江戸太郎重長は源頼朝の御家人で伝説では江戸城本丸台地と考えられる地に江戸館がありましたが、太田道灌においだされ(おいだした太田道灌も【当方滅亡なり】)鎌倉幕府の樹立に尽力によって武蔵七郷を賜った世田谷の喜多見に移り住みました、
徳川家康が関東に入国しましたので江戸の姓とすることを憚って、(喜多見)に改姓しました、
また慶元寺には河野家の、歴代のお墓があります、河野氏といえば、四国 愛媛の有力豪族で最強の河野水軍で源義経に味方し壇ノ浦の合戦(1185年)で活躍し江戸氏同様、鎌倉幕府の樹立に一役買い、その後、江戸氏も河野氏も北条氏に仕えた縁で互いに娘を嫁がせ合う婚姻関係でした、天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で湯築城に籠城でしたが、小早川隆景の説得を受けて大名としての河野氏は57代をもって滅亡しました、
(太郎とは長男をさします、徳川家康は次郎三郎元信と名乗り、三男で分家のでですが、天下を取りましたので、将軍の跡継ぎは太郎の直系と決めましたが4代の徳川綱吉をもって直系、太郎による世継ぎが崩れました)
またお犬様将軍の徳川綱吉は、折敷に縮み三文字家紋の河野氏を改易しましが、明確な理由は記録に残つていませんので、
犬公方様、庶民のなかには娘を廓に明日の食事もとれないのに、すこし散財を仕替えていただけませんかなんて、河野そく首だ~なんてことが、あったか、なかったか神のみしるでした。