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美の殿堂ものがたり「大覚寺」_京都の王朝文化は御所だけにあらず

2019年05月18日 | 美の殿堂ものがたり

京都・嵯峨野・大覚寺(だいかくじ)は、平安時代から風光明媚な地で知られた嵯峨野を代表する古刹で、皇室とのゆかりの深さも京都では有数です。平安貴族が愛した庭池が現存し、王朝文化が華やいだ建物空間に見事に調和しています。

  • 皇族が住職となる数ある京都の門跡寺院の中でも、歴史と格式はトップクラス
  • 月見で有名な大沢池と借景の山の風景は、高い建物がなく、平安時代からさほど変わっていない。
  • 狩野山楽の襖絵で飾られた室内空間は、桃山時代の王朝文化を直に伝える
  • 嵯峨天皇が始めた華道・嵯峨御流の発祥の地、随所で見かけるいけ花は大覚寺の品格そのもの


建物の内部に立ち入れない京都御所や桂離宮とは異なり、大覚寺は室内の鑑賞が常時可能です。京都の皇室の室内空間を最も身近に体感できるのが大覚寺です。今に至る大覚寺の美の蓄積の歴史から、美しい理由を探ってみたいと思います。


式台玄関 菊の御門

嵯峨野は平安貴族が目を付けた最初の別荘地

平安遷都から間もない810(弘仁元)年、桓武天皇の第二皇子の嵯峨天皇が、兄の先代天皇・平城(へいぜい)上皇が起こした薬子(くすこ)の変を鎮圧します。平安京に平和が訪れ、空海を重用し中国文化の導入に努めたことで、平安初期の天皇を中心とした政治体制の礎を築きます。

早くから嵯峨野に別荘・嵯峨院を造営していた嵯峨天皇は、833(天長10)年に嵯峨院を御所として移り住み、院政を行います。この嵯峨院が大覚寺の起源であり、大沢池は、中国の著名な景勝地として知られていた洞庭湖を模してこの際に造られた、日本最古の庭園の林泉(りんせん、森と池)です。

嵯峨天皇崩御後の876(貞観18)年、皇女の淳和天皇皇后が離宮を寺に改めたのが大覚寺の始まりです。


鎌倉時代は、大覚寺にとって古きよき時代だった

しばらく衰退していましたが、鎌倉時代半ばの1268(文永5)年、後嵯峨上皇が出家して大覚寺の門跡(もんぜき)となり、寺運が再び上昇し始めます。後嵯峨法皇は、崩御の際に最高指導者である治天の君(ちてんのきみ)を定めなかったため、後の南北朝分裂の要因となります。

後嵯峨法皇に可愛がられた亀山上皇も大覚寺門跡になりますが、亀山上皇は禅宗を好んだため南禅寺の建立に力を注ぐことになります。次の後宇多法皇も1307(徳治2)年に大覚寺門跡になり、嵯峨御所として本格的に大覚寺の復興を進めます。南朝方である亀山上皇の系統は「大覚寺統」と呼ばれるようになり、南北朝の争乱の幕を切って落とした後醍醐天皇は、後宇多天皇の第二皇子です。


いけばな嵯峨御流

鎌倉時代の半ばは、京都で王朝文化が花開いた時代でもありました。鎌倉幕府が将軍を公家や皇族から出してもらい、幕府との関係が親密であることをアピールするために、潤沢な財源をあてがったためです。

大覚寺以外にも今に伝わるかけがえのない空間が多く造られています。後嵯峨天皇は2か所の離宮、嵐山の「亀山殿」、東山の「禅林寺殿」を造営します。後に、亀山殿は足利尊氏によって天龍寺に、禅林寺殿は亀山法皇によって南禅寺に改められます。鎌倉時代初期の最高権力者・九条道家は東福寺の巨大伽藍を造営します。


南北朝時代以降も皇室との関係は続く

大覚寺は南北朝の戦乱で焼失しますが、徐々に北朝方の門跡によって再興されていきます。1392(元中9)年には、大覚寺で南朝方の後亀山天皇が「三種の神器」を北朝方の後小松天皇に継承し、南北朝合一の歴史的舞台となります。

戦国時代には荒廃しますが、安土桃山時代になると後陽成天皇の弟が門跡となり、再興が始まります。境内に現存する最古の建造物・重文の正寝殿(しょうしんでん)と狩野山楽の襖絵はこの時の再興によるものです。続く後水尾天皇の時代にも大覚寺の再興はさらに進みます。江戸時代を通じて親王の入寺が続き、京都有数の門跡寺院としての地位を確立します。


大覚寺から見る小倉山


御所の趣を色濃く残す伽藍

大覚寺の伽藍の中心は、真言宗では珍しく本堂ではありません。境内中央に勅使門~御影堂(みえどう)~勅封心経殿(ちょくふうしんぎょょうでん)が直線で配置されています。大覚寺の御所としての特別な趣を象徴しています。

御影堂は、大正天皇即位式で使用された建物を下賜されたもので、勅封心経殿は御影堂移築時に建てられたものです。現在の御影堂の地にあった本堂の五大堂は、この時に現在地の大沢池の西側に移築されました。

御影堂には開基・嵯峨天皇、開祖・弘法大師、中興の祖・後宇多法皇、淳和天皇皇子の開山・恒寂法親王の像を安置しており、さらに奥にある勅封心経殿を参拝する場所にもなっています。勅封心経殿には、嵯峨天皇をはじめとする歴代6天皇の直筆の般若心経が収められています。

御影堂の西側、玄関から近い方には重文の宸殿(しんでん)があります。後水尾天皇中宮の東福門院の御殿を移築したものです。北に隣接する正寝殿と並んで法皇や歴代門跡の執務室であったと考えられています。宸殿の内部は、狩野山楽と渡辺始興(わたなべしこう)の襖絵があり、正寝殿と共に王朝文化を間近で体験できる稀有な空間です。渡辺始興は狩野山楽より100年ほど後の絵師です。


大沢池で平安時代にタイムスリップ

大覚寺にしかない特別な趣は、大沢池からも強く醸し出されています。中央の御影堂の東に本堂に相当する五大堂(ごだいどう)があり、本尊の五大明王を拝します。真言密教にふさわしい、とても荘厳な空間にしつらえられています。旧本尊で重文の五大明王は霊宝館に移されており、年2回の企画展開催時にお会いすることができます

五大堂から池に張り出すように舞台が造られており、大沢池の絶景を一望できます。大覚寺周辺は現在も田畑が多く、建物はかなり少なめです。いにしえの趣を色濃く残しており、池の借景に見える山々の風景は平安時代とさほど変わらないでしょう。人口150万人の大都市・京都で、こんな風景は他にはまずありません。

大覚寺は著名な9月の中秋の名月鑑賞会「観月の夕べ」以外にも、様々な行事が行われています。伝統行事以外にもプロジェクションマッピングなども行われます。撮影のロケ地に使われることも多く、寺の資産を生かした魅力の発信にとても積極的です。

【大覚寺公式サイト】 季節の行事


大沢池 観月の夕べ

大覚寺は、いつも不思議に思うのですが、世界遺産の構成資産にはなっていません。京都はあまりに候補が多くあるため、国宝建造物/特別名勝のいずれかがある資産だけに限定されたためです。空間の美しさと積み重ねた歴史からは、世界遺産にふさわしい寺です。嵯峨野エリアでは交通の便はよくないですが、外国人観光客の多さがその美しさを世界が認めているのだと感じます。

もし世界遺産になったら、観光客が押し寄せすぎて困ってしまうのではと心配になります。


南朝はなぜ生きながらえることができたのか?

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<京都市右京区>
大覚寺
【公式サイト】 https://www.daikakuji.or.jp/

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