いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

向谷地生良氏の著作を読み、身の回りを思い返す

2019年05月05日 | 日記

先日、図書館で3冊本を借りてきました。

ぜんぶ、向谷地生良(むかいやち いくよし)氏の著書です。

1冊めに読んだのが、タイトル:「べてるの家」から吹く風(いのちのことば社)でした。

2冊めが、タイトル:ゆるゆるスローなべてるの家

 副題:〜ぬけます、おります、なまけます(大月書店 ゆっくりノートブックス4)

これは、向谷地氏と、辻信一(つじ しんいち)氏の対談という形式です。

3冊目は、今まだ読んでる途中ですけど、

タイトル:統合失調症を持つ人への援助論 副題:人とのつながりを取り戻すために(金剛出版)

 

これから書くのは、読んだ内容のレビューだとか、これらの本の読後感とまた違うのですが

ふと、私が自分の生活の中で、思ったり感じたりした話についてのことなんですけど。

具体的には、家族とのやり取りの中で、起きた出来事に関してです。

 

誰でも、あると思いますが、何気なく言葉にしたことで、

よくよく考えてみれば、それ、もしかして、ちょっと気をつけないと、

マズイんじゃないか、みたいなことって、よくあると思います。

これもそういう内容ではあることなのですが。

それを書くには、まず多少その背景から説明がいるので、ここで、ちょっと前置き長くなりますが、

 

もともと私は家にいる頃から、まだ10代のときからでしたが、

自分の母親の用意してくれた食事を口にしたくなくなりました。

かといって、レトルトやインスタントとか出前のテンヤモノなども好きじゃないんで、

自然に自分の分は自分で調理をするような生活になっていたんですよね。

別に母が調理をした食事に毒が入っているなんて思いはしませんよ。

でも口にするのは、どうも何となく気持ちが悪いような気分を覚えるんで、

そうなったきっかけは家族の旅行中に一人で留守番しながら自炊をし出した頃からなのです。

もともと私は中学に入って、じきに不登校しだして、いつも家にいたから、

母親の調理するのは間近で見ていましたから、いつのまにか見様見真似で覚えてたんです。

だから急に始めたみたいでも。そういうことが私にもできたということなんで、

それは面倒臭いというより、むしろ作って食べるのが楽しく出来ていましたから、

続けているうちに、いつの間にか、少しも困らないで調理をするというのが身について、

買い物で食料品を選らんだり、家にあるもので作る料理を考えたり、そんな調理をすることも、

気がついたら一人前にできる能力はありました。

しかも、これを何十年と続けてきましたから、こう見えてもけっこう器用にやるんです。

 

かたや、家の奥さんというのは、正反対な生育歴の持ち主でして、

育ててくれた母親から包丁は危ないからと触らせてもらえないような接し方をされてきて、

いまだにリンゴを剥くときでも、信じられないような不器用な持ち方をします。

 

だから普段は達者な私が家では調理の当番をしてます。これはこれで上手く行くんです。

どこの誰だって、仕事で疲れて帰ってきて、それからオサンドンは、

どこの主婦だって億劫に感じるのは無理ないことです。

でもうちは、私が外で働けない・働かないような身であっても、家の用事は主夫の私がしますから。

このことは私は自分の中で納得ずくですから、自分の気持の上でも納まりがいいんです。

 

問題は、世間が持ってる要らない常識が、下手な作用を起こしてしまう場合があるんです。

昔なら、女性は料理ができるというのが、言わば花嫁道具みたいな感覚で、常識的だったりしますよね。

以前に私が利用してたデイケアでも、調理実習があると、どうしてそんなに上手なんですか、

そう言って、女性のメンバーは私の様子に驚いたりします。でもそれは錯覚ですよね。

女性だからできるとか、男性だから下手だとか、そうじゃあなくて、

いつもやってれば、そういうふうにできるようになるだけで。

 

さてさて。そんな、我が家では、妻の仕事が休みの日は、

家で調理の腕を振るうのは、私の奥さんの出番ということが定着してます。

 

妻:私が作っても、これぐらいしか出来ないから。

夫:いやあ、とても美味しいよ。

妻:でも、あなたが作ったときのほうが、もっと品数だって多く作るでしょ。

夫:別に作りたいから作るだけで、そんなことないって。

 

こんな感じで二人の間で、やり取りがありました。

前だったら、こんなことは気にしないで終わっていたんですが。

向谷地さんの考え方に触れてから、どうにもこうにも気になりだしたんです。

それは、何かが能力的に及ばないというのは、単純な足らないことに見ていていいんだろうか。

何かが出来ないということは、その人の能力不足を責められるような意味なんだろうか。

実際、この私にしても、今も外では就労して働かないし、過去に働いても、それを続けらるようにはいきません。

これは自分の能力が、そういう方面には適さないだけで、働こうにも無理だと身を持って知ったことです。

だから、非効率的に無理を押すような生活をするより、この自分に向いた暮らし方を選びました。

そういう養生を無視しない生活したからこそ、今は具合も安定し落ち着いて暮らしています。

だけど、私の妻の連れ子は、今は働くのが無理なくせに、自分は働けないからと、気を落としています。

外で働けなくても、いろんな暮らし方があるのに、それには目が向いてないような感じです。

だから思ったんです。世間では、何がふつうで、どういう風なのが常識だと考えるかも知れない。

でも、それが当てはまるのは、他の部分も、世間でいうような条件が該当する場合だけです。

つまり最初から、条件限定で適応されているのが、その当たり前というもので、

そこの最初からの条件が違ってる人に、そもそも当たらない話だろ、というのは明らかなのに、

それを頭ごなしに、何が普通で、何が普通に及ばないは、無茶すぎる判断なんです。

自分の現状を無視して、別の背景の人と、自分を比較しても、それ意味がないことですよね。

そんな風だから自分が病気や障害を抱えて暮らしている、この大前提を疎かにしてるんで、

そこの土台を忘れてるようだから、実際の積み重ねなど成せるはずない、という結果を招くはめになるんで、

それこそ、岩の上に家を建てる人の真似をして、砂の上に家を構えたんじゃ、大雨で流されます。

自分の足元を忘れて、上背だけ比べたら、身の丈が比較できるなんて、これ罠ですよね。

それは、比べる相手も、比較の仕方も、間違っています。

もっと別の言い方をしたら、表面的に、何ができる、何ができない、そういう比べ方は無謀で無分別なことです。

なぜ相手は、それをそんな風に出来て、自分がどうして、それをそんな風にやれないのか、そこには根拠があることなのです。

あまりに非科学的な、上っ面しか見てない心情論で生きてるんじゃ、本当に根が生えるような木は育てられないことです。

 

そういうことを考えてたんで、これを共有したくて、書かせていただきました。

 

 



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