いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

え。三日坊主?いや、三日目の日記です。

2019年03月11日 | 日記
今日は、特別な日なので、まず手を合わせてから。

あのとき、どこで、なにを、されてました?

私は都内の自宅におりました。

10階を超える建物の2階に住んでいました。

信じられないほど長い揺れでした。

上の方に住んでる方たちは、とても部屋にいられないからと、

下まで降りて、たくさん広場に人がいらしてました。

周辺は事業所が多くて、大会社のオフィスが入ったビル街です。

大勢の勤め人が、これから帰宅をしようと、ビルの外に集まっていました。

歩道は、それらのサラリーマンやOLの人垣で、もう一杯になってましたから。

いま思い出しても、何だか嘘みたいな気もします。

あのころ私は、まだPlalaのブログをしてました。

50歳を挟んで、3回ほど入退院を繰り返して、私は退院後の拠り所みたいに、

当時、右も左も分からず勝手を知らないままにTwitterを始め出した頃でしたっけ。

そんな後先、いろんな出来事を経て、それらの縁で、今のパートナーと出会い再婚しました。

その後、相手の親が、高齢で介護が必要になり、看てやらないといけなくなって。

そこで私を伴って、郷里にUターンする話になりました。

私はよその土地には住んだことがないもんだから。

そこから1000kmも遠くに引っ越すなんて、ほとんど外国へ行く気分でした。

これは転居をしたら、まず1年も持たずに再入院になることなんだろうなあ、参ったなあ。

それこそ、決死の覚悟みたいにして福岡県内まで移ってきたのです。

その連れ合い自身は一般の仕事に就いてる人間なんですが、

その人の子供たちは、どちらにも各々が障害(=障碍)を抱える身の成人をした二人姉妹でした。

そういうこともあったので、妻からは私の障害(=障碍)にも理解があったし。

私の方でも、その連れ子たちに対して別段これといって偏見なんか持ってはいませんでしたから。

だからそれはそれで、お互いに上手いこと組み合わさる仲ではあったことでした。

あの年、あの出来事をキッカケみたいにして、出会ったという人たちを私たちも耳にしていますが。

それは、この私達にも、そういう出逢いの一つとして巡った、そんな巡り合わせでした。

たいへんな目にあった人も大勢いらっしゃいます。

でも、それが別の人たちには、また違うことも、こんな具合にもたらしたりもするのです。

確かに、病気や障害(=障碍)は簡単な話じゃないけど、悪いことだけだと決めつけないほうが良いですよ。

どんなに良い目をしても、そこにも落ち目は来るし。

そのときは嫌なことでも、あとになったら、花が咲く日になることもある。

それは信じていたほうが、自分の番が来た大事なときでも、目を開いて見てればこそチャンスと知るが。

何もかも諦めてしまって、目を塞いだままにしていたら、大切なものは眼の前にあっても、通り過ぎていきます。

だから、諦めるよりも、信じていたほうが、結果、実入りは好いというものです。

いろいろあるから、今は駄目なときでも、まだ先は分からない、それは最期になるまでね。

それはホントですよ。きっときっと、ね。








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