いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

このごろ思うこと、或いは立場の事に関しての・・・

2019年07月15日 | 闘病



私は、家族会のメンバーなので、月毎の例会には参加をするようにしています。そこで、見聞きをする内容で、いろいろと感じることも多いので、それらについて書いてみようと思います。


まず、多くの人が勘違いに陥りやすいので、それは整理をすべきだと思います。


一番最初に触れておきたいのは、病名あるいは診断鑑別というものが意味する内容とは何なのか、これを聴いた側が正しい捉え方で、その本来の意味が汲み取れているのかどうか、についてです。


そもそも医療・医学で病名をつけるのは、それが治療の対象かどうかを決める必要があるからです。同時に治療をする場合に、相手が何か特定していかないと、その治療の方針が定められないからです。


私は血圧が冬場になると上がります。また近年は、そういう場合に胸の辺りに動悸を感じるような症状を覚えることがあります。それで循環器を専門にしている内科医に受診してみた結果、いまのところ一種類かつ最低量の投薬ですんでいますが、そのクスリを毎朝服用しています。


その血圧が高いか低いか、ということで説明しますが。これには医学会で定めたガイドラインがありまして、その数値に関しても数年おきの見直しにより、高くもなるし低くもなったりで、基準値そのものが動きます。ですから、血圧を測ってみて平均して最高/最低がこれ位だなと判った時点で、それを治療するか、治療しないで様子を見守るかは、ガイドラインの変化によって扱い方も違ってくることなのです。つまり、ある人が自分の血圧を測ったみたら、仮に数値的にまったく同じ値であったとしても、数年前ならば、あなたの血圧は高いので治療すべきです。といわれるし、今年の受診なら、まだ高血圧の範囲じゃありません。という診断もありえます。


これを高血圧じゃないのに高血圧だと言われたと怒る人は、診断鑑別の意味を理解していない人なのです。


医師が考えているのは、どういう状態ならば治療をするか、またどういう具合であったら治療をしないでいいのか。これを決めるのに、その目安を考えておく必要があって、それを定める目的から診断という行為で判断を下しています。まるで何か〇〇病名で名指しされてるような魔物が潜んでいて、恰もこれを探し出したり、見つけ出せたから、そこに「いる」とか「いない」とか言っているんじゃないんです。この場合は、どの範囲にあるという受け取り方をするかどうかで、そうした病名を用いながら表現しているだけです。つまり、ある現象について、その程度の捉え方の問題として、そこで象徴的に病名・病気を定めたりする意味で用いるのが、その病気や病名というものの本質なんだし、その中身であり、また性質です。当然、時代でも、文化でも、医学の変遷でも、何が病気か、何が病気でないかが、移り変わるのは、不思議でも何でもないのです。そういう考え方、見方をしている意味だよ、そういう内容です、これは。


つまり、治療すべき現象があると診るか、それとも特にないと見立てを出すべきか。これを判断しないといけないから診断鑑別をするということなのですから、言い換えれば、診断も病名も、あくまで医療を施そうとする立場上からの都合です。


(そういう病気があるのか、ないのかも、そこから決まる意味なんです。それが本質的に本当の意味で病気とみるべきなのか、それとも病気じゃないのかを、その医学で決めてもらおうとするのは、医学の都合と、人間における健康だったり、哲学的な命題だとかを、ごっちゃまぜにしているような話ですから)


当然のこと本質的に、そこで判断されてくる守備範囲というのは医療の枠を超えて仕事するような話でなく。確かに診察室で、治療上、それらの問題がある場合に、差し当たっての対処方法について伝えられたりしますし。どういう風に過ごしてくださいみたいな生活上の養生に関しても指示が出されたりします。


ですが、それらの内容については、あくまでも医療における医師からの勧めという内枠での事柄なんです。だからもしここで、何か患者や家族の人生上の問題として、そこで選択をしたり、判断が求められたりするような局面が持ち上がっていたとしてもですよ。それは人間としての生き方の選びの話であって。これが医療の上から何か答えを期待するような問題かと問えば、それは一臨床医が果たすところの仕事の範囲を大きく超える部分だなと汲むべきだろうと思います。


例えば、それは小さい子供を育てる保護者の立場からは、子供の一生を念頭に置いた教育を考えるべきでしょうが。学校で行われてる教育に丸投げしてたら、養育者の責任は放棄してないか、みたいな事です。


現状、患者の身の回りにいる人間に、注意すべきような事柄を伝える必要があったとしてです。それが病気への対処として、判断に適切性が認めるような内容だから、そう述べられるし、説かれることですけど。


だけど、もし本人自身の成長や自立の問題として、捉え直しをしたなら、そうした声掛けが対応としては望ましくないというのも、状況によって起きてきたりもしています。


では、その点の考慮に関して、ここで医療から果たす仕事の内容として期待していいのかどうかは、そうは言えない気がするのです。医師からは、患者本人の治療をベースに考えたとき、相応しいと判断できる内容というのは、医療の範囲では正解でいいんだと思うんです。


でも、それを家族が実際に行うには、その家族への精神衛生上で負担が過剰にすぎるのも、現実には生じてきたりもするけど。医師の側から、治療の対象であるのは、患者本人だ、という面もあります。


当たり前だけど、医師は医師の立場で患者の病気の治療を考えるのが仕事なんですよ。


同じように、医師の話を聞きながらも、父親なら父親として、母親なら母親として、判断する部分があるはずなんだし。夫婦で話し合うこともするでしょう。


医師は医療医学的な方面に長けていても、個々の家庭の事情については知ってる情報は少ないです。医師の勧めを聞いて、うちならこうやってみようという工夫については、ドクターと意見がまた異なる判断も起きたりするでしょう。


(あの3.11だって、科学者が主張する安全と。そこに住む人が判断しないといけない危険性は。そもそも噛み合っていない、それぞれで次元の違うものを、同じもののように一緒くたにしていたと思う)


つまり、場面ごと、立場ごと、それぞれに果たすことも、望ましいことも、皆別々なんだし、各々では矛盾しているというのも起きてくることなんです。


だから、患者本人が自分に望ましいことを行うのと、家族が望ましいだろうと推し量って考えることが、そこで一致するなんてことは限らないんですから。


いわば、そもそも別々の立場ならば、それぞれで違う選択をしてみるというのは、確かにありなんですし。それについても、実際にやってみないと、結果は分からないんだし。出てきた結果から、その都度でまた工夫を反映してみるのも、各々で実際にしてみるのを待つまで、どうなるかはわかりません。


やってみて、なるか、ならないかは、試してみないと、何が起きるか、予想外なんですよ。


病人が、有り得ないことを言うから、試す前から無駄だよと取り合わないのは、よくある話です。


ある人は、宇宙飛行士になるといってて、誰も相手にしなかった。


ある援助職は、本当になりたかったら、どういう風にすればいいのか、実際に調べるように促した。


その人は、励まされながら、勉強したり、チャレンジしたそうです。


最終的には、宇宙飛行士にはなれなかったけど、いろいろ学んで、自信をつけたのだそうです。


物事をどうみるかは、一人ずつで違うんですよ。


当然、一人ひとりが何を身につけていくかも、各々違うことですよね。

 
それを一緒くたにするから、ややこしくなるんじゃないでしょうか。


それで、思い出すのは家族の接し方として、あなたは〇〇すべきだと、言葉するより、私はこういう風にしてみたらと思うんだ、そういう伝え方や表現が 望ましいという、あの話です。


結局、唯一の正解というのは最初から何処にもないのであって。誰の立場なら、こう思うよというのは、


あなたが何をどう考えて選ぶかは、自分で探してみないと見付けられないからね。


そういってる話だろうなと思います。


医療の上での正解は、医師の仕事の上でなら、適切な答えに違いない。でも、彼ら、彼女らだって、一家庭人として家族の立場であれば、そこでは、また異なる見解を持つだろうし。


それぞれ自分の立場にしても、考え方とかでも、そういうのは誰かに教わって知るとかじゃなくて、銘々各々で探したり見付けたりするものですよね。


また実際に行うのは、それを思い付いた自分自身で試してみながら、そこで気が付いたことを活かしていけたり、工夫ができてみたりする。それが生きてくということです。


医療は病気には、何らかの助けになることでしょう。


でも、医療が解決するのは、その部分だけかも知れません。


われわれの人生は、そこには含まれていない部分も、とても大きいんだと思いますよ。。。








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