今度は、
むなぐるま氏の記事を読んで、切込隊長のブログでの議論を知りました。
またぞろ、その議論への雑感など。
切込隊長の、
メディアとネットに「格差」があるという議論はおかしい 当たりから始まった、湯山氏との会話は、ちょっと不毛の感があります。
詳細は、それぞれの記事を読んで頂ければわかると思いますが、隊長氏ご自身が「徒労感」を感じて
おられるように、読んでてえも言われぬ徒労感を感じてしまうんです。
その徒労感が那辺から来るものなのか、忖度してもしかたない。ってか、もう明らかすぎるんですな。
子供っぽい言い方をすりゃ、湯山氏が、議論する姿勢じゃなく布教する姿勢で入ってるからです。
こうなりゃもうなにを話しても無駄。
むなぐるま氏は,その点を知ってか知らずか、極めて冷静かつ真面目に、「論壇系ブログになにが
出来るか」を必死に考えておられてるわけです。
そもそも、私は、ブログであろうがなんであろうが、ネットで「市民ジャーナリズム」であるとか
「草の根ジャーナリズム」なんて生まれるはずがないと思ってます。
隊長も仰ってましたが、ジャーナリズムをジャーナリズムたらしむる「取材」っていう行為を
行えるだけの才能と時間と人脈と金がある人間がそんなにいるとおもえんからです。
やはりそれは、メディアの種類がなんであれ、プロの領域であって、そのプロに相当の対価を支払って
消費していくもんだと思うんです。
無論、ブログ以前からも、市民ジャーナリストなるひとびとがネットの中でごそごそしてたのは
知ってます。しかしありゃ、端的に言ってしまえば、二十年程前に、「左翼っぽいこと言っておけば
学歴ない俺でも、エリート気取れる」と勘違いして「市民派」を名乗り出した、現在五十代ぐらいの
「おちこぼれ系左翼」がまたぞろ見つけ出した、「努力と研鑚なしで注目を浴びる方法」の一つでし
かないわけでしてね。。。。
で、結局、ブログという道具を知った我々はなにが出来るのか って事になるんですが、
私は、「日記」で良いと思います。 所詮日記なんです。それで十分だし、それだって価値がある。
今我々が、大正期から終戦直後までの「東京人の生活」を知ろうと思えば、荷風の「断腸亭日乗」は
避けて通れない資料ですし、多分、ピカイチの資料でしょう(岩波のはダメです。岩波のは
見事に左翼的見解から検閲がはいってます)。で、断腸亭の中の圧倒的大多数のエントリーは
ほんとに糞くだらない荷風の日常話なんです。「荷風ならでわの批評精神溢れる時評」
なんざ、数えるぐらいしかない。 2.26当日の記事でさえ、「びっくらこいた」レベルの話し
しか書いてないんです。 後は、「カツレツ喰った、ゲロはいた。もったいないからまた喰った」
位の話です。しかし、あの膨大な日記を通読してみると、荷風という人間がどういう人間だったか
そして、あの時代に生きた人間というのは、なにを見聞きし、どう感じていたのか ということが
よくわかってくる。
それとおんなじで、ブログの登場によって、無数の「断腸亭」が出来上がればそれでいいじゃないか
とおもうんです。 ってか、無理して ジャーナリズムぶったり、論説ぶったりしてしまうほうが
「所詮、素人」が書く情報の価値が下がってしまうような気がするんです。
確かに、今のネットに乗っかってる情報が、荷風の断腸亭のように長期間にわたって
保持されるとは考えにくい。 ですから、荷風の断腸亭のように 「後生への史料」になり得る
可能性は低いでしょう。
しかし、同時代人同士がお互いの断腸亭を読みあう事による、「時代把握」っていうのは
それ相当の価値があると思うんですが、いかがなものだろう。
少くとも、ジャーナリストぶって、稚拙な取材にもとづく珍説をまき散らすよりかは
害は遥かに少いとは思うんですがw