それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子著 朝日出版社
5章 太平洋戦争 戦死者の死に場所を教えられなかった国
太平洋戦争の開戦前の日本と米国の国力の差を、論じるところから始まる。米国と日本との国力の差は、開戦時 GNP12倍、鋼材生産17倍、自動者の保有台数160倍、石油721倍と、米国に圧倒的に凌駕されていた。政府もこの事実を隠そうとはしていなかったし、竹内好(中国文学者)、伊藤整(小説家)等、知識人は、米国の圧倒的国力の差を認識しながらも、開戦を肯定的に捉えており真っ向から否定していない。日中戦争は、弱い物いじめで気が進まないが、太平洋戦争は、強い相手とする明るい戦いとして、彼らが捉えていた事を、加藤教授は述べる。
加藤教授は、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから、戦争に追い込まれ巻き込まれたという議論を否定する。日本の選択の結果であったという。第二次世界大戦が欧州で起こる。当初は欧州の戦争には介入しなかったが、ドイツの快進撃に日本は欲が出て来る。日独伊三国同盟を締結することになる。当時の連合軍(イギリス・フランス・ポーランド)に対し、同盟軍(日独伊)のパワーバランスを見ると人口・陸上兵力・戦艦等は張り合っているものの、戦闘機は圧倒的に同盟軍が勝っていた。やがて、日本は南部仏印進駐をおこなう。米国は直ぐに在米日本資産の凍結、石油の対日全面禁止を実行した。米国は日本の南進に対し強く報復することで、ドイツ戦で苦しいソ連を支援したのである。ドイツは、ソ連と戦うため中国市場を捨て日本を選んだ。日本は、米国の措置を予想していなかった。
この頃の日本にも、水野廣徳(最終階級海軍大佐)は、「日本は戦争をやる資格がない国」と唱えた軍人がいたことを加藤教授は述べている。水野廣徳の議論は弾劾され、国民も受け止めなかったそうだ。
1940年日本は真珠湾に奇襲攻撃を行い太平洋戦争が勃発した。この攻撃で米軍戦死者3,000人、戦艦5隻、戦闘機188機等々を失う。1942年ミッドウェー海戦以降、日本は劣勢になり、1944年マリアナ沖海戦で決定的ダメージを受けた。しかし、日本はそれでも必勝を信じていた。そして、戦死者の死に場所を教えられない国となった。
日本の戦死者数は、軍人・軍属:約230万人(うち海外210万人)、民間人:約80万人(うち海外30万人) 計310万人と言われる。その9割が最後の1年で死亡している。外地(海外)死亡した軍人の多くが餓死・病気で死亡している。一方、中国では日本軍によって、軍人350万人、民間人1000万人が死亡している。
太平洋戦争は日本では受け身の形で語られることが多い。つまり被害者である。戦死者の9割が最後の1年で死亡していること、当時、満州にいた日本人は200万人、内25万人がソ連侵攻で死亡。また、海外からの引揚者も多く人口の8.7%が引揚者であった。満州移民政策に関して、加藤教授は、当時の分村移民政策を指摘する。大正・昭和期にかけて満州等の植民地化にあたり、これらの地域への日本人移民を推進した政策であるが、村ぐるみ移住すれば特別助成金を出す政策を打ち出していた。助成金目当てに文民農民を送り出す県の役人もいたが、日本の農村問題の解決策として推進された。帝国主義的な植民地政策とも密接に結びついていたため、移住先での現地住民との対立や、戦後の混乱による帰還問題など、多くの複雑な課題を残した。
この章の最後の4行は、この集中講義に参加した栄光学園の中学1年から高校2年までの歴史研究部の20名の生徒に対するメッセ―ジである。
「天皇制を含めて当時の内閣や軍の指導者の責任を問いたいと思う姿勢と、自分が当時生きていたら、助成金欲しさに文民意移民を送り出そうと働くよういな県の役人、或いは村長、或いは村民の側に廻っていたのではないかと想像してみる姿勢、この二つの姿勢をともに持つ続けること、これが一番大事なことと思います。」と結ぶ。
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