さよなら原発市川パレード

「3.11さよなら原発市川パレード」です。
被災地復興・支援!放射能から子どもを守ろう!2018年は3/11に歩きます

「忘れないで」―福島から 9

2013-05-01 | よもやま


無題

例えば、
ここでこのまま私が
信だとしても
驚かないで下さい。
慌てないでください。
あの日(震災)
別々のくらしが始まった時から
わたしには
覚悟ができています。
仮設に移ってきてから
二回目の冬がきて
一人暮らしは、
思っていたより
遙かに辛いものです。
灯りを消して
滑り込んだ布団の中で
訳もなく涙がこぼれたり
大声で叫ぶ苛立ちもある
それでも仮設住宅は
嫌なことばかりではなく
八十過ぎの
汚いばあさんに
優しく声をかけてくれる人がいたり
散歩に誘ってくれたりもする
カラオケが年がいもなく
楽しかったり
嬉しかったり
心が弾んで
臆病者のわたしが
身の上話をしたり
ここでのくらしも
満更でもなく
確かに先の見えない
不安がない訳ではないが
まぁ、こんなものかと・・・・。

例えばここで、
このまま死んだとしても
決して不幸だなどと
嘆かないで下さい。
力一杯に生きて来たのだし
これから先も
わたしの身の丈分の
がんばりで
しなやかに、したたかに
藁って生きて行くのだから
心配はいらない
笑顔は流行病いのようなもので
他人には直ぐ移るものだから
笑ってさえいれば
そのうち又、
わたしは戻ってくるよ。
案外と
八十過ぎの婆さんも
逞しいものさ
心配はいらない

(子供たちへのメッセージ)


「忘れないで」―福島から 8

2013-05-01 | よもやま


放射能汚染

他人事のように報じられている
地下貯水槽の水漏れがつづく
もう少しがんばれば
戻れると微かな期待を持った
三年目の春
遠いどこかの出来事のような
思いもよらない汚染水の流失
又、ふるさとが遠ざかる

又、ですか
いつまで待てばいいのですか
もう駄目なんでしょうか
どうすればいいのですか
いったい誰のせいですか
答えはどこにあるのですか
汚染水は、好むと好まざるとに
かかわらず、海を汚すでしょう
知っているのなら
教えてください
訪ね先は東京電力でいいのですか

ふるさとが
だんだん
ふるさとが遠ざかる


「忘れないで」―福島から 7

2013-05-01 | よもやま


寂寥

ほんの何日前に
「元気でいようね!」と
約束したのに
一人こんな所で(仮設住宅)
あまりにも哀しく
一言の別れもなしに逝ってしまった。

「もう少し待ってね!」と言ったら
飛び切りの笑顔で
たこ焼きの焼き上がりを待っていたあなたも、
あっさりと、いつの間にか居なくなった。

ダンディな帽子に
ステッキ付いておしゃれに散歩していた
ロマンスグレーのあなたも・・・。
あれから(震災から)
二回目の冬が来る。


「忘れないで」―福島から 6

2013-05-01 | よもやま


停電

慌ただしく人が動き回る
「ダイジョウブカナ!」
「何処へ逃げればいい!
仮設住宅は
異様な緊張が走る

震災から二年が過ぎて三月十八日
東京電力
福島第一原子力発電所
停電
使用済み核燃料プールの
温度計が不気味に上昇る

「ダイジョウブカナ!」
「何処へ逃げればいい!」
不安が加速する
とりあえず給油だ!
ガソリンスタンドには
長蛇の列ができた


「忘れないで」―福島から 5

2013-05-01 | よもやま


やさしさ、が

ヒョコ、ヒョコと
鯵の干物がやってきた
「焼いて喰うといまいんだ!」
後を追って白菜がやってきた
「鍋にでもしろや!」

「じゃが芋は、いつでも食えっから!」
煮しめやお新香もきた

「みそ汁にでも入れろや!」と
長ねぎもきた

焼酎がきて、ビールがきて
ウィスキーもきて
日本酒もきた

「甘い物もいいべ!」と
羊羹がきて、
最中がきて、
ゆべしがせんべいも連れてきた。

こんなところで独り暮らしの爺さんに
優しさが列をなしてやってくる
焼酎のせいで
ホロリ、と、涙がこぼれる

「忘れないで」―福島から 4

2013-05-01 | よもやま


生きる

二年も経ったら
換気扇が、ドロドロで
四畳半は
足の踏み場もない
長く居なきゃならないなら
ここに棚が欲しい
そう言っても
どうにかなる訳でもなく
炬燵を隅っこに押しやる
今日は何があっただろうか
明日は、と、思いつつ
ただ朝を待つだけの
布団に潜り込む

眠れない夜がつづく


「忘れないで」―福島から 3

2013-05-01 | よもやま


姥捨山

大きな、大きな地震があって
津波が全てを呑み込んだ

原子力発電所が大爆発して
放射能がふりそそぎ
人々は、命からがら
先を争って逃げました。

長い時が流れて
そこには
ポツリ!ポツリ!と
としよりだけがくらしていました。

(何年か後の南相馬市小高区)

「忘れないで」―福島から 2

2013-05-01 | よもやま


たのしみ

チューリップの球根が
いっぱい届きました。
みんなの力を借りて
集会場の周りに植えました。
鉢植えのベコニアも届きました
仮設住宅は、なんとなく
おすましをして
ポーズを決めました。
チューリップはどんな風に
咲くでしょうか。
いろんな人や物に応援されて
夢や希望や楽しみを
明日にそっとおいてみる
すると、何か不思議と
元気が湧いてくる
幸福なことです
お花も
ボクのへんきの栄養です。


「忘れないで」―福島から 1

2013-04-22 | よもやま
 「さよなら原発・被災者支援市川ネットワーク」のせろさんが、仮設住宅の自治会長さんから詩のような散文を預かってきました。せろさんの文章と詩を紹介します。

==
 3・11前後のメディア報道があっというまに鳴りを潜めてしまった4月19、20日、日頃行きたいと思っていてもなかなか都合がつかなかった被災地へようやく行くことができた。
 道中、山々は薄靄がかかったように、春の芽吹きを準備している。桜が、水仙が、連翹が、菜の花が耕作されない田畑と民家の周辺を彩っている。何も知らなければ、見る人の心をいやす美しく平和な農村風景である。だがそこは津波で押し流され、原発事故の結果、放射能に覆われ、もはや人が住めなくなった場所だ。
 何回かに分けて、写真と文章を掲載します。 せろ


乙女の祈り

大阪からあなたは来た

「ナニカ、オテツダイ、デキマセンカ?」
差し出された小さな「ボード」に
ボクは「来てくれてありがとう!と
走り書きをする。

何もしてくれなくても
何も言ってくれなくても
微笑んで頷いてくれただけで
あなたの思いは
仮設のみんなの心を
優しく包みました

あなたに会えて良かった
並んで仮設周辺のゴミを拾ってみる

あなたの優しさで
涙はもう渇れそうです
ボクは、今日、素敵に出会いました

(大阪から来た、難聴の乙女へ)

最後の実行委員会の報告

2013-03-23 | 実行委員会より
3月22日、最後の実行委員会を開催しました。
そこで共有した総括を紹介します。来年に活かしたいと思います。

■参加者300人、会場カンパ102912円  

【2012年】
10・29 2013年の「3・11」パレードに対する呼び掛け文を「3・11さよなら原発・被災地復興・支援」をすすめる市川市民有志」名で、2012年度実行委員会に参加した方々に発送
11・21 上記呼び掛け文で参集した方々の第一回会議において、2013年のパレード開催を決定 16人参加
12・20 第一回実行委員会 19人参加  事務局員14名を決める
【2013年】
01・11 第一回事務局会議
01・16 第二回実行委員会 18人参加
01・26 第二回事務局会議
01・31 第三回実行委員会19人参加
02・07 第三回事務局会議       
02・12 第四回実行委員会 12人参加
02・21 第四回事務局会議
03・02 第五回実行委員会
03・06 第六回実行委員会・事務局合同会議 16人参加
03・22 第七回実行委員会最終報告会

■正式名称
「第二回3・11さよなら原発・被災地復興・支援 市川パレード」
■場所・大洲防災公園 日時 3月10日 ブース開場11:00 集会開会13:30 パレード14:00 
■宣伝方法
【駅頭宣伝】 法華経寺門前二回 市川駅北口四回 本八幡北口二回
【チラシ配布】 団体、その他個人で自宅周辺に配布
【ポスター張出】 100か所?
【ラジオ】 エフエム市川放送 3月3日から3月9日まで日に一日5回放送
【マスコミ】 赤旗・市川よみうり・ちばマリオン・千葉日報に案内掲載
東京新聞 翌日報道される
【インターネット】 ブログ・ツイッター・フェースブック・関連サイトへのリンクのお願い

■ブース感想
●「写真・パネル展」
写真を展示できたことで「開催目的」がより明確になった。被災地と市川との一体感が深まったのでは。被災地の写真展示は今後も続けて欲しい。写真の枚数、形状など直前まで分からず、展示方法が決められなかった。机上展示が前々日に分かり安心。公開できる写真や情報を日ごろから収集し、ストックしていればもっと深まった展示に出来たのでは。(被災者支援ネットに相談すればよかった後悔)予想外の強風で30分早く撤収したのが残念。広場が見渡せ一体感が持てる会議室なので有効に利用出来るのでは。
●『しゃべり場』
《第1部》11時~11時45分・15、6名参加
☆自己紹介☆さよなら原発に参加した思い
《第2部》12時~12時45分・7、8名参加☆原発、被災地2年たって思うこと☆忘れないためにどうしたらいいか等交流しました。
「家族がバラバラになりいつ帰れるかもわからない。不安である」(福島から避難しているAさん)「あまり関心なかったけど原発を学ぶ機会があり、今日も参加し原発をなくしてほしいという思いが強くなった」(Bさん)「茨城県が実家。震災以後帰ってない。親が作ったお米をいらないというのが切なかった」(Cさん)「私自身何をしたらいいのかと考えていたけど土建に入り、パレードに参加した。忘れないのが大事ではないか?」(Dさん)「義援金が最近集まらない。初心に戻りたい」(Eさん)
☆参加したみんなの思いは原発をなくしてほしいということでした。また、声を上げ続けること、心をよせるために全国各地で集会、デモが行われ、インターネットで繋がる大事さも交流しました。
●「風船」
研究の結果、自転車の空気入れが使えたので、30~40分で完成したようにおもいます。今回風船がめだたないように思いましたので、次回からはデモの出発直前に、出口で一人ずつ渡そうかとおもいました。
●「防災公園説明案内」
当初人が集まらないのでは、と内心不安はあったが呼びかけてみると意外にも50人も集まり驚きました。市内の人は意外と災害等について気にかけているんだなと認識を新たにしました。歌の広場は急きょ設定しました。合唱団のメンバーが中心で歌ったが、しゃべり場との時間調整が課題かも知れない。次回があるのなら、最初から実行委員をだしてもらいちゃんとした計画でやれば人も集まると思います。ブースの時間が少し長かったかも知れません。
●ウェブツールでの取り組み
ウェブでの宣伝は以下の3種類。開設は全て1月下旬。
1)ブログ「さよなら原発市川パレード」、2)ツイッター「さよなら原発市川パレード」@311ichikaw、3)フェイスブック 「イベント」欄を立ち上げ。
●司会
集会が始まると間もなく空模様がおかしくなり大変な砂塵と共に強い風が吹き荒れる空模様の中でも参加者の皆さんが、たじろぎもせず集会の進行にご協力いただき真剣に聞き入ってくださったことに大変感動し感謝の気持ちでいっぱいでした。同時にこれは、皆様の集会への気持ちの表れとして嬉しく受け止めました。また、集会が時間どうりに運んだことにほっとしました。
●健康ブースのまとめ
相談者 20名以上(途中で測定記録用紙がなくなり、数が不明)
感想 血圧と体脂肪チェックを行いながら健康相談を実施したが、2時間で20名ほどが訪れてくれた。健康相談だけでなく、内部被曝の話も出来ればよかったが準備できなかったことが残念。
●お弁当他
 お巡りさんの声がうるさくて(大きくて)私たちのスピーカーの声が全然聞こえなかった。(できればピーピー程度にしてほしい)。一般の人たちから何の「デモ」か分かるように「平和行進」の時のように、前に「宣伝カー」を入れたほうがいいのでは。(私たちはパレードと言っているのに、警察はデモと言っていた)。第一グループはほとんど「コール」をしなかったので、しまりがない感じだったので、「子供を放射能から守ろう」などの呼びかけの「コール」したほうがいい。「みんなで歩こう」などの呼びかけの「コール」をしたらどうか。パレードのルートは前回のほうがよかった。集会の演台が低すぎて誰がどこで話しているのかわかりずらかった。福島の写真はとてもよかった。一年に一回ではなく小規模でもいいので何回か実施できないか。もっと「市民に知らせる」行動をすることが大切では。もっと若い人が実行委員会に入って来れるように工夫を。11時からの企画に一考を。若いママさんの発言がよかった。おにぎりがおいしかった。楽しかった。
●放射線量説明
 被曝・汚染の認識が市民に少ないのに驚いた。
●*ブースの時間が長すぎた、一考を。しかし新しい試みとしてよかった。*沿道に人が少なくコースに一考。*集会での訴えの方法に一考(中央舞台としての設置、舞台上でのパフォーマンスなど)

★これからどうするか
*「3・11さよなら原発・被災地復興・支援市川パレード」を第三回として来年も開催する。
*「実行委員会」は継続する。
*実行委員長・事務局長・事務局は第三回のパレードへの引継ぎまで継続する。
*第三回に向けて、9月頃に最初の呼びかけを行い、新たな体制を決める。
*ブログ・ツイッター・フェースブックには常時、地域での脱原発の行動情報を寄せて更新する。
*アピール文を実行委員会名で市長宛に送付する。