結城秀康公とゆえば刀剣好きには たまらないですね、
天正12年(1584年)12月、名刀【童子切】を羽柴家の養子(羽柴三河守秀康)になるとき父の徳川家康より選別として授けられ、
また、慶長4年(1599年)閏3月、石田三成、襲撃事件時、石田三成を護衛して佐和山城へ送る途中の瀬田で島左近など三千人の兵が出迎えに来たので、役目を終え、三成はその労を感謝し、名刀 誉傷三ヶ処ある【石田切込正宗、大摺上無銘 刃長68、8cm反り2、48cm、元幅2、79cm先幅2、12cm、】を贈られました、反りといえバランスがいいですね名刀中の名刀かなです、
また、国宝 名物【稲葉郷 刃長70、1㎝反り2㎝】を関ケ原の戦いに乗じて上杉景勝が挙兵した抑え役として(挟み撃ちの予見可能性あり)結城秀康は出陣を希望したのに父である徳川家康が渋ったため秀康を説得するため贈ったと言われています(結城信秀公は開戦時、北の防衛拠点で奥州街道と日光街道の追分にあたる宇都宮城で守りを固めていました)
(近代では戊辰戦争時、徳川幕府幕臣 新選組局長 近藤勇は徳川幕府から出陣要請が遅くなり敗退しました)
また名門 結城家には、名刀 江と化けは見たことがない【無銘伝江 鎌倉時代末期 刃長70、1㎝反り1、9cm】などの名刀が伝わっています、
森巖寺、開基である結城秀康公は、その誕生から没するまでの三十四年間波乱万丈な生涯を送りました。母於万の方は、家康公の正室築山殿の奥女中でありました。秀康公を身籠ると築山殿を気づかい重臣の本多重次の屋敷に匿われ、そこで秀康公を出産いたしました。家康公の次男として誕生しながら、父との初対面は三歳の時。不憫に思った兄信康公の取計らいによるものでした。
数年後その兄が亡くなり、本来であれば秀康公が徳川の後継者となるはずでしたが、十歳で豊臣秀吉の下へ養子に出されました。これは小牧・長久手の戦の後に家康公が秀吉公に臣従し和解条件でした、幼少の頃より文武に優れた秀康公は、養父秀吉の評価も高く、若年でありながら武勇に名を馳せました。秀吉に実子が誕生すると、婚姻により下総国結城家の家督を継ぎ、実父家康公の下へと戻ることになりました、
数年後その兄が亡くなり、本来であれば秀康公が徳川の後継者となるはずでしたが、十歳で豊臣秀吉の下へ養子に出されました。これは小牧・長久手の戦の後に家康公が秀吉公に臣従し和解条件でした、幼少の頃より文武に優れた秀康公は、養父秀吉の評価も高く、若年でありながら武勇に名を馳せました。秀吉に実子が誕生すると、婚姻により下総国結城家の家督を継ぎ、実父家康公の下へと戻ることになりました、
秀吉の死後起こった、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の役では、西上を懇願するも却下されました。秀康公以外に関東へ残す陣営を任せられる人材はないと判断されたためか、上杉景勝を牽制する留守居の役目を与えられました、その大役ゆえに合戦後の増封高は第一位で、このとき越前 福井城六十七万石の藩主となりました。江戸から遠く離れた越前での臨終に際して秀康公は、一乗院住職万世和尚に自分の死後に江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました、
この遺命を託された万世和尚が高齢だったため、弟子の清譽存廓上人に託して、慶長13年(1608年)に當寺を開山。その建立にあたっては隣接する北沢八幡別当寺とし、森巖寺一帯は天領となりました。そしてその八幡を山号、秀康公の法名浄光院殿森巖道慰運正大居士にちなんで浄光院を院号寺号として、八幡山浄光院森巖寺と命名されました。徳川家の位牌所の多くは天下泰平後に創建されていますが、森巖寺はその直前に建てられた由緒ある寺院です。