当社旧蔵の棟札によると『当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞(頼康)。天文15年(1546)丙午8月20日建立、12月20日癸卯御遷宮』とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼康が社殿を修築造営し、正遷宮を行っている。
またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀、長さ二尺三寸(69、7cm)一振を寄進したと云われている。
このように神社は吉良家の祈願所とし、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が執行されてきたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまう。
その翌年の大正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康は源氏の出身でもあり、当社の旧社領11石を朱印地とした。
維新後の明治5年には郷社宇佐神社の社名となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元された。また、昭和39年5月には社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されている。
※「八幡宇佐宮御託宣集《はちまんうさぐうごたくせんしゅう》」によると、八幡さまとは、わが国の応神天皇(誉田別尊《ほんだわけのみこと》)の御霊《みたま》を神さまとしてお祀りする時のお名前であり、欽明天皇《きんめいてんのう》32年(571)2月10日に、この宇佐神宮の菱形池のほとりに、3歳の子供のお姿で竹の葉の上に立って現れ、お告げを下されたと伝えられている。
その翌年の大正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康は源氏の出身でもあり、当社の旧社領11石を朱印地とした。
維新後の明治5年には郷社宇佐神社の社名となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元された。また、昭和39年5月には社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されている。
※「八幡宇佐宮御託宣集《はちまんうさぐうごたくせんしゅう》」によると、八幡さまとは、わが国の応神天皇(誉田別尊《ほんだわけのみこと》)の御霊《みたま》を神さまとしてお祀りする時のお名前であり、欽明天皇《きんめいてんのう》32年(571)2月10日に、この宇佐神宮の菱形池のほとりに、3歳の子供のお姿で竹の葉の上に立って現れ、お告げを下されたと伝えられている。
憶測ですがこのような太刀が 寄進されているかなです 備前国住雲次 南北朝時代・14世紀 (西暦1336年~1392年までの約56年間)
長さ71、5cm 反り1、5cm
鎬造、庵棟、鍛は小板目、刃文中直刃調に浅く湾れる
鎌倉時代末に、備前国宇甘荘(うかんのしょう、現岡山県のほぼ中央)で、長船(おさふね)派などと作風を異にする雲生(うんしょう)が現れ、これを宇甘派と称する。雲次(うんじ)は雲生の子。 細身で、反りの中心が中寄りにあり、刃文を小のたれの交じる中直刃(ちょうすぐは)とするなど、京都物を思わせる宇甘派の特徴をよく示す。一派が京都でも作刀したという説はここから来ている。雲次の長銘はひじょうに少なく、建武年紀のこの太刀は宇甘派の活動期を知る上で、きわめて貴重である。