いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

なぜ障害(=障碍)で考えるべきか。それは引きこもる人間を増やすだけになることだから。

2019年06月25日 | 闘病
 


 いろんな見方や受け止め方が、あるというのは知っています。でも、この問題を病気という切り口だけで考えていると、どうしてもデメリットというものがあるんだよなあと、そう強く感じない訳にいかない気分に襲われてしまいますから。


 私も家族会に参加をしています。これは、すべての方がそうだとは言えません。でも、そこの場では、それら参加者の家族の具合が、それぞれに良くなってきたとか、悪くなってしまったとか、そういう話がよく出るのです。これは、よそで口にしたくても、なかなか言えないような話ですから、それを打ち明けて、聴いてもらえる家族会というものがあることは、病人を抱える家族にとって、心強い支えだし、気持ちの拠り所になることですから。そこは、こういうグループがあるメリットだし、とても大切な部分です。


 ただ、この問題は非常に経過が長くなることが多いし。また良くなったようで、また悪くなってしまうことも多いし。まあ、言うなれば、家族というのは、その本人の状態を看ながらも、ついつい一喜一憂をさせられてしまうのです。これが無理もないというのは分かりますよ。


 でも、私は同時に当事者の経験もしてきたから知っていることなのですが。これを目の前の親なり家族たちが、喜んだり、気を落としたり、これを繰り返すうちに、本人というのはますます自信を失うことになるのです。良くなったと、喜んでもらえるのは、一見すると良き事のようだけど。これが長くは続かないんで。具合の良し悪しは長いスパンだけでなく、短いスパンでも、コロコロと変わりやすかったりします。要は良い状態というのは、次に悪い状態が来るのだよが、お約束みたいなことですからね。

 
 かくして具合は悪くなる、避けようのない出来事として。一時的にでも症状の悪化があり、状態が酷くなれば、それを見ている目の前の人の顔は、どうしたって曇りますからねえ。正確に言えば、自分が家族を落胆させているんじゃなくて、自分の病状の悪化が、家族に作用して起きていたことなんですが。これを明確に「自分」と「病気」を区別して離して考えるのは容易なことじゃないのです。しかもですよ。家族が悪化に気がつくのは、その本人の何らかの様子、つまり言葉なり、その行ないなりで察することですから。自分の行動や言葉が家族を挫けさせてるのは、患者の目から、これを見て取れないはずがない。


 どう考えても、自分が家族を落胆させている。言い換えれば、良かったり、悪かったりの、その波があるたびに、まるで家族を裏切るような、いわば自分が悪人になったか、なにか裏切り者をしてるみたいな形勢ですからね。病気を知ってる者としては、それは本人に悪意があって陥るような話ではないのを分かってますから、そこを汲んであげれば、その本人がどれほど気の毒な立場にあるか。これは痛いほど知っている。


 ですからね。これは、そもそも親しい親子が、つまり家族が看続けることには、ある意味で構造的に困難が生じないはずがない。そういう場に身を置くことは、結果としてですよ。病人も家族の立場にある側も、互いに自分たちの精神衛生上すごく無理がある世界が展開してることですから。


 ですから。昔の、これは嫁姑の世界でありましたが。認知症の老人というものは身内の家族だけで、とても看切れるものじゃないんだという、そういう体験を経てきて、社会が学んでこられたから、今のように高齢者の福祉を考える時代を迎えたのと、まったく同じことが、ここでも起きているんです。


 ところがですよ。社会は知らない立場の人の方が多いのです。それは、これについて体験してるという人がですね。100人に一人の病気なら、その両親で2人ですから、つまり世の中の50人に一人しか、実際の経験をしないで済んでいるんです。ここが高齢者の場合より、知りうる人が少ない計算だとわかっていただけると思う。


 だがしかし、相手は力が衰えていく老人じゃなくて、まだ若くて力の出る年齢の人だから、実は高齢者以上に家族の負担は厳しいことになりますよね。しかも、やがて寿命が来て天に召される老人より、遥かに長年月です。文字通り、親が死ぬまで看て、その親が死んだあとを、まだ考えてやらないといけない。それをですよ。知らない顔をしてしまう世間も冷た過ぎるし。社会に対して訴えられない家族も気の毒なことです。


 認知性老人の嫁さんなら、自分自身の実の親ではないから、自分には荷が重すぎるというのは、まだ訴えやすかったと思う。でも、世の中は、親は子供の面倒を看るのが当然みたいな、お馬鹿な発想をまだしているままなんです。どうおバカかといえばです。自立をする年齢に差し掛かっている年頃の子供の行く末をまったく考えてないんですよ。親に看ろと押し当てたら、看るは看るかも知れない。だが、そっちの道に行かしていたら、本人は自立する能力を獲得しないで成人していくんです。


 そういう意味で、いまの社会の認識が、構造的に引きこもりを増やすのを助長してるのと同義なんですよ。こういう構図を知らないで放っているのは。これでも、まだ親子で解決させろとは、おバカもおバカ、社会でも看切れない人間を、これからもたくさん増やし続けてくださいねと、それら親子に頼んでいることなんですからね。


 このアホに気が付かない限り、ここに出口は穿ち難いのですよ。つまり、この場合に、亡国は、それを親子にだけ、おっ被せておいて知らない顔してる社会に、ちょうどブーメランよろしく帰ってくることです。今まさに、そうなってる。それを、親子の側と、社会の側で、ガッチリと組み直しをして、何をしてきたか、何をしてこなかったか。今、反省して、やりなおすことに取り組むだけなんですよね。


 これは、そういう問題として、病気というよりも、障害を抱える人に対して、社会一般から、どういう受け止め方をしていけば、そういった家族たちにも心を開いて接していけるかという、とても尊い大事なミッションがあるんだし。結局は、そういう懐を、これからの社会が用意するかどうかに託されているのですよ。だから、その家族たちのする事だなんていうのでは大きく的を外してしまった見方であって。これは、今まで顧みられず、まるで隅に追いやられるようにされていた、それら親子の人たちと、一緒に手を取り合えないことには何一つはじめられない大仕事なわけで。今こそ我が身、我が事として成さねばならない一大事業が、まさにそこにはあることなんです。


 それは、社会の成員すべてが、自らを人として人らしく、互いに育ち育みあえるだろうか。そういう世の中を見つけ出して、生み出すことを、いかにして果たしうるのか。すべてはそこに懸かっているのです。きっと、今起きている様々な問題を解く鍵が、そこに潜んでいることでしょう。物事に他人事なんてないんですよ。それを知ったのが、人類の叡智だということですから。





追記 これは蛇足ですが。上を読んでも、病気と障害を区別ができない方に、ご説明しておきます。何らかの原因で四肢が使えなくなったり、視覚や聴覚で問題が起きた場合。これを医療で治そうと試みた結果、どうにも治り方が不十分で、まだまだ生活に支障を来す状態が遺ってしまった。この場合、医療の仕事というのは、一応そこまでです。そこから先にあるのは、障害が残りましたということで、福祉の仕事が始まることです。こういうことは精神科における場合でも、その困難については同様なんです。治療はしてみた。でも、結果それでは完治させるという解決はなかったと、だから、あとあとも、その後の生活に差し障るような障害が明らかに残った形になっている。これは、誰が考えても、障害という観点から、問題に付き合うべきなのです。いつまでも医療にシガミツイてても、結果が出ないんですから。そこで応じることになるのが、精神障害に纏わる福祉の対応が必要である。これ常識ですよ。試験に出ますから。ここ覚えておきなさい。





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。