いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

昨日に続きまして、第二の投稿です。

2019年03月10日 | 闘病
どうもご機嫌よう、こんばんわ。
今日も、また昨日の投稿に引き続きまして、

『いわゆる「統合失調症」というものは、
これは「病気」というよりも、
むしろ「障害(=障碍)の状態」を意味していますから、
そういう受け止め方に改めるべきなんですよね』

私が、これを「障害(=障碍)の状態」なんだと、
口を酸っぱくしてまで、そう主張して止まないのか。
この捉え方についてですが。そこは、ぜひとも押さえておくべきと信じているし、
そうした見方や、考え方を、どうして私の立脚点として持つに至ったか。
その理由から、まず綴りたいと思うのです。
ただね。この件は、
あまりに過去いろいろと言い触らされて来てましたからね。
ずうっとそれ聞き続けてきたから、さんざん吹き込まれていたせいで、
その伝聞は、誰の頭にも、もうコビリ付きになったものは多過ぎ状態に占めていて、
もはや今となっては、素に戻って考えてみることすら困難なほどでして、
そこで、ひとつ受け止めやすいように、
別の場合を例に、お話しますね。

例えば、あるひとの目が視えなくなる、視力を失った、失明をしたという場合。
まずそれを、ここで思い浮かべてみてもらえますか。
まあ、目が視えなくなる直接の原因は、怪我だったり、病気であったりなのですが。
何らかの、そうした切っ掛けが元になり、失明が起きる話ですけど。
その視えなくなった目について。差し当たり視力の回復を実現する手段がないという場合、
そのとき、これに対処して、ひとはどういう行動をしますかね?
それは考えるまでもなく、視えなくなったとしても、生活をしていける工夫について、
身に付けるべきものを考えてみる。そういう対応になることだと思います。
まあ、そこが非常に困難なのは分かっていますし。
これで気を落とさないひとなど多分いないくらい重大な問題な話ですよね。
ただ、その人が、いつまでも治らない目の治療をする方法ばかりを考え悩み続けてたりすれば、
もっと事実は受け入れて、現実的な取り組みにするほうが前向きな生き方のはずでは。
多くの人なら、その考え方には同意ができるはずだろうと思います。

ところが、「統合失調症」の場合に置き換えると、途端にそこの部分が、
どうも曖昧模糊としてきて、今は完治させるような治す方法は医学が持たないのに、人から治すのを言われるし、
それは病気の症状のせいで生活できなくなるからだ、というよりも、
病気になってしまったと気を落とすせいで、メゲ切ってしまい立ち直れない状態に見舞われたり。
実際、スティグマというのは他者から押し付けられる烙印より、
自らに、自分の落胆で押し付けてしまう「セルフスティグマ」の烙印のほうが強烈なダメージになるのです。

でも、いいですか。病気だから治さなきゃいけない。という考え方。
治らない病気だから、もう駄目なんだという思い込みに襲われてしまうような諦め方。
結局、そういうことをしてしまうのは、要はこれが「病気」だとする受け止め方から来ているんじゃないですか。
いろんな障害(=障碍)はあります。
でも、知的障害(=障碍)を治療しろといいますか?
身体の障害(=障碍)は医療で解決をさせるのが唯一正しい選択肢なのですか?
それは違いますよね。障害(=障碍)はそういう問題ではありません。
まず、障害者(障碍者)に対して医学で治す問題だから治してもらいなさいと、誰かが押し付けますか?

使うクスリは、あるにはあるんですよ。
でも、仮に病気だとして、そのメカニズムも特定がしきれないし、
用いる薬の作用機序も仮説の話であって、立証もされてない。
だって、脳内にある物質のせいだとしても、一人ひとりで違いがある話です。
とうぜん、病気の正体が一つだけであるという根拠はないです。
近い過去でも、発達障害と区別できない時代や、
また、他の病気と一緒に見ていた時代がありました。
治療薬も厳密には、根治させられるような薬じゃなくて、
症状の緩和をさせられる場合があるよ、という意味合いです。

おっとっと。「障害」(=障碍)の話しに戻します。
知的障害(=障碍)でも、身体障害(=障碍)でも医学が解決する問題ではなくて、
それは、福祉的な対応によってカバーをするはずのものです。
これは「精神障害」(精神障碍)であっても、その方法は、おなじことなんです。
具合が悪いのは、病気だからじゃなくて「障害」(=障碍)だからなんです。
歩けなくて困るのは歩行に関する身体上の障害(=障碍)からでしょ?
考える上で窮してしまい悩みごとに専念してしまうのも精神的な障害(=障碍)があるからです。
なんで、精神の場合だけ、病気のせいだから治療という詭弁に擦り換えるんですか?
病気だよと言って、解決はさせられないんです。
視力に障害(=障碍)があるのを、医療が治せないから仕方ないでは通用しません。
視えないのは承知です。でも相手に視力がない人であっても生活の保証は考える話なのでしょ?
これからも医療・医学の問題だという認識では、無策が過ぎませんか。
何も「障害」(=障碍)だから、私は医療が別に関係ないなんて申し上げてはおりませんし。
「障害」(=障碍)で手立てがないから、放っておくしかないことだとも考えてませんよ。
ただ、治療ベースで医療に投げてるだけでは違うだろ。とそう言ってます。
医療的手段により、苦痛を減らしたり、困りごとを軽減させたりするのも、利用をするはアリだと思う。
でも、治らないと生活が始められないような誤解を与えたら間違ってるんだし。
そういうのは結局、これが「病気」で「治療」する対象だという括り方で対応してる。
この考え方のせいで止められないという、この現実が追い払えないし、断ち切れない以上。
このまま「病気」だという考え方を続けてれば、いつまでも間違いを極端に多すぎたままにしてしまう。
やはりこれは「障害」(=障碍)の観点で考えていかないと、本丸は失うのです。
その意味で、この問題について、「病気」じゃ立ち行かないです、そういう指摘をしてるつもりですから。

さてさて。
では、また。この続きは次回にいたします。






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