統一教会、聖典を訓読する

永遠の幸福は、神様を中心とした真の愛の家庭から、

メシヤを通じて宇宙愛を見いだす

2018-02-03 21:25:30 | 平和経
結局、我々が宇宙愛を見出すのも、自分ではできないことであり、そこに神に頼る信仰が出てくるだのだ。そして、実際の生活で神様を体験し、神様の心情を知りながら、一体となろうと思えば、神様と一体となり、神様と一問一答し、神様と共に生活しているメシヤを通さなければならないということになる。
 聖書が長い歴史を通じて、常に多くに人に読まれてきたのは、いつの時代でも変わらず人間の心ので求め続けているものを教えてくれるからである。それが取りも直さず、愛と神様である。これは、明白な歴史的証拠だというに尽きる。

「平和経」を続けると:
  監獄に入って、拷問血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき。死ぬような環境も、幸福な場だと考えて歩むことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。
 
ですから、神様がこの宇宙的愛を中心とした人間を代表して呼ばれるとするのなら、その方は正にメシヤです。イエス様がその代表者だというのです。メシヤを通さなければ、宇宙愛を見いだすことはできません。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がより明確になるのです。私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の、主人として生まれたのです。ですから、父母は、私一人をつくりだすために愛し合ったという結論が出てきます。



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