宇喜多系図に登場する城名と城主並びに関連事項について記してゆきます。
戦いによって城主が変わり 同じ城が重複して出てきます。
城名 城主 関連事項
勝嶋山城 宇喜多能家(よしいえ) 能家が病死した城(備前軍記では能家は自害)
邑久郡島野路郷
乙子城 宇喜多興家(おきいえ) 天文年中砥石城主島村豊後守 興家を乙子城において討つ
(備前軍記では興家は家臣の縁者の家で病死)
邑久郡 築城は能家
大土居城 宇喜多基家 基家は直家の兄弟 一家の長男 若死
佐伯城 宇喜多綱家 岩梨郡 宇喜多土佐守 関ヶ原討死
兼松城 長瀬七朗 邑久郡 親家(河本対馬守)息女の嫁ぎ先 関ヶ原討死
沼の城 中山修理太夫 1508年浦上に背き能家が征す
但馬城 山名次郎 1509年作州に放火能家が征す
滝山城 難波下野守 1512年村宗に背き能家が征す
白幡城 赤松下野前司晴政 能家 晴政と戦い子息を生捕り
村上城 山名右衛門佐 赤坂郡に放火 興家が追い崩す
臥竜山城 松田備前守盛元 松田 沢田 宍井 最所が村宗に背き毛利に属す
興家 中山備中を相備え宍井原に相戦う 興家利
を失い天神山に帰る
沢田城 沢田兵部
宍井城 宍井太郎兵衛
竜之口城 最所治部直常
沼の城 中山備中守重信 直家23歳の時 重信の息女を嫁す
砥石城 島村豊後守歓阿弥 島村が興家を乙子城にて討つ
片山城 角南如慶 一家(直家の兄弟)角南の息女を嫁して河本城を領す
河本城 宇喜多一家
菩提寺城 海老名五郎八 海老名 中西が備前に出張し戸田松城を攻む
三星城 中西治部少輔
長沼城 島村歓阿弥 島村 直家の父興家を討つ
沼の城 宇喜多直家 直家 備中を斬り首を天神山へ
砥石城 就家(直家の弟 六兵衛) 直家 父の仇に砥石城主 島村を討つ 就家は天神山討死
片山城 浦上掃部助政宗 浦上政宗は宗景舎弟なり 宗景が直家に命じて金光を討た
しめ岡山を領す
岡山城 金光助三宗高
岡山城 宇喜多直家
国富城 富川平右衛門 直家 国富に築城 富川を置く
八幡山城 宇喜多忠家(春家の子) 直家 忠家を八幡山城に置く
海老名城 後藤美作守高光 直家 高光と親縁に 後に毒殺
天神山城 浦上宗景 永禄12年 3月15日 (1569年)直家が攻めて落城
小豆島城 滝宮越前守 宗景 直家を亡さんと滝宮を頼りて飯島 郷島に城を築く
長尾城 今田右衛門佐貞勝 世に言う由波左間・妙善寺崩れ、辛川崩れにより今田
山川 横井 富山 則武ことごとく直家に降る
辛川城 山川佐京
横井城 横井藤左衛門
富山城 富山加賀守
花尻城 則武右近将監光長
姫路城 羽柴筑前守秀吉 信長公の先鉾として播州に築城 西国退治の謀を廻らす
臥竜山城 松田丹後守 直家 八浜にて急難を救わざるは毛利方に意味ありと金川
の松田父子 家老を射殺
淀山城 草刈三郎左衛門景継 直家攻む 小早川隆景三万余にて草刈を救う 後に直家
が謀をもって草刈を殺す
備中加茂城 伊賀左衛門 毛利に通ず 直家これを聞き家人をもって殺す
備中松山城 三村修理進家親 三村は毛利魁首にて勇猛の士 直家 遠藤喜三郎を作州
畑山仏教寺の陣に遣わせ障子の破れより鉄砲にて三村
を殺す 直家感悦 宇喜多河内守に改め虎倉城を領せしむ
虎倉城 遠藤喜三郎(宇喜多河内守)
播州三木城 別所小三郎 天正7年4月(1579年)秀吉公 三木城を攻める
直家 播州に往き秀吉公の陣に参る この時秀吉公
御取り持ちにて織田信忠公に対面 西国退治の先鉾
の約なり
篠吹城 江原兵庫 直家 作州に討ち入る 江原 三浦 入屋 木村 奴本 豊楽寺衆
徒三百人 鈴木孫右衛門 その他城主ことごとく直家に降る
高田城 三浦駿河守
更山城 入屋河内守
桂下城 木村勘兵衛
蓮華寺城 奴本主水
鏡山城 鈴木孫右衛門
香路山城 花房志摩守 直家 作州仕置のため香路山に城を築き花房志摩守を置かしむ
忍の城 乃味五郎左衛門 天正十年四月 直家先鉾にて津高郡奥賀茂より備中に入り
忍の城 土田城 小田城を攻め落とす
土田城 鳥越若狭守
小田城 小田小太郎真安
宮路山冠城 舟木乃味 秀吉公 下津高よりすぐに宮路山冠城に取り懸かり攻め落とす
高松城 清水長左衛門 天正十年秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤
を築き水を堰き入る 清水長左衛門よくこれを守る
宇喜多直家 病気につき岡山に帰りて子息八郎秀家 岡豊前
守等を高松につかわし八幡山に陣す
直家 病気重くして 天正十年五月十四日死去す 乱世により
死を隠し夜隠蓮昌寺地内に火葬なり
清水長左衛門切腹 毛利と秀吉公和議す
大坂城 豊臣秀吉 天正十一年 大坂城築城開始 秀家犬島石を献ず 秀家初めて
大坂に行く
沼の城 宇喜多秀家 天正十五年 秀吉公島津御退治 箱崎において和歌の興あり 秀吉
公御感なり 陸路を経て御登り 備前において秀家城郭御見分
沼の城御一覧して廃城を仰せ付けらる
天正十六年正月 御礼に宇喜多源三兵衛(一虎)大坂に参る
備前岡山城 宇喜多秀家 西之丸の大堀 石関堀ならびに美濃川三筋を一筋にし 城の後の
要害として付け替えられ ならびに半田山に小松を植う 中村次郎兵衛これを司る(中村次郎兵衛は豪姫が秀家に嫁いだとき加賀より興添え)
伏見城 豊臣秀吉 文禄三年築城 秀家 犬島石を献ず
慶長三年八月十八日 豊臣秀吉公伏見城に薨ず 御年六十三
名護屋城 豊臣秀吉 文禄元年 朝鮮出兵の際この地に本営を置いた 佐賀県の北端
当時の地名は肥前(肥前名護屋)
このブログの初めにも記しましたが、「宇喜多系図」は岡山県立記録資料館に保存されており、
資料館の紀要4号に全文が掲載されています。
ここに記しました項目は「宇喜多系図」から一部を独断で抜粋したものです、これ以外にも多くの
事が書かれています。興味のある方はご活用下さい。
戦いによって城主が変わり 同じ城が重複して出てきます。
城名 城主 関連事項
勝嶋山城 宇喜多能家(よしいえ) 能家が病死した城(備前軍記では能家は自害)
邑久郡島野路郷
乙子城 宇喜多興家(おきいえ) 天文年中砥石城主島村豊後守 興家を乙子城において討つ
(備前軍記では興家は家臣の縁者の家で病死)
邑久郡 築城は能家
大土居城 宇喜多基家 基家は直家の兄弟 一家の長男 若死
佐伯城 宇喜多綱家 岩梨郡 宇喜多土佐守 関ヶ原討死
兼松城 長瀬七朗 邑久郡 親家(河本対馬守)息女の嫁ぎ先 関ヶ原討死
沼の城 中山修理太夫 1508年浦上に背き能家が征す
但馬城 山名次郎 1509年作州に放火能家が征す
滝山城 難波下野守 1512年村宗に背き能家が征す
白幡城 赤松下野前司晴政 能家 晴政と戦い子息を生捕り
村上城 山名右衛門佐 赤坂郡に放火 興家が追い崩す
臥竜山城 松田備前守盛元 松田 沢田 宍井 最所が村宗に背き毛利に属す
興家 中山備中を相備え宍井原に相戦う 興家利
を失い天神山に帰る
沢田城 沢田兵部
宍井城 宍井太郎兵衛
竜之口城 最所治部直常
沼の城 中山備中守重信 直家23歳の時 重信の息女を嫁す
砥石城 島村豊後守歓阿弥 島村が興家を乙子城にて討つ
片山城 角南如慶 一家(直家の兄弟)角南の息女を嫁して河本城を領す
河本城 宇喜多一家
菩提寺城 海老名五郎八 海老名 中西が備前に出張し戸田松城を攻む
三星城 中西治部少輔
長沼城 島村歓阿弥 島村 直家の父興家を討つ
沼の城 宇喜多直家 直家 備中を斬り首を天神山へ
砥石城 就家(直家の弟 六兵衛) 直家 父の仇に砥石城主 島村を討つ 就家は天神山討死
片山城 浦上掃部助政宗 浦上政宗は宗景舎弟なり 宗景が直家に命じて金光を討た
しめ岡山を領す
岡山城 金光助三宗高
岡山城 宇喜多直家
国富城 富川平右衛門 直家 国富に築城 富川を置く
八幡山城 宇喜多忠家(春家の子) 直家 忠家を八幡山城に置く
海老名城 後藤美作守高光 直家 高光と親縁に 後に毒殺
天神山城 浦上宗景 永禄12年 3月15日 (1569年)直家が攻めて落城
小豆島城 滝宮越前守 宗景 直家を亡さんと滝宮を頼りて飯島 郷島に城を築く
長尾城 今田右衛門佐貞勝 世に言う由波左間・妙善寺崩れ、辛川崩れにより今田
山川 横井 富山 則武ことごとく直家に降る
辛川城 山川佐京
横井城 横井藤左衛門
富山城 富山加賀守
花尻城 則武右近将監光長
姫路城 羽柴筑前守秀吉 信長公の先鉾として播州に築城 西国退治の謀を廻らす
臥竜山城 松田丹後守 直家 八浜にて急難を救わざるは毛利方に意味ありと金川
の松田父子 家老を射殺
淀山城 草刈三郎左衛門景継 直家攻む 小早川隆景三万余にて草刈を救う 後に直家
が謀をもって草刈を殺す
備中加茂城 伊賀左衛門 毛利に通ず 直家これを聞き家人をもって殺す
備中松山城 三村修理進家親 三村は毛利魁首にて勇猛の士 直家 遠藤喜三郎を作州
畑山仏教寺の陣に遣わせ障子の破れより鉄砲にて三村
を殺す 直家感悦 宇喜多河内守に改め虎倉城を領せしむ
虎倉城 遠藤喜三郎(宇喜多河内守)
播州三木城 別所小三郎 天正7年4月(1579年)秀吉公 三木城を攻める
直家 播州に往き秀吉公の陣に参る この時秀吉公
御取り持ちにて織田信忠公に対面 西国退治の先鉾
の約なり
篠吹城 江原兵庫 直家 作州に討ち入る 江原 三浦 入屋 木村 奴本 豊楽寺衆
徒三百人 鈴木孫右衛門 その他城主ことごとく直家に降る
高田城 三浦駿河守
更山城 入屋河内守
桂下城 木村勘兵衛
蓮華寺城 奴本主水
鏡山城 鈴木孫右衛門
香路山城 花房志摩守 直家 作州仕置のため香路山に城を築き花房志摩守を置かしむ
忍の城 乃味五郎左衛門 天正十年四月 直家先鉾にて津高郡奥賀茂より備中に入り
忍の城 土田城 小田城を攻め落とす
土田城 鳥越若狭守
小田城 小田小太郎真安
宮路山冠城 舟木乃味 秀吉公 下津高よりすぐに宮路山冠城に取り懸かり攻め落とす
高松城 清水長左衛門 天正十年秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤
を築き水を堰き入る 清水長左衛門よくこれを守る
宇喜多直家 病気につき岡山に帰りて子息八郎秀家 岡豊前
守等を高松につかわし八幡山に陣す
直家 病気重くして 天正十年五月十四日死去す 乱世により
死を隠し夜隠蓮昌寺地内に火葬なり
清水長左衛門切腹 毛利と秀吉公和議す
大坂城 豊臣秀吉 天正十一年 大坂城築城開始 秀家犬島石を献ず 秀家初めて
大坂に行く
沼の城 宇喜多秀家 天正十五年 秀吉公島津御退治 箱崎において和歌の興あり 秀吉
公御感なり 陸路を経て御登り 備前において秀家城郭御見分
沼の城御一覧して廃城を仰せ付けらる
天正十六年正月 御礼に宇喜多源三兵衛(一虎)大坂に参る
備前岡山城 宇喜多秀家 西之丸の大堀 石関堀ならびに美濃川三筋を一筋にし 城の後の
要害として付け替えられ ならびに半田山に小松を植う 中村次郎兵衛これを司る(中村次郎兵衛は豪姫が秀家に嫁いだとき加賀より興添え)
伏見城 豊臣秀吉 文禄三年築城 秀家 犬島石を献ず
慶長三年八月十八日 豊臣秀吉公伏見城に薨ず 御年六十三
名護屋城 豊臣秀吉 文禄元年 朝鮮出兵の際この地に本営を置いた 佐賀県の北端
当時の地名は肥前(肥前名護屋)
このブログの初めにも記しましたが、「宇喜多系図」は岡山県立記録資料館に保存されており、
資料館の紀要4号に全文が掲載されています。
ここに記しました項目は「宇喜多系図」から一部を独断で抜粋したものです、これ以外にも多くの
事が書かれています。興味のある方はご活用下さい。