----系図について----
「宇喜多系図」は宝永弐年(1705年)山口猪之八によって書かれ西川幸之助あてに出されたものです。
猪之八の改名前は「秀一」です。系図の現代語版の一部を拡大して添付します。
猪之八が改名した元禄七年(1694年)は第5代将軍 徳川綱吉の治世下です。
秀一の妹が西川助六に嫁いでいることから、西川幸之助は妹の嫁ぎ先の人と思われます。
秀一の祖父 保秀は9歳で岡山城を落ち、89歳卒となっているので1591~1680年に生きた人物と
なります。能家(よしいえ)、興家(おきいえ)の子孫が直家、秀家を含めてはっきり書かれています。
系図には能家は病死、興家は乙子之城で討死と書かれています。
(備前軍記では能家は砥石山城で自害、興家は病死となっています)
系図には秀家の子供は書かれていません。
この系図の末尾に 「一家一門たりとも他見致すまじき事、秘事たるべきもの也」と記されているためか、
実は書かれている内容が不明だったためか300年間眠っていました。
( 宇喜多家は関ヶ原での敗戦以来汚名をきせられ、明治になって天皇による恩赦でやっと汚名がはれました。)
内容的には、1400年代の末から関ヶ原の役を経て、元和元年(1615年)の大阪城夏の陣の頃まで
を時系列に書かれたものです。
猪之八は「この他吉備の前鑑13巻これあり」、また 承久(1219~)の時分より天正(1573~)
のころ迄の備前代々の記録も作成したことを記していますが現存していません。
それでは「宇喜多系図」の本文に入ってゆきます。
---八浜合戦---
八浜二子山の麓に直家の建てた墓石があった、今いずこ。
系図の現代語訳からの八浜合戦
・ 直家は児島を治めんがため、春家の長男与太郎久家を大将として5千余を
八浜二子山に遣わす。
・ 小早川隆景の兵3万余が天正8年(1580年)8月7日常山に集む。
常山
・ 直家が兵 1万余にて二子山に来たりて秀吉に救兵を乞う。
・ 秀吉公3万余にて姫路を発し大船数千艘にて二子山王之上に陣を御し、数日対陣す。
・ 景広 海上より横矢を射り、久家 馬上より討たれ落つ。
・ 直家利あらず秀吉公入れ替わりて挑戦、夜陰におよび両陣戦を止む。
・ 久家討死の時、川本源十郎これを見て、武具脱ぎ捨て腹十文字に押し切り久家
の首を腹中に納め自殺、今に八浜二子山の麓に主従の墓碑の石これあり、
高さ六尺、碑銘 「直家これを建つ、源十郎は対馬守長男なり」、
原文(古文書)では 「直家建之源十郎対馬守長男也」
二子山(両児山)
現在語られている八浜合戦は
・ 天正9年(1581年)春毛利の大軍が麦飯山城を中心に陣を張った。
・ 宇喜多元家が直家の死を秘し、親衛5百を率いて毛利軍と対陣、8月21日
合戦となり与太郎元家は討死、宇喜多軍の7本槍の働きによって毛利軍は引き上げた。
現在語られている八浜合戦は宇喜多系図に書かれている内容と相当異なっています。
・直家の参戦 ・合戦の時期 ・秀吉軍による宇喜多軍救兵
・宇喜多側大将の討死者 等々
宇喜多系図には 「今に八浜二子山の麓に主従の墓碑の石これあり」 と書かれています。
系図が書かれた1705年は八浜合戦から125年が経過していますが、石碑が現存すると書いています。
石碑が建てられて420年がたっています、高さ6尺(2m程)のこの石碑はどこに眠っているの
でしょうか?
二子山 は現在 両児山 と呼ばれています。
現在、与太郎神社には与太郎元家が祭られていますが、宇喜多系図の内容であれば祭られる
のは宇喜多春家の長男 与太郎久家 となります。
与太郎神社
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます