治」の展示館には、
菅原氏と賢治さんの親交をあらわすような展示物があります。

初版本の「春と修羅」、「注文の多い料理店」。
これは、賢治さんが直接菅原氏に贈ったものだそうです。

また、賢治さんは遺言で、
“法華経を千部印刷して、知己友人にわけるように”
と願いました。

その願いは、家族らによって遂げられますが、
菅原氏もまた、賢治の遺言である「法華経」を
受け取っており、展示館には、この法華経が展示されています。

菅原氏と賢治さんの出会いは、大正12年。
賢治さんが、大迫小学校をたずねたことで始まります。

賢治さんのことを菅原氏は、「私のしたっている方だ」と
日記に記していました。



最後に、浅沼さんのお話を抜粋します。

保坂嘉内さんも、妹トシも。

賢治に影響を与えたひとってば
いっぱいいるけども。

菅原隆太郎先生との親交やダルトンプランでの出合いが
賢治さんの作品を変えたんでねぇかな。

菅原隆太郎と親交が始まって以降の賢治さんは、
作品の中で乱暴な言葉遣いや見下した表現を
使わねぐなったもの。

それが、すべてとは限らねぇけどさ。


展示館にお出かけの際は、ぜひ、じっくりとご覧ください。



3000回の日記

2010-11-24 14:55:48 | 取材
いつも、このブログでご紹介している浅沼利一郎さん。

早池峰賢治の会の会長であり、
「早池峰と賢治」の展示館の館長さんです。

大迫の山岳会の会長もつとめていらっしゃる浅沼さんが、
10月30日に、早池峰山登頂3000回を達成されたことはご紹介しました。




“3000回の登頂では、3000回の早池峰山との出会いがあった”
そう言って、浅沼さんが見せてくれたもの。

登山した日の日記です。
日にち、天候、登山でのできごと、同行者…。
早池峰山と浅沼さんのいろいろな対話がその日記に記されていました。

山の日記をつけ始めたきっかけは、なんですか?とお尋ねしたところ、
「なんだろうねぇ」と笑う浅沼さん。

今回の3000回登頂記念を機に、古い日記も読み返したとのこと。
「ページを手繰ると、場面、場面を思い出すよ」。

30年以上前のこと。
たまたま手にした賢治さんを紹介している本を読んだ際に、
「早池峰山」という言葉を見つけたそうです。

そこから、賢治さんと大迫の関連を調べ始めた浅沼さん。

賢治さんとの出会いも早池峰山、なんですね。

貴重なお話を伺いました。







浅沼さん、早池峰登山3,000回到達

2010-11-10 10:27:10 | 取材
10月30日、早池峰賢治の会会長浅沼利一郎さんが、
早池峰登山3,000回の記念登山を行われ、
その時の様子が岩手日報に取り上げられています。→ web版

当ブログにも度々掲載させていただいていますが、
浅沼さんのお話をうかがっていると、情景が目に浮かんできます。

普段自分たちが聞くことのできない山や動物、植物の声を
聞かせていただいているような感覚になることもあります。

50年を超える登山歴の中で山との会話を通じて知りえた
貴重なお話なのだということを改めて感じました。

3,000回、おめでとうございます。

浅沼メモより~とっておきのエピソード~ ③

2010-11-02 16:21:59 | 取材
今回は、賢治さんとダルトン教育についての浅沼さんのお話です。



宮沢賢治さんの作品を初版本で直接もらってる方です。
菅原隆太郎先生っていう方。


賢治さんが、農学校の先生してる時です。
大迫の小さな学校で、ダルトン教育を始めるということで、
新聞に載ってらったんだよね、記事が。

ダルトン教育を教えられて、すぐ農学校で授業をしたんですね。
賢治さん。

だけども、その当時、日本は軍国主義ですから、
自由教育なんてとんでもねぇわけですよ。

賢治さんのやってることと、当時の日本の方向って、
まったく反対なんです。

結局、農学校もやめることになってしまって。
で、離任式にも顔を出さなかったんです。

生徒たちは「なんで、離任式にも来ねぇんだべ?」って。

賢治さん、ショックだったんでねぇべか。
農学校やめたの。

だって、「農学校の生活は、鳥が飛ぶようににぎやかで楽しい」
っつう事を書いてるんです。

依願退職って形になってるけど、
保坂さん(嘉内)への手紙にはそんなこと、一つも書いてませんよ。




ダルトン教育は、ドルトン・プランとも表記されます。
自由と協同という考え方に基づき、
個別に自習するのが基本的なスタイルとされていました。

H・パーカストが考案し、1920年にアメリカのマサチューセッツ州ダルトン
という町で実施されています。

日本では、1920年代に、成城小学校などで実践されましたが、
徐々に教育現場から排除されていきました。