森の中の恍惚

野山が笛を吹いている

川圦さま

2012年07月16日 | 空色の休日 2012 

ラベンダーの摘み取りでお世話になっています「加須未来館」さんのほど近く、加須市外野の利根川を背にして鎮座する「川圦神社(かわいりじんじゃ)」へ参拝。


: 【圦(いり)】 池の土手などに埋めて水の出入りを調節する樋(とい)。水門。樋口(ひぐち)。(Resource:大辞林 app)


川圦神社
大越の外野にある川圦神社は、もとは堤防の外、つまり現在の河川敷のなかにあった。そこには川圦河岸という舟着場があって、毎日大変にぎわっていたが、舟運の廃止でいつしか河岸は姿を消してしまった。また、利根の改修で堤防が拡幅されたため、川圦神社もやむなく現在地に移転を余儀なくされたのである。ある年、連日の大雨で水かさが増し、堤が切れそうになった。神や仏に一心に祈ったのだが、水は一向にひかず、村人のなかから「人柱をたてなければ村が危ない」という声が出てきた。そのとき、川が越えられないで近くに止まっていた六部に皆の目が向けられた。興奮した村人によって、母娘2人の六部が激流に投げ込まれたのはそれから間もなくのことであった。ようやく雨はやみ、堤もことなきを得たが、それから村に疫病がはやったり、作物が不作になったり、悪いことが続くようになった。
洪水から村を救うためとはいえ、旅の六部を人柱として利根川に投げ込んだ村人は、それがだれ言うとなくその後村に不幸が続くのは「六部のたたりだ」ということになったので、恐怖に恐れおののき生きた心地もなくなってしまった。村人の間では、「はやくなんとかなってくれればよいが」と心中で神々に祈ったのだが、不幸は次から次へと続いた。そこで、村の長老は、村中に起こっている不幸と、人柱の話を「このままにしては置けない」と寄り寄り相談をして、六部の霊を川圦神社に祀り丁重に供養した。ところが間もなく不幸なできごとも治まり、村人も安心して家業に精を出すことができるようになった。人間はこのように、何か困ったことが起きると、自分に都合のよい理由をつけて、何のかかわりもない人を犠牲にしやすいが、それはやがてわが身にはね返ってくるものだ、ということを心しなければならない。川圦神社は最近改築されて立派になった。
 (Resource:利根川上流河川事務所>利根川の紹介>歴史散歩「利根川の碑」>川圦神社)


【六部(ろくぶ)】 六十六部の略
法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には、諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼または遊行(ゆぎよう)の聖。白衣に手甲・脚絆(きやはん)・草鞋(わらじ)がけ、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。また、巡礼姿で米銭を請い歩いた一種の乞食。六部。(Resource:大辞林 app)


社殿前に「川圦さま」の伝承案内がありました。

伝承 川圦さま
 ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。困った村人たちは、水が引くのを待って泊っていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを減って無事に工事を完了することができました。その後巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます。
 昭和六十三年三月  加須市教育委員会


利根川上流河川事務所の伝承と、何かニュアンスが違いますね‥‥。


となりは駐車場を兼ねた小さな公園になっていますが、「川圦神社遊園地」というしっかりとした名前が付いています。

:「埼玉の神社(埼玉県神社庁)」の中には『当社の由緒が人柱伝説に始まることからも、当地の人々が度重なる洪水に苦しんだことが知られる。そのため、洪水が起こらないように祈ることが、豊作を祈願し、疫病除けを祈ることになり、ひいては村内繁栄を祈ることに通ずるものであった。したがって、当社を祀る氏子の気持ちには切実なものがあったと思われる。』との記載がありました。

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