森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

石田堤史跡公園

2011年05月02日 | 空色の休日 2011 

行田市を流れる忍川が吹上町(現:鴻巣市)を走る上越新幹線と交わるところ。石田三成の忍上水攻めの堤跡を残す「石田堤史跡公園」となります。


新幹線の高架下を利用したシンボルモニュメントゾーン。この矢倉の下に立つと忍城攻めの音声解説が流れるようになっている。さらに新幹線通過時には大和田信也氏の演じる石田三成の声が流れるという優れもの。


家紋の入った盾。
ご存知「北条三つ鱗」と、長寿の双子として人気のあった姉妹の一人、故「成田きん」さんの「丸に二つ引」・・・・。「忍城時代まつり」の成田家は「丸に三つ引」を使っていたと思ったが如何に・・・・?


南側には調査修復され残された堤が当時の姿を残しています。手前の階段から上れるようになっていますが、残念ながら堤の上には出られません。


でも、上がっちゃうと出て歩いてみたいですね。
堤の端はスパット切り取ってあって、堤の断面から築いた様子を見られる断面見学施設となっています。


そして、北側は堤の起伏を使った史跡公園となっています。が、人影は無い。


木製の見晴台から広大な忍城水攻めに想いを馳せる・・・・。


史跡公園から忍川を渡ると行田市堤根。ここの忍川沿いには石田堤の遺構が埼玉県指定史跡として残されています。


石 田 堤
この堤は、天正十八年(1590年)六月、石田三成によって、忍城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
 天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。
 石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に、一~二メートル程盛土をしたものです。
 こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下より、下忍・堤根に水が溜まってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。
 今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿いに植えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。
 平成元年三月
       石田堤を守る会
       埼玉県教育委員会
       行田市教育委員会
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