聖書と共に

私達を担われる神

ある哲学者は、こう言っています。
「人間は、永遠の歴史の中で生まれた一瞬の泡に過ぎない
人は生まれ、永遠の暗闇に死んで行くのか?。
人は、物やお金があっても、健康でも、家庭円満でも、人に認められても、科学が進んでも、何か
むなしさを感じる。
パスカルは「人間には神によってしか埋められない空間がある」と言っています。
聖書にあるイザヤはキリストの生まれる600年程前に活躍した預言者は、次の様に預言しています。
「腹を出でしより、我に負われ我にもたげられし者よ、皆、我に聞くべし。汝の年老いるまで、
我は必ず白髪となるまで、我、汝を負わん。
我、造りたればもたぐべし、我、また負い、かつ救わん」イザヤ46-3、4
親が、我が子の為に苦労し、犠牲を払うように、
神様も、私達を造られたので、子の罪の為に犠牲を払われます。

又、ヘブル書には
「イエスの死の苦難を受くるによりて、栄光と尊貴とを冠らせられ給へるを見る。
これ、神の恩恵によりて万民の為に死を味ひ給わんたてなり、それ多くの子を光栄に導くに、その救いの君を苦しみによりて全うし給うは、萬の物の帰する所、萬の物を造りたもう者に相応しき事なり。」ヘブル2-9、10


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る