直感・直観

Net & AI 時代は、直感や直観の時代。

予測と知識欲

2024-07-16 07:22:19 | メッセージ
人間の脳に迫ろうとする計算機科学において、AIが課題としているのは、ディープラーニングの対極にある少ない情報や一見無関係と思われる情報からなるべく正確に判断をする予測の能力と、そもそも、人間が命令をしなくても自律的に学んでその達成感を新たな学びの動機とし更に深く広く学ぼうとする知識欲らしいです。

【直感・直観】AI研究の課題=今後、偏差値(=今のところ幅を効かせている知性の物差し)より大切な資質?

天文学と占星術の関係にはとても興味深いものがあります。人間の未来を見通したいという欲望はあらゆる知的活動の原点になっている可能性を感じるからです。それは人間が自らの死を認識することとも密接な関係があり、自分の身に起こる確実な未来が死であることが、パラドキシカルに機能して知識欲の原動力になっているのかもしれません。その意味においては、AIが死の恐怖を認識する自我を持たない限り、人間の創造力を凌駕することは無いと思われます。

他方、不朽の名作SF“ブレードランナー”の続編(2049)や近年の傑作SF“インターステラー”等では、いずれも「愛」が大きなテーマになっていることからも見てとれるのですが、仮にAIが自我に目覚め、死の恐怖を認識するレベルに至ったとしても、恋心を抱くレベルまで進化することは絶対にない筈です。その意味において生身の人間が恋愛をすることはAIとの能力差を決定的なものにする最大の要素なのかもしれません。
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整理整頓

2024-04-26 07:11:17 | メッセージ
現代の高度情報社会においては「知っている事」自体の人間の能力の価値は低下します。反面、情報を統合する能力はこれまで以上に価値が高まるでしょう。又、新しいアルゴリズムを創出する能力も人間の大切な能力として重宝されることも間違いありません。しかし、これらの統合や創出を価値あるものとして提供できるのは極一部の才能ある人物にしかできないもので、凡人にはなかなか難しいかもしれません。では、凡人にとってこれから必要な能力はどんな能力でしょうか?

【直感・直観】整理整頓により、ノイズという宝の山が浮かび上がる?

まず、情報の取捨選択というのは大前提ですが、物事の核心が情報の中の「ノイズ」に隠れていることは注目すべきです。そのノイズを含めて得た情報の整理整頓が凡人にも可能な高度情報社会を生き抜く知恵となるものと思われます。その整理整頓の際、情報の字面だけで判断するのではなく、情報の背後にある本質的なものによって判断することが大事です。

又、物事が上手くいかない時、有効にワークしている仕組みにより整理整頓可能なものと不可能なものに分類することから始めましょう。そして、整理整頓不可能なものをその時点の仕組みで位置付けることを一旦諦め、その後に分類された両方のノイズに注目します。∵整理可能として分類されたもの中にも僅少なノイズが含まれていて、寧ろそのノイズの方が重要である可能性があります。

哲学者は森羅万象を整理しようとします。そしてその整理の中に“これはちょっと…”とか、“飛びつき感ありすぎ…”という感覚が確信を持って直感できることがありますが、その違和感がノイズ。ポストモダンは整理困難な未開領域に論を展開しノイズをふんだんに含んだ玉石混交のミステリアス要素を意図的に散りばめるというアルゴリズムを開発しましたが、これは単に資本主義の枠内で自然発生した“プロの哲学者がメシを食うためアルゴリズム”で分厚く高価な書籍の売上アップのアルゴリズムの側面がありますが、難解ながらも理解できる部分に、もしノイズを感じたなら、そのノイズに注目することには大きな価値が有ることを意識化すべきなのかもしれません。

ポスト構造主義が力を持たないことの背景には近代大陸合理主義があり、その根本は統合よりも分割にあります。ノイズを浮き彫りにする過程では分割が有効で、分割の代表的な手法として整理整頓があります。今後の社会においても分割の手法は重宝され、整理整頓の能力が世の中を生き抜くのに必須のスキルであることは間違いありません。一方、科学技術と資本主義の綻びが顕在化し、分割によるアルゴリズムが限界に来ると、やがて統合のアルゴリズムが見直され、例えば、全体主義とは異なる多様性を統合しバランスを取るような哲学の流れが生まれて然りです。そのヒントは既に整理整頓可能なものとして思考停止しているものの中の僅かなノイズに隠れている可能性があります。ポスト構造主義の最大の失敗は、全体主義の反動で整理整頓が難しいものにスポットライトを当て過ぎて、整理整頓されたものの中に潜む優れた統合のアルゴリズムの芽を見つける機会を喪失させて来たことにあります。

偉大な数学者オイラーはその才能に溺れることなく、コツコツと一つずつ数学上の整理整頓をし、そこから見えてくる僅かな兆候に気付いて卓越した統合力を発揮しました。皆が既に解決済みと決め付けていたり、過去の経験知により諦めていたりするものから天地がひっくり返るような大発見を成し遂げたオイラーの姿勢は全ての人のお手本になると思います。その姿勢がたとえ極ありふれた日常の所作であったとしても。

鴨長明が言うように、自分の手を自分の使用人だと思って、他人に任せずに自分でできることは何でもする習慣が身に付いている人は、大抵、整理整頓という形から入って習慣化に成功しています。何か模索し追求している人は情報に対して貪欲で時間を無駄にすることを嫌うので整理整頓が苦手な場合が少なくありませんが、そのような人でも模索していたことが定まった時に、整理整頓の習慣化に向けて大きく舵を切り、気持ちも切り替えすることで好循環を生み出すことができます。
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沈黙

2024-03-28 07:28:48 | メッセージ
ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。- キルケゴール -

音楽のゲネラルパウゼが効果的な場面が現実の人間関係にもあります。

人間関係は反復により強化されていますが、反復を一旦遮断するのが沈黙です。

人間関係だけではなく、学問においてもこれまで優位を保っていたある分野の偏りが顕著になったとき、沈黙をキーとして遮断し、優位を保つアルゴリズムが見受けられます。

沈黙は情報の受け手に、送り手が出した情報が染み込むの待ったり、感情の反応スピードのギャップを埋めたり、熟慮を促したりする効果をもたらします。又、沈黙というツールは相手に配慮する優しいツールにもなるし、相手をコントロールする悪意のツールにもなります。

送り出した情報が複雑で、かつ、適切な質と量が確実に伝達できていれば沈黙は有効ですが、その逆、つまりシンプルで質や量が不足する伝達となってしまっている場合、沈黙はギャップを広げるだけの結果となります。

また、双方の自発的な沈黙と一方からの強制による沈黙とでは性質が異なります。強制による沈黙には、その状態の保存に何らかの強制力を必要としますが、暴力によらない場合は、通常、モデレートを担う者の力が強制力となります。

沈黙が効果的なのは熱いパッションがあって初めて効果が出ます。パッションを受ける側からすると、“何故、黙っている?”と問いかけずにはいられない空気感、“そんなに想いが強いのなら素直にぶつければいいじゃないか!”という焦燥感などの感覚に捕らわれます。人間は複雑な生き物なので、大人の場合、ストレートに表現すると逆効果になる場面が多々あることもよく心得ていますので、時として回りくどい態度を取りますが、その回りくどさが伝わるには、受け手の高い感受性(≒頭の良さ)を必要とします。

古代ギリシャにおいてレトリックがもてはやされていたところに無知の知を説いたソクラテスや、カントにより花開いた西洋哲学に水を指したウィットゲンシュタインは沈黙の偉大な力を具現化した哲学者です。学問の世界でなくとも、それぞれの人生において、勇気をともなう沈黙こそ力を持ち得る沈黙であり、沈黙者の周りの人間に影響を与え行動を促し沈黙の意図に沿った結果を生み出します。又、長い沈黙には、人知れず努力を積み重ねることができる貴重な機会が与えられ、沈黙を破った時にその成果が花開くというドラマティックな展開が待っています。いずれにせよ沈黙にはダムのようにエネルギーを蓄える機能・効果があり、これを賢く利用できる人は大きく成長することができます。
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○○-ship

2023-08-18 07:48:55 | メッセージ
もしも、新しいパラダイムに棲むことにより“なりたい自分”を目指すならば、新しい循環を身に付けるためのトレーニングを積まなければなりません。


人格・性格というのは脳内のOSのようなシステムです。システムの更新はバージョンアップによって行われます。バージョンアップはマイナーチェンジとフルモデルチェンジがありますが、マイナーチェンジは修正プログラムで、新しく構築されたプログラムのテストパターンはフルモデルチェンジのそれよりも軽装で済みますが、フルモデルチェンジの新しいプログラムを実装するにはテストに関するノウハウは一部に過ぎず、設計思想の構築ステージからの膨大な蓄積が必要で、かつ、適切な設計思想の下で構築された新しいプログラムを実用化するまでにテストのレベルではない“慣らし運転(=トレーニング)”が必要となります。ref:浸潤

究極のフルモデルチェンジはフォーマットですが、コンピュータの世界でも困難であり、生身の脳内では尚のこと不可能。脳のフォーマットは死を意味します。フルモデルチェンジのための脳トレはフルモデルチェンジにより変わらない部分によって確立されるノウハウであることが必要です。そのノウハウの主要なアルゴリズムの一つは何らかの“軸”を持つことでしょう。そしてその“軸”は先天的な要素のないものが選ばれるべきです。

ニーチェという異端の哲学者がいましたが、無宗教的かつmother-hoodの傾向が弱い人物はニーチェ的なOSを持つ傾向があります。ニーチェは大衆の陥りがちなマイナス要素を鋭くえぐり出し多くの気付きを与えてはくれますが、大衆が成している巨大な空気感のようなものは大きな力を持っていますので、これが最期にニーチェを破滅へと追い込みました。ニーチェOSを全面的に採用して世界観を構築してしまうと、世の中を敵にまわしてしまい人生は常在戦場と化します。常在戦場では行き詰まると気付いた者はOSのフルモデルチェンジを試みます。例えば、一定のケースにおいてはプログラム変更の軸をmother-shipに置くと有効でしょう。このようなケースにおいて、ニーチェ的な傾向を他の哲学で変更するのは容易ではありませんので、哲学とは違う分野の精神的(かつ、後天的な)軸を用いるのです。特に同調圧力の強いこの国においては。

ニーチェの師であるショーペンハウアーはクローズドなインナースペースを最重視しましたが、同時に所有物や承認欲求も運勢の決定要素として重視しました。同調圧力の強いこの国では孤高のニーチェによるフルモデルチェンジよりも、バランスの取れたショーペンハウアーのマイナーチェンジの方が適合性の高い哲学と言えそうです。“デカンシヨ節”にも見られるように。(某リバタリアンYouTuberからシャーペンバウアーは酷評(butニーチェは高評価)されているようですが…。)

心の成長・変革は心理学の範疇ですが、心理学が学問として未成熟であることから他の歴史ある分野で扱う方が賢明です。人間の心理の普遍に近づくためには哲学よりも生物学によるアプローチが有効で、其々の人が持つ環境にあった成長・変革ライブラリー(=道)を生物学的見地から適切に選択するのが良さそうです。ショーペンハウアーから孤高性のみを引き継いだニーチェの発狂も生物学的アプローチにより回避できたはずです。

人間の特徴を見極めるには宇宙人の眼を想定すべきであると、サン=テグジュペリが考えたように、生物学は最も客観的な観点を与えてくれるはずですが、ドゥルーズの説いた“機械”やフーコーの“装置”といった概念的アプローチではなく、もっと具体的・各論的に展開するべきでしょう。そうして展開して行けば、やがて、生物学をベースに抽象化へとレベルアップし哲学を凌駕する新しい生物学的分野が確立するはずです。ref:哲学的生物学

精神に関する確実な知恵は後天的に改善できる正しい努力の方向と方法を与えてくれることでしょう。そして、その具体化はつまるところ行動ですので、精神と肉体の関係についての知恵も必須となります。現状では、それらを作り話とおカネで鍛えるしかなく、その結果、人生の終盤になって急に辻褄が合わなくなるケースも少なくない筈です。その生物学的な歪みが軸をmother-shipに置くことの有用性に現れている、という見方もできます。

新しい知恵は新しい概念を必要とします。そして、その概念の生みの苦しみが美しい心に関わる概念の取り出しを難しくしていますので、新しい概念の方向性だけを直感し、あとはその心を常にありのままの心の隣に置いて、ひたすら実践するのが一番の近道ということになるのでしょう。本物の知恵がそうやって得る類のものであるのは生命の宿命で、だからこそ、心の中にいつも置いておくという単純なアルゴリズムが有効なのです。その知恵がどんな場合にどんなふうに必要なのかは分かりませんが、少なくとも、我が子に関する方向感はmother-shipであることは間違いないでしょう。

【直感・直観】「あるがままの自分」→「なりたい自分」にパラダイムシフトしたい時期にトレーニングすべきは○○-shipだが、「あるがままの自分」が何であるかを探す無意味さに比べて、その努力の価値は絶大?

ところで、Wikipediaには「スキンシップには文化によって違いがある。一般に、アメリカ人はあまりスキンシップを取らないが、イギリス人、イギリス系カナダ人、ドイツ人などはさらに身体接触が少ないとされているし、日本人の身体接触の頻度はアメリカ人の半分程度と推定されている。一方、フランス人、フランス系カナダ人、イタリア人、 東南アジア人、ロシア人、スペイン人、ラテン·アメリカ人は、アメリカ人に比べて対人関係がより触覚的である。」とあります。

イギリスの奴隷支配やドイツと日本の第二次世界大戦における極端に非人間的な戦略を可能にしたのは、このスキンシップ文化の違いによる他者理解の違いにあるのかもしれません。世界のスキンシップの動向が、LGBTやコロナなどの影響により消極傾向にあるとすれば、元々、スキンシップの少ない文化は他者に対する感覚が更に先鋭化していく畏れがあり、逆に、スキンシップの有る関係はより貴重で、個人レベルでの成長にとって、決定的(致命的)な影響を与えるかもしれません。マザーシップのベースもスキンシップにありますので。

異なる種がスキンシップによりコミニケーションを取ることは困難ですが、もしも実現したなら大きな経験知となり得ます。現代のデジタルネイティブな子供達は日常的に野原や田んぼで生き物を相手に遊ぶことがほぼ皆無となっていると言われていますが、質感の体験不足はその後の高いレベルのスキンシップによるコミニケーションをより難しくしていきます。
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