もしも、新しいパラダイムに棲
むことにより“なりたい自分”を目指すならば、新しい循環を身に付けるためのトレーニングを積まなければなりません。
人格・性格というのは脳内のOSのようなシステムです。システムの更新はバージョンアップによって行われます。バージョンアップはマイナーチェンジとフルモデルチェンジがありますが、マイナーチェンジは修正プログラムで、新しく構築されたプログラムのテストパターンはフルモデルチェンジのそれよりも軽装で済みますが、フルモデルチェンジの新しいプログラムを実装するにはテストに関するノウハウは一部に過ぎず、設計思想の構築ステージからの膨大な蓄積が必要で、かつ、適切な設計思想の下で構築された新しいプログラムを実用化するまでにテストのレベルではない“慣らし運転(=トレーニング)”が必要となります。ref:
浸潤
究極のフルモデルチェンジはフォーマットですが、コンピュータの世界でも困難であり、生身の脳内では尚のこと不可能。脳のフォーマットは死を意味します。フルモデルチェンジのための脳トレはフルモデルチェンジにより変わらない部分によって確立されるノウハウであることが必要です。そのノウハウの主要なアルゴリズムの一つは何らかの“軸”を持つことでしょう。そしてその“軸”は先天的な要素のないものが選ばれるべきです。
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ニーチェという
異端の哲学者がいましたが、無宗教的かつmother-hoodの傾向が弱い人物はニーチェ的なOSを持つ傾向があります。ニーチェは大衆の陥りがちなマイナス要素を鋭くえぐり出し多くの気付きを与えてはくれますが、大衆が成している巨大な空気感のようなものは大きな力を持っていますので、これが最期にニーチェを破滅へと追い込みました。ニーチェOSを全面的に採用して世界観を構築してしまうと、世の中を敵にまわしてしまい人生は常在戦場と化します。常在戦場では行き詰まると気付いた者はOSのフルモデルチェンジを試みます。例えば、一定のケースにおいてはプログラム変更の軸をmother-shipに置くと有効でしょう。このようなケースにおいて、ニーチェ的な傾向を他の哲学で変更するのは容易ではありませんので、哲学とは違う分野の精神的(かつ、後天的な)軸を用いるのです。特に同調圧力の強いこの国においては。
ニーチェの師であるショーペンハウアーはクローズドなインナースペースを最重視しましたが、同時に所有物や承認欲求も運勢の決定要素として重視しました。同調圧力の強いこの国では孤高のニーチェによるフルモデルチェンジよりも、バランスの取れたショーペンハウアーのマイナーチェンジの方が適合性の高い哲学と言えそうです。“デカンシヨ節”にも見られるように。(某リバタリアンYouTuberからシャーペンバウアーは酷評(butニーチェは高評価)されているようですが…。)
心の成長・変革は心理学の範疇ですが、心理学が学問として未成熟であることから他の歴史ある分野で扱う方が賢明です。人間の心理の普遍に近づくためには哲学よりも生物学によるアプローチが有効で、其々の人が持つ環境にあった成長・変革ライブラリー(=道)を生物学的見地から適切に選択するのが良さそうです。ショーペンハウアーから孤高性のみを引き継いだニーチェの発狂も生物学的アプローチにより回避できたはずです。
人間の特徴を見極めるには宇宙人の眼を想定すべきであると、サン=テグジュペリが考えたように、生物学は最も客観的な観点を与えてくれるはずですが、ドゥルーズの説いた“機械”やフーコーの“装置”といった概念的アプローチではなく、もっと具体的・各論的に展開するべきでしょう。そうして展開して行けば、やがて、生物学をベースに抽象化へとレベルアップし哲学を凌駕する新しい生物学的分野が確立するはずです。ref:
哲学的生物学
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精神に関する確実な知恵は後天的に改善できる正しい努力の方向と方法を与えてくれることでしょう。そして、その具体化はつまるところ行動ですので、精神と肉体の関係についての知恵も必須となります。現状では、それらを作り話とおカネで鍛えるしかなく、その結果、人生の終盤になって急に辻褄が合わなくなるケースも少なくない筈です。その生物学的な歪みが軸をmother-shipに置くことの有用性に現れている、という見方もできます。
新しい知恵は新しい概念を必要とします。そして、その概念の生みの苦しみが美しい心に関わる概念の取り出しを難しくしていますので、新しい概念の方向性だけを直感し、あとはその心を常にありのままの心の隣に置いて、ひたすら実践するのが一番の近道ということになるのでしょう。本物の知恵がそうやって得る類のものであるのは生命の宿命で、だからこそ、心の中にいつも置いておくという単純なアルゴリズムが有効なのです。その知恵がどんな場合にどんなふうに必要なのかは分かりませんが、少なくとも、我が子に関する方向感はmother-shipであることは間違いないでしょう。
【直感・直観】「あるがままの自分」→「なりたい自分」にパラダイムシフトしたい時期にトレーニングすべきは○○-shipだが、「あるがままの自分」が何であるかを探す無意味さに比べて、その努力の価値は絶大?
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ところで、Wikipediaには「スキンシップには文化によって違いがある。一般に、アメリカ人はあまりスキンシップを取らないが、イギリス人、イギリス系カナダ人、ドイツ人などはさらに身体接触が少ないとされているし、日本人の身体接触の頻度はアメリカ人の半分程度と推定されている。一方、フランス人、フランス系カナダ人、イタリア人、 東南アジア人、ロシア人、スペイン人、ラテン·アメリカ人は、アメリカ人に比べて対人関係がより触覚的である。」とあります。
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イギリスの奴隷支配やドイツと日本の第二次世界大戦における極端に非人間的な戦略を可能にしたのは、このスキンシップ文化の違いによる他者理解の違いにあるのかもしれません。世界のスキンシップの動向が、LGBTやコロナなどの影響により消極傾向にあるとすれば、元々、スキンシップの少ない文化は他者に対する感覚が更に
先鋭化していく畏れがあり、逆に、スキンシップの有る関係はより貴重で、個人レベルでの成長にとって、決定的(致命的)な影響を与えるかもしれません。マザーシップのベースもスキンシップにありますので。
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異なる種がスキンシップによりコミニケーションを取ることは困難ですが、もしも実現したなら大きな経験知となり得ます。現代のデジタルネイティブな子供達は日常的に野原や田んぼで生き物を相手に遊ぶことがほぼ皆無となっていると言われていますが、
質感の体験不足はその後の高いレベルのスキンシップによるコミニケーションをより難しくしていきます。