16世紀北条氏によって小田原のまもりとして造られたいわば実戦本位の砦のような城である。本丸と出丸の間を当時より街道が通っている。限られた兵で全体を守るのは容易でないことは伺える。実際に豊臣軍7万の大軍に責められ半日で落城した。
空堀で現在は保全のため芝生が植えられているが本来はもっとと深く滑りやすいローム層が露出し一旦落ちれば武具を着けた兵はなかなか這い上がれない構造という。とはいえそこに守る兵がいない限り梯子や杭など単純な攻城道具でも簡単に入れそうだ。相手は数万の人海戦術でこられれば例え双方多くの犠牲を出しても最後は大軍が勝つことになったのだろう。
複雑な堀は障子堀と呼ばれている。
二の丸から見た西の丸方向、先端は楼台それぞれが土堀と土塁で囲まれている。土塁は曲輪の土留め程度の意味しか持っていない。
岱崎出丸と畝堀(復元)秀吉の進出に備え急遽増改築途中未完成の中合戦になった。ここでは激戦が行われ双方多大の犠牲者が出た。
両軍の将が仲良く眠る三の丸跡に建てられた宗閉寺。
現在全体は史跡公園として綺麗に整備されている。
当時も富士山だけは激戦の様子を同じように遠くからじっと見ていたのだろう。
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