戦国宇喜多

戦国宇喜多 血脈系図と備前代々の記録

宇喜多系図に登場する城名、城主、関連事項

2011-07-04 16:21:34 | 日記
   宇喜多系図に登場する城名と城主並びに関連事項について記してゆきます。
    
    戦いによって城主が変わり 同じ城が重複して出てきます。


   城名         城主                  関連事項

   勝嶋山城   宇喜多能家(よしいえ)  能家が病死した城(備前軍記では能家は自害)      
                             邑久郡島野路郷

   乙子城    宇喜多興家(おきいえ)  天文年中砥石城主島村豊後守 興家を乙子城において討つ
                           (備前軍記では興家は家臣の縁者の家で病死) 
                           邑久郡 築城は能家

   大土居城   宇喜多基家        基家は直家の兄弟 一家の長男 若死

   佐伯城    宇喜多綱家        岩梨郡 宇喜多土佐守 関ヶ原討死

   兼松城    長瀬七朗         邑久郡 親家(河本対馬守)息女の嫁ぎ先 関ヶ原討死

   沼の城    中山修理太夫      1508年浦上に背き能家が征す

   但馬城    山名次郎         1509年作州に放火能家が征す

   滝山城    難波下野守        1512年村宗に背き能家が征す

   白幡城    赤松下野前司晴政    能家 晴政と戦い子息を生捕り

   村上城    山名右衛門佐       赤坂郡に放火 興家が追い崩す

   臥竜山城   松田備前守盛元     松田 沢田 宍井 最所が村宗に背き毛利に属す 
                            興家 中山備中を相備え宍井原に相戦う 興家利
                            を失い天神山に帰る
   沢田城    沢田兵部
          
   宍井城    宍井太郎兵衛     

   竜之口城   最所治部直常

   沼の城    中山備中守重信      直家23歳の時 重信の息女を嫁す

   砥石城    島村豊後守歓阿弥     島村が興家を乙子城にて討つ

   片山城    角南如慶          一家(直家の兄弟)角南の息女を嫁して河本城を領す 
   
   河本城    宇喜多一家
   
   菩提寺城   海老名五郎八       海老名 中西が備前に出張し戸田松城を攻む

   三星城    中西治部少輔

   長沼城    島村歓阿弥        島村 直家の父興家を討つ

   沼の城    宇喜多直家        直家 備中を斬り首を天神山へ

   砥石城    就家(直家の弟 六兵衛)  直家 父の仇に砥石城主 島村を討つ 就家は天神山討死

   片山城    浦上掃部助政宗      浦上政宗は宗景舎弟なり 宗景が直家に命じて金光を討た
                             しめ岡山を領す
   岡山城    金光助三宗高

   岡山城    宇喜多直家

   国富城    富川平右衛門        直家 国富に築城 富川を置く

   八幡山城   宇喜多忠家(春家の子)  直家 忠家を八幡山城に置く

   海老名城   後藤美作守高光      直家 高光と親縁に 後に毒殺

   天神山城   浦上宗景         永禄12年 3月15日 (1569年)直家が攻めて落城

   小豆島城   滝宮越前守        宗景 直家を亡さんと滝宮を頼りて飯島 郷島に城を築く

   長尾城    今田右衛門佐貞勝    世に言う由波左間・妙善寺崩れ、辛川崩れにより今田
                            山川 横井 富山 則武ことごとく直家に降る
   辛川城    山川佐京

   横井城    横井藤左衛門

   富山城    富山加賀守
  
   花尻城    則武右近将監光長

   姫路城    羽柴筑前守秀吉     信長公の先鉾として播州に築城 西国退治の謀を廻らす

   臥竜山城   松田丹後守       直家 八浜にて急難を救わざるは毛利方に意味ありと金川
                          の松田父子 家老を射殺

   淀山城    草刈三郎左衛門景継  直家攻む 小早川隆景三万余にて草刈を救う 後に直家
                           が謀をもって草刈を殺す

   備中加茂城  伊賀左衛門       毛利に通ず 直家これを聞き家人をもって殺す

   備中松山城  三村修理進家親    三村は毛利魁首にて勇猛の士 直家 遠藤喜三郎を作州
                          畑山仏教寺の陣に遣わせ障子の破れより鉄砲にて三村
                          を殺す 直家感悦 宇喜多河内守に改め虎倉城を領せしむ
                          
   虎倉城    遠藤喜三郎(宇喜多河内守)

   播州三木城  別所小三郎       天正7年4月(1579年)秀吉公 三木城を攻める
                          直家 播州に往き秀吉公の陣に参る この時秀吉公
                          御取り持ちにて織田信忠公に対面 西国退治の先鉾
                          の約なり 
   
   篠吹城    江原兵庫       直家 作州に討ち入る 江原 三浦 入屋 木村 奴本 豊楽寺衆
                        徒三百人 鈴木孫右衛門 その他城主ことごとく直家に降る
   高田城    三浦駿河守         
                              
   更山城    入屋河内守                    

   桂下城    木村勘兵衛
   
   蓮華寺城   奴本主水
  
   鏡山城    鈴木孫右衛門

   香路山城   花房志摩守      直家 作州仕置のため香路山に城を築き花房志摩守を置かしむ

   忍の城    乃味五郎左衛門    天正十年四月 直家先鉾にて津高郡奥賀茂より備中に入り
                         忍の城 土田城 小田城を攻め落とす
   土田城    鳥越若狭守
   
   小田城    小田小太郎真安
  
   宮路山冠城  舟木乃味       秀吉公 下津高よりすぐに宮路山冠城に取り懸かり攻め落とす

   高松城    清水長左衛門     天正十年秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤
                         を築き水を堰き入る 清水長左衛門よくこれを守る
                     
                      宇喜多直家 病気につき岡山に帰りて子息八郎秀家 岡豊前
                      守等を高松につかわし八幡山に陣す

                      直家 病気重くして 天正十年五月十四日死去す 乱世により
                      死を隠し夜隠蓮昌寺地内に火葬なり

                      清水長左衛門切腹 毛利と秀吉公和議す

   大坂城    豊臣秀吉     天正十一年 大坂城築城開始 秀家犬島石を献ず 秀家初めて
                      大坂に行く

   沼の城    宇喜多秀家    天正十五年 秀吉公島津御退治 箱崎において和歌の興あり 秀吉
                     公御感なり 陸路を経て御登り 備前において秀家城郭御見分
                     沼の城御一覧して廃城を仰せ付けらる
                
                    天正十六年正月 御礼に宇喜多源三兵衛(一虎)大坂に参る

   備前岡山城  宇喜多秀家   西之丸の大堀 石関堀ならびに美濃川三筋を一筋にし 城の後の
要害として付け替えられ ならびに半田山に小松を植う 中村次郎兵衛これを司る(中村次郎兵衛は豪姫が秀家に嫁いだとき加賀より興添え)
                        

   伏見城    豊臣秀吉     文禄三年築城 秀家 犬島石を献ず

                       慶長三年八月十八日 豊臣秀吉公伏見城に薨ず 御年六十三

   名護屋城   豊臣秀吉     文禄元年 朝鮮出兵の際この地に本営を置いた 佐賀県の北端
                       当時の地名は肥前(肥前名護屋)

       
  
  このブログの初めにも記しましたが、「宇喜多系図」は岡山県立記録資料館に保存されており、 

   資料館の紀要4号に全文が掲載されています。


   ここに記しました項目は「宇喜多系図」から一部を独断で抜粋したものです、これ以外にも多くの

   事が書かれています。興味のある方はご活用下さい。               
 

  



犬島の石

2011-06-07 20:15:07 | 日記
犬島は岡山市の南東にあり、市内唯一人の住んでいる島です。花崗岩を産出する島で現在では

100人に満たない人が生活しています。

宇喜多系図の現代語訳に次の記述があります。

 ・ 天正11年(1583年)秀吉公大坂城を築く、秀家犬島石を献ず、奉行明石勘解左衛

   門、宇喜多安津入道なり、秀家初めて大坂に行く。

            (天正11年は大坂城の築城が開始された年です) 

  
 ・ 文禄3年(1594年)秀吉公伏見城を築き、秀家犬島石を献ず、同じく秀吉公吉野の

   花見に秀家御供し和歌を詠ず。

            (文禄3年は伏見城が完成した年です)


犬島に在住されている在本桂子様が「犬島の石 嫁ぎ先発見の旅」を発刊されています。

多くの人達によって切り出され,各地に送られてきた犬島の石たちは今どのように過ごして

いるのか、行先を尋ねて記録に残されています。

先日、在本様に宇喜多系図に犬島石のことが書かれていることをお知らせしたところ、

「秀吉の大坂城築城に犬島の石が使われているのではないかと薄々思っていましたが、書かれた

 もので見るのは初めてです、大坂城は徳川の時代に全て埋められたので秀吉の時代の痕跡が見

 えなくなっています。又伏見城に犬島石が使われていることは初めて知りました」

とのお返事がありました。

  
                                  犬島


  追記:先日の新聞に、大阪市は大阪城を特区とするよう政府に申請すると書かれていました。

     現在の大阪城のある公園は国の特別史跡のため、遺構の発掘が制限されています。

     しかし、地域活性化総合特区になれば開発か可能になります。

     具体的には、大阪夏の陣の後に埋め立てられ、ほとんど現存しない秀吉時代の石垣を

     発掘し、観光資源として公開することを検討しているようです。

      秀家が献じた犬島の石が現れるかも!!


   再追記:大阪市長が橋下氏に変わりました、上記の大阪特区の件、どうなるのでしょう。






    7月27日の新聞に良き知らせが出ていました。

       大阪市は豊臣秀吉が築城した当時の石垣を掘り起こし、大阪夏の陣から400年

       を迎える2015年に一般公開すると発表しました。

       今回公開されるのは1984年に見つかった本丸の石垣(高さ6m)、市は埋め戻

       していた石垣を再び掘り起こし屋根などをつけた展示施設を整備する、との事です。

       宇喜多秀家が献上した犬島の石が3年後に見れるかも。  

     でもね~大阪市長の元気がなくなってきているので、どうなるかな~




        次回は宇喜多系図に書かれている城と城主に短いコメントを付けてゆきます。

        城の数は50以上に及びます。

    


宇喜多秀家の子供

2011-05-12 18:46:05 | 日記
宇喜多秀家 に子供は無かった。

「宇喜多系図」の血脈系図に秀家の子供は書かれていません。

現代語訳から抜粋します。

 ・ 慶長元年(1596年)秀家子無く河本対馬守の孫、宇喜多源三兵衛の子源太郎七歳を

   岡山に召し出され、宇喜多岡八郎と改む。

 ・ 秀家内室所労により賀州利家より使節、秀吉より医師林了伯を備前に下さる、怪病につき

   京都吉田殿の使者によりやや快気なり。

備前軍記では

   「関ヶ原の合戦後、内室は娘1人と共に前田家に引き取られた、秀家は2人の息子(孫九

    朗・小平次)と共に八丈島に流された」

   これが、現在語られている歴史認識です。

岡山市指定重要文化財に「花房家歴史資料」があります、花房弥左衛門(後志麻守)は宇喜多秀

家の家臣でした。

「花房家歴史資料 12」は前田家が秀家の流された八丈島に米を送った送り状としてインター

 ネットでも公開されています。


                      花房家歴史資料 12

この史料には岡山市の文化財担当者が書いたと思われる「編集者註」が付いています。


                   花房家歴史資料 12に付随する編集者註

「編集者註」では元禄9年(1696年)に出された前田利直の内記に妥当性がある、としています。

 宛名に当然久福(秀家)の名は無く、秀家の子と伝わる孫九朗、小平次が記されています。

   八丈島に流されたといわれる1606年には孫九朗は15歳、小平次は8歳と伝われています。

   1696年の送り状に書かれている孫九朗、小平次は秀家と豪姫の子ではなく、子供は
  
   いなかったことに妥当性があります。


 

法鮮銘五輪塔

2011-03-31 13:17:04 | 日記
宇喜多系図の解説を続けます。



法鮮銘五輪塔

         宇喜多秀家の母おふく(俗名 お鮮)が建てた宇喜多直家の墓では。

         基礎部に火葬骨が埋葬されていた。




                          五輪塔

蓮昌寺の寺域であった塔の山(現在は岡山市徳吉町)に巨大な墓石(五輪塔)が残っています。

高さ3.38m、基礎の正面に「文禄三(1594年)甲午法鮮十二月十一日」の銘文があります。

以前は塔の山西南にあったものが、第二次世界大戦後の昭和25年頃墓石整理に伴い現地に移動

され、その際基礎部から火葬骨が発見されています。秀家の生母の墓との伝承がありますが、

宇喜多系図には次の記述があります。

 「文禄三年、秀吉公伏見城を築き、秀家犬島石を献ず、同じく秀吉公吉野の花見に秀家御供し和歌

   を詠す、秀吉公御感なり。

 
  文禄三年四月、秀家備前に帰り家臣の城数を改む」

3年後の慶長の役までは比較的おだやかな日々だったのでは、文禄三年四月に備前に帰っていた秀家

は母おふくと相談して蓮昌寺地内にこの五輪塔を建て、天正10年(1582年)に蓮昌寺で火葬さ

れた直家の火葬骨を基礎部に埋葬したのでは。墓が乱世の時代も残ったのは銘文に直家の名を伏せた

秀家と母おふく(お鮮)の思慮があったのでは。

秀家の母おふくの死亡については諸説があって定かではないが、関ヶ原の合戦(1600年)後まで

生存していたことは確か(蓮昌寺史)であり生前に造立された逆修塔ではないか、との説があります

が、関ヶ原の合戦で戦場を離れた秀家にたいして、合戦後、徳川家康は秀家への追及の手を緩めなか

ったことからも、そのような治世下に秀家の母おふくを死後に火葬して骨を五輪塔に埋葬したとは思

われない。

もし、直家の火葬骨が保存されていて性別が判別されればよいのですが


以上から、現存する五輪塔が宇喜多直家の墓石では?、読者はどう思われるでしょうか。
      
        現在 宇喜多直家の墓は存在していません。

      次回は宇喜多秀家の子供について解説いたします。

備中高松城の攻防・宇喜多直家の病死

2011-02-28 18:11:19 | 日記
    



                   備中高松城跡

       高松城主 清水宗治は地元高松では、己を犠牲にして城内の数千人を

       救った恩人として、今も人々の心の中に生きています。

       攻防中に直家は病死、蓮昌寺にて火葬。

宇喜多系図の現代語訳から抜書きします。

  ・ 天正10年(1582)4月、直家先鉾にて備中に入り、忍の城・土田城・

   
    小田城を攻め落とす。

  ・ 高松城に取り懸かるに、城主 清水長左衛門(清水宗治)よくこれを守る。

  ・ 秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤を築き水を堰いる。

  ・ 輝元諸将小早川等五万余り猿懸不動嵩・岩崎山に対陣す。

    
  ・ 宇喜多直家病気につき、岡山に帰りて子息八郎秀家・岡豊前守等を差し添え、

   
    高松に遣わし八幡山に陣す。


  ・ 直家病気重くして 天正10年(1582)5月14日死去す、

    乱世により死を隠し夜隠 蓮昌寺地内に火葬なり 


 備中高松城の戦いは天正10年6月4日に清水宗治が切腹して終わっていることから、

 
 宇喜多系図に書かれている時期は史実と会っています。

    
備前軍記では

   「直家がこの世を去ったのは、天正9年(1581)2月14日、丘陵に埋め、

  
    後に平福院に改葬し、堂を建て木造を安置した。」

 となっており、これが現在 語られている歴史 です。


「蓮昌寺史」 によれば

 備前の覇者となった直家は石山城を築き城下町を建設するため、城中になる所

 にあった蓮昌寺を森下村に移し、寺領三百石を寄進し蓮昌寺の保護をした。

 移転された蓮昌寺は広大で大建築郡が造営されたことが推定される。

と記されていることからも、直家の火葬が蓮昌寺地内で行われたものと思われます。

     (蓮昌寺の大建築郡のほとんどは、昭和20年6月の岡山大空襲で消失)


宇喜多直家が亡くなった年月とその後についても、現在語られている歴史は宇喜多

系図と異なっています。


追記:天正10年(1582年)は、特に大ニュースが多くあった年です。

       ・秀吉による高松城の水攻め、清水長左衛門(清水宗治)の切腹、秀吉と毛利の和議。

       ・宇喜多直家の病死、蓮昌寺地内での火葬。

       ・本能寺の変による、織田信長の討死。

       ・山崎の合戦で、秀吉が明智光秀を退治。

     できることなら、天正10年にタイムスリップして見てみたい!


 次回は蓮昌寺の寺域であった塔の山の巨大な墓石(五輪塔)について解説致します。