片山日出雄さんのこと、として12回目です。これが最後です。
第1回目が13年前で、ずっとやり残していた宿題を終えた気持ちです
お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
文章は「百万人の福音2006年8月号」より転記しています。
片山大尉遺書⑤終
さて、私はこの世にもう長く生きられないのではないかと思っております。私ががここでなさねばならぬ最善の道は、福音伝道の働きの一部を担い、キリストの世界大のご計画のために務めを果たすことです。
ラバウルにおいて建設された福音の飛び石が、将来、世界の宣教に何らかのかたちで寄与しうるのではないかというような神聖な大望を抱いております。
私は非常に苦しい段階を経ねばなりませんでした。すなわち、死との微妙な絶え間のない戦いは無限に続くように思われました。
しかし、その結果得られるものはこの戦いを価値あるものにいたしました。
この「不幸」によって私がより恵み深く、よりキリストに近づいたことを神に感謝いたします。
戦時中のことを回顧して、私個人としては濠州人に対して悪しきことをいささかなりともしたとは思いません。これは、現地のクリスチャンたちも証言してくれるでしょう。しかし、第二次大戦の舞台で日本のしたことを回顧します時に、国民の一員として、非常に重い責任を感じます。国民各位は戦時中、直接的であろうがなかろうが、すべての人々と共にこの共通の罪にかかわりあったのを自覚しなければなりません。各国の国民の感情的偏見と偏狭な忠誠心、国々の利己主義によって、世界は荒廃してしまいました。
世界各国が犯した罪を審判するためには、今次大戦中、各国が得ようと全力を挙げたところの「神の公義」が必要となるのであります。
神の公義はその義のゆえに犠牲を必要とするのです。
平和の時代がやってまいりましたけれども、私たちの最後の血を必要とするのです。
そして、世界がキリストにある「悔い改め」の上に正義を打ち建てない限り、私たちは正義の全貌を知りえないのであります。
各国が結ばれて、平和と愛に満ちた家族のように互いに暮らすためには、世界は悔い改めを真に必要とします。人類のほとんどは悔い改めの意義を忘れてしまいました。しかし、この悔い改めこそ、絶対に必要なものなのです。
私が処刑されるとしても、私個人が豪州人になしたことのために死ぬのではなくして、日本が戦時中になしたことのゆえに死ぬのです。
( 中 略 )
私の死の意義が、主がなされたように日本のために血を流すことにあると悟りました。私はよき戦いを戦い、自らの走るべき道程を走り終え、信仰を保ちました。私には主が授けたもう義の冠が備えられているのです。
しかし、弱い人間として、ゲッセマネの祈りが日々私の祈りであることを告白しなければなりません。
「父よ、御旨ならばこの杯を我より取り去りたまえ。然れど我が意にあらずして御意の成らんことを願う」
「イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈り給えば、汗は地上に落つる血の雫の如し」
処刑の朝、私は処刑執行者の方々に向かって心の中であいさつしたいと思います。
「おはよう、皆さん。心ならずも今日このような苦しい立場に置かれて、私を処刑しなくてはならない皆さまに心から同情申し上げます。どうか深く悩まないでください。そして、どうか覚えてください。皆さんは慈悲深い神がその栄光を現さんとしてご計画なさった私の使命を成就するため、ご援助くださった方々だということを」
ハレルヤ、ハレルヤ、
いと高きところに神の栄光、地には神の喜び給う人々の間に平和あれ。
キリストの愛が、自らを空しくして仕えた罪深い僕の上に、いかにして驚くべき業を現されたかを証明するために、この霊的な戦いの記録を書きました。
私たちは自らの十字架を勇敢に担い、生命の冠を得んとして死に至るまで忠実に、キリストに従うのです。
キリスト教徒の殉教の歴史について読んだことがありますが、私の生涯で殉教のために苦難の道を歩もうとは夢にも思いませんでした。
しかし、測り知れない神のご意志により、私は選ばれ、神の恩寵のまだ及ばぬ愛する祖国の罪咎を償うために、この隠れた任務を与えられました。
感謝! 感謝!
見えざる神の強き御業には感謝のほかにはありません。
主の忠実なる僕
片山パウロ日出雄