いわき民話さんぽ

福島県いわき市に古くから伝えられてきた昔話や伝説を取り上げ、紹介し、あれやこれやと考えを巡らせてみたいと思います。

里也橋の伝説  いわき市鹿島町下蔵持

2008年06月19日 | Weblog
いわき市鹿島町下蔵持(しもくらもち)の里也橋には、
次に紹介するような悲しい伝説が残されている。

里也橋
下蔵持に里(さと)という美しく、
声の綺麗な少女(或いは寡婦ともいう)がいた。
黄昏(たそがれ)時になると軒端で歌を歌っていたが、
その声に誘われて、毎夜、
同じ時刻に通ってくる美しい不思議な若者があった。
その頃、村人が下蔵持三島八幡社境内の
大榎(或いは神白の梵天山の大欅ともいう)を切り倒して、
少女の家の近くに橋をかけることになっていたが、
いよいよ明日は切ると決まった晩、
若者はいつもの通りやってきたが、
もう今宵限りで会えないと悲しそうに嘆いた。
ところで人々は遂にその大木を切り倒したが、
血がおびただしく流れ、
これを川まで運ぼうとしても微動だにしない。
困り果てた村人たちは、声美しい里を呼んで来て、
歌を歌わせ、音頭を取らせたところ、
樹は自ら動き出し、
安々と目的地に着いて無事に工事を終わることができた。
ところがそれからは若者の姿は見られなくなった。
里也橋がこれで、
この辺に片葉の葦が茂っているという。 
                     『いわき市史』

雨降石(牛石)の伝説 その2  いわき市川前町

2008年06月18日 | Weblog
川前地区の「雨降石(牛石)」については、
前回紹介したが、
次のような話も伝承されているという。
以下に紹介する話のなかの前半部分は、
前回に紹介した伝承をさらに詳しくしたようなものだが、
後半部分には、
雨が降りやむのを祈るために行われる「村送り」の行事が
紹介されている。
この行事は、いわゆる「虫送り」や
「疫病送り」などの際に行われるものと
ほとんど同じかたちで行われているのが興味深い。

雨降松
川前村大字上桶売字畝分田にある。
往古、法陵権現(現・熊倉神社)、
白牛に跨り、この地に来りて休憩し、
神足を洗えて宮地に入ろうとしたるに、
白牛は化して花崗岩となると。
神足を洗いし所を雨降池といい、
白牛の化したみかげ石を牛石とよび、
そのほとりに一本の松があった。
それを雨降松という。後、この地に入り、
又は悪戯をなせば肺然として雨降ると、よってこの名がある。
現在は当時の木の二代目、三代目のものであろう。
爾来、この周辺を宮田と称し、法陵権現宮の神饌田とされた。
小白井和田山に和田藤左衛門という豪族が邸宅を営んでいた。
法陵権現神饌田の耕作を、
一族郎党を引きつれて来て、耕耘、秧挿、
共に夜中なして帰りたると。
時の人、雨の降り続くときには、
必ず此処に何人か禍せしならんと云い、
雨降り止まないときは、藁、或は萱にて人形をつくり、
体の両方より竹槍をさし、
小白井より上桶売、上桶売より下桶売、
下桶売より川前へと順次村送りをして、
川前より小川町境の夏井川に流して、
晴天を祈りしという。
かくするときは必ず晴天になったと言い伝う。
この風習は明治以来廃れた。
一説に桶売姫の伝説がある。                                   『川前村誌』


雨降石(牛石)の伝説  いわき市川前町

2008年06月17日 | Weblog
いわき市の北西部に位置する川前地区には、
「雨降池」や「雨降石(牛石)」、
「雨降松」に関わる伝説が残されており、
それが『川前村誌』に紹介されている。

雨降松
川前村大字上桶売字畝分田にある。
文政年、鍋田晶山著の『岩城名勝略記』に記載してある。
「人、もし、この石に触るれば、百日雨降り、百日干す」と。
往昔、法陵権現、白牛に乗り、此の地に来り、
この池にて神足を洗いしという。白牛化して石となる。
雨降池、牛石という。ほとりに松の老樹あり、雨降松という。
明治初年、野火のため、この老樹は焼け枯れ、
現存のものは後に村人の植えたるものという。
このあたりは神聖なる地として、宮田と称し、
法陵権現の神饌田であった。
又、曰く「往昔、恋人を慕う桶売姫、その恋人に逢わず、
遂にこの地に死し、石に化したるなりと」いう。                                  『川前村誌』

人が触れれば、百日の間、雨が降り、また、百日の間、
雨が降らないと言い伝えられている「雨降石(牛石)」だが、
この石は白い牛がこれに変じたという伝説と、
桶売姫がこれに変じたというふたつの伝説が残されているらしい。

山の神のたたり  いわき市平北神谷

2008年06月11日 | Weblog
山の神様はさまざまな祟りを起こしたらしく、
いわき市平の北神谷にも
次のような話が伝えられている。

山の神の祟り
(北神谷村の)袖という所に山の神様がある。
松の古木が茂つて
附近の田圃(たんぼ)の邪魔になるので、
村民相談の上、この木を伐ることゝなり、
村役人先頭に立つて木挽(こびき)を頼み伐倒した。
其時は何事もなかつたが、秋頃より区長は病床に就き、
為に巫女(みこ)に占わしめたところ、
山の神様の神木を伐つた祟なりとのことで家人は驚き、
巫女に祈祷を依頼し、直ぐに松の木を植え継いで御詫びをした。
併しその効もなく
長患(ながわずらい)で終に死んで始末(しまつ)た。
其他其木を焚いた人、其木を買つた人、
其木を伐つた木挽など
皆それぞれ火傷(やけど)や
失火、病気等の厄(やく)を被つたので、
残りの木を皆持つて行つて
御返しして御詫びをした。
近頃までもその木があつた。
昔から鳥のふんぎよれ枝でも拾つて焚くと
凶事があると伝えている。
これは大正二年のことであつた。
           『石城北神谷誌』

この祟りが起こったのは大正二年のことだから、
そんなに昔のことではない。
山の神様が祀られている森の松の木を切り倒したら、
それにかかわった区長、さらには木を切った人、燃やした人、
買い取った人など、さまざまな人に災いが及んだという。

山の神の話  いわき市田人町

2008年06月10日 | Weblog
いわき市田人町には、
山の神のタブーにまつわる興味深い話が伝えられている。

山の神と茂八の歌
昔、茂八という男が吉沼山で炭焼きをして
暮らしをたてておったそうだ。
茂八は歌が大変好きで、「ところは高砂(たかさご)」と
「四海波(しかいなみ)」を歌うのが得意で、
山小屋で歌を楽しみながら仕事をしていたという。
ある日のこと、一人の人が炭小屋を訪ねたところ、
茂八がいないので、炭焼きがまの前に行ってみると、
体半分が焼けて両脚だけ焼け残っていたという。
それから土地の人たちは
山の中で祝儀歌を絶対に歌わないように申し合わせ、
山の神様は祝儀歌が大嫌いなのだと、
今でも山の神には歌を歌わないのだという。                            『たびとの民話』
 
山の神様には
さまざまなタブー、禁忌があるが、
お祝いの歌が嫌いだというのは珍しいような気がする。

河童伝説 その2  いわき市平中神谷

2008年06月06日 | Weblog
平の中神谷に伝わる河童伝説ものだ。

河童の命乞い
ある日の夕方、中神谷の馬方が馬を引き連れ、
近くの川へ出かけた。
一日働き続けた愛馬を洗ってやるためである。
馬方が馬を川辺へ引き入れようとしたところ、
馬はその瞬間、
何かに驚いて手綱を付けたまま逃げ帰ってしまった。
馬方は怪訝に思いながらも、
自宅へ戻って馬小屋を見ると、
今度はいつもあるところに馬桶がない。
あちらこちらと探したところ、
自宅裏の竹薮に伏せてあったのを発見し、
誰の仕業かと思いつつ桶を起こすと、
その中に河童が身を縮めていた。
川で馬を驚かしたのも、
馬桶を持ち運ぶ悪さをしたのも河童だった。
馬方は「憎い河童め」と殺そうとしたら、
河童は
「これからは悪さをしません」
としきりに詫びる。馬方もあわれを感じて、
そのまま許してやった。
その助命によって、以来、
中神谷では河童にとられる者がいなくなったと伝える。
        『写真で綴るいわきの伝説』より

河童伝説  いわき市田人町平石

2008年06月04日 | Weblog
河童にまつわる伝説は
日本各地に伝えられているようだが、
いわき市内にも
いくつかの話が伝えられている。
そのひとつが
田人町の平石に伝えられている伝説だ。

河童と川遊び
昔、荷路夫下流の平石唐沢附近の川に
河童が住んでいました。
この川には堰の下、瀧の下、牛渕、蟹渕と名のつく、
いつも水がたくさんたまっていて、
水遊びをするのにたいへん良いところがありました。
ところが、
昔からそこには河童が住んでいるという噂があったのです。
そればかりではなく、
実際、河童を見たという人もいました。
河童というのは、水の中でも、
陸の上でも住むことができる動物で、
頭にお皿があるそうです。
しかもこの河童は夕方ちかくになると出て来て、
いたずらっ子や、あばれて言うことをきかない子を見つけると、
自分の住んでいる川の中につれていってしまうというのです。
それで子どもたちは夕方になると、
さっさと川からあがって家に帰っていったと言うことです。
                  『たびとの民話』