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ETV特集「死の灰と闘う科学者 三宅泰雄」

2020-01-03 01:41:53 | 記録
NHK ETV特集 2013年9月28日(金)夜11時 ※金曜日深夜
     2013年10月5日(土)午前0時45分~(金曜深夜)再放送
海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~

1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で行った水爆実験で、日本のマグロはえ縄漁船・第五福竜丸が被ばくしました。被害は水産物にも及び、日本各地の港では放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされます。しかし、核実験を行ったアメリカは、放射性物質は海水で薄まるためすぐに無害になる、と主張しました。
 このとき、日本独自に海の放射能汚染の実態を解明しようという一大プロジェクトが始動します。水産庁が呼びかけて、海洋や大気、放射線の分野で活躍する第一線の専門家が結集、「顧問団」と呼ばれる科学者たちのチームが作られました。
そして水爆実験から2か月後、顧問団が選んだ若き科学者22人を乗せた調査船・俊鶻丸がビキニの実験場に向けて出発します。2か月に渡る調査の結果、海の放射能汚染はそう簡単には薄まらないこと、放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることが世界で初めて明らかになりました。
 俊鶻丸「顧問団」の中心的な存在だった気象研究所の三宅泰雄さんは、その後も大気や海洋の放射能汚染の調査・研究を続けます。原子力発電所が次々と作られていく中で、三宅さんをはじめとする科学者たちは、大きな原発事故にも対応できる環境放射能の横断的な研究体制を作るべきだと声を上げます。
しかし、それは実現しないまま、2011年3月11日、福島第一原発の事故により、再び放射性物質で海が汚染されました。
 ビキニ事件当時、日本の科学者たちが行った調査から、今私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。俊鶻丸に乗り込んだ科学者の証言や、調査を記録した映像などから描きます。
(録画1)
http://www.dailymotion.com/video/x15bioi_%E6%B5%B7%E3%81%AE%E6%94%BE%E5%B0%8
4%E8%83%BD%E3%81%AB%E7%AB%8B%E3%81%A1%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6
%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA_news
*(録画2)
http://www.dailymotion.com/video/x15av8j_etv-uminohousyanounitachimukattanip
ponjin2_news
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4627:131002〕

NHK【ETV特集】海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸~ 2013年9-28(土)夜11時、再放送:2013年10-5(土)午前0時45分(金曜深夜)
 1954年3月1日の米国によるビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被爆し、これに対して日本独自に海の放射能汚染の実態を解明するプロジェクトが発足し、水爆から2ヵ月後、様々な専門分野の若い科学者22人を乗せた調査船・俊鶻丸がビキニの実験場に調査に向かい、海の放射線汚染で放射性物質が食物連鎖を通じてマグロの体内に蓄積されることを世界で初めて明らかにしたことなどを伝える内容でした。(上の写真は都立第五福竜丸展示館)
 私は俊鶻丸のことは全く知らず、番組で紹介された三宅 泰雄著『死の灰と闘う科学者』 (1972年、岩波新書)を即、amazon.co.jpで注文してしまいました。(CiNii 論文「ビキニ調査船俊鶻丸の調査について」、「ビキニ調査船俊こつ丸、放射性降下物漂う海へ」(国立医薬品食品衛生研究所小史第4号)がダウンロードできます。)
 なお、番組中で俊鶻丸の調査から数ヵ月後、マグロの放射能に関する検査が打ち切られたことが述べられていて、原子力発電所の建設を推進する国策による判断(放射能の危険に蓋をすること)、あるいは米国の圧力などがあったのではと想像させられました。

 2013年10月5日(土)午前0時45分から再放送とのことです。多くの方に是非、見ていただきたいETV特集です。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0928.html
§2 31年度までの活動状況 (俊鶻丸による放射能調査)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1956/sb20602.htm
CiNii 論文 - ビキニ調査船俊鶻丸の調査結果について
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003648279
ビキニ調査船俊こつ丸、放射性降下物漂う海へ(国立医薬品食品衛生研究所小史第4号)
http://www.nihs.go.jp/nihs/history/syunkotsumaru_20120308.pdf
都立第五福竜丸展示館:ロボット人間の散歩道:So-netブログ
http://robotic-person.blog.so-net.ne.jp/2009-06-05-1
都立第五福竜丸展示館
http://d5f.org/
「第五福竜丸被災事件」の記録 スライド死の灰
http://city.hokkai.or.jp/~peaceweb/bikini/

出典:http://38sera.blog.so-net.ne.jp/2013-09-28-1 2013-09-29 00:14
ETV特集『死の灰と闘う科学者 三宅泰雄』ビキニ環礁水爆実験では被ばくした太平洋の汚染を誰がどう向き合ったか? [共生社会情報の風で権力の隠ぺいを打破し自由を]
The Kelly Family - Amazing Grace (paddy crying)~
http://www.youtube.com/watch?v=IoL5-TUat5o&feature=related
 【ショートクリップ】NHKスペシャル 被曝治療83日間の記録~
http://www.youtube.com/watch?v=u4RKFzzfHeg&feature=related
 東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故(原発関連)~(これだけでもぜひ、見たい)
http://www.youtube.com/watch?v=pYB58P3t_Hs&feature=related
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・その2(原発関連)~
http://www.youtube.com/watch?v=DFyBq4sLRhU&feature=related
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・その3(原発関連)~
http://www.youtube.com/watch?v=wg8qzdmA1Ew&feature=related
 本当に残念だが、凄いモレだ!これからは、被曝との戦いになる。

俳句など

2020-01-02 22:32:04 | 記録
木道に天使のはしご草紅葉 天使のはしごは、空気中に粒子が多いとでるとか
城跡に親子の雉の散歩道  秋田城跡には数番いの雉やカモシカが生息。
長寿箸キラー細胞活性化  ある条件で長寿スイッチが入り細胞は活性化。
華麗なる盤双六に禁止令  賭け事は、古代から止められない性癖に…

夜明け前日向水木が眼に滲みる 春を告げる花は黄色。
大聖堂復興祈る坐禅草     ノートルダム大聖堂の焼失に祈る。
鮮やかな赤に染上げ八重葎   志村ふくみさんは寺の八重葎を摘んで染色。
輝ける蜘蛛の囲へ向きご挨拶  蜘蛛は徐々に高く巣を張り大空に飛ぶ準備。
病魔来る戦いは今涅槃西風   疾病宣言に覚悟を決め、敵を知る対策準備。
夏戸建て風吹き抜ける京町屋  よしずの夏戸と簾に花茣蓙のシーツで避暑。
僧服の足元は靴秋彼岸     福井での禁止令に寺院側の対応策。
錦木のくれない散らす暴風雨  災害多発の昨今。樹木伐採の家々続出。

 
 

八朔祭について

2020-01-02 21:40:01 | 記録
八朔祭の由来
 8月の終わりか ら9月初旬にかけて、8月の名が残るお祭りが全国各地で行われていることをご存じだろうか。これは明治以降、新暦へと切り替わったにもかかわらず、旧暦で 催事が続いてきたことに理由がある。祭りの名前は「八朔(はっさく)祭り」。「朔」とは新月を意味する漢字で、旧暦(太陰暦)においては、新月の日は月の 初日となり、「朔日」と書いて“ついたち”と読む。つまり、「八朔」とは8月1日を指す言葉なのである。この“8月1日祭り”が、なぜ現在ではほとんどの地域で9月に行われているかといえば、旧暦の8月1日が、新暦(太陽暦)のおおよそ9月初旬あたりとなるからだ。旧暦の八朔は、2019年では8月30日、2020年は9月17日、2021年は9月7日となる。
 五穀豊穣や無病息災を祈る八朔祭は、各地でおこなわれているが、その謂れなどを考察してみよう。八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。 新暦では8月25日頃から9月23日頃までを移動し、遅ければ秋分当日となる。
 この頃に早稲種の稲の穂が稔るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあり、田の実の節句ともいった。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった 。
 『鎌倉年中行事』には、室町幕府の公式行事であり、関東の出先である鎌倉府では8月1日に八朔の儀式が行われ、諸大名や寺社から刀剣や唐物、馬などが鎌倉公方に献上され、鎌倉公方からも刀剣や唐物、馬などが下賜されていた。
 徳川家康が1590(天保18)年8月1日初めて江戸城に入城したことを慶事とし、江戸幕府はこの日を正月につぐ祝日とした。「八朔参賀」と呼ばれ江戸城には祝いの品を届ける大名が列をなしたという。八朔の祝いは、明治改暦以降、新暦8月1日や月遅れの9月1日に行われるようになっている。
 八朔参賀」に因んで京都の祇園では、芸妓や舞妓たちがお茶屋やお師匠さんの家へ挨拶回りをするが、「旧暦の八朔の頃は、早い稲が実る季節であることから「田の実の節句」とも呼ばれていた。田の実を頼みにかけて、上司や知り合いなどに頼み事をする日でもあったのである。この意味合いで代表的なものが、京都祇園の八朔回りである。
 京都府京都市西京区の醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社の八朔祭は、京都の最後の夏祭りで、風雨を避け、順調に五穀の稔りを得られることや家内安全を祈ることを目的として明治18年から続く他の八朔祭と比べると130年と新しい祭りであると言うこともできる。しかし、その二つの意味合いがあり、室町時代の一条兼良の「公事根源」、江戸時代の黒川道裕の「日次記事」などでは、旧暦8月頃に早稲の穂が豊かに実り、農民は初穂を貴人、恩人に送る風習が古くからあった。そして、武門の崇敬を受けて松尾大社は神馬を献上されている。江戸時代には徳川家康が1590(天正18)年8月1日に江戸城に入城した記念すべき日として、正月に次ぐ祝日とした。また、朝廷でも「後水尾院當事年中行事」に「八朔」が恒例行事として紹介されており、貴践の別なく盛大に行われて、秋の大事な行事と位置づけられていたようだ。
 松尾大社では、「六斎念仏踊り」と「八朔相撲」が併せて行われている。「六斎念仏踊り」は、平安時代に空也上人が松尾大社の神前で初めて奏したと言われており、無形文化財に指定されている。「八朔相撲」は、鎌倉時代から奉納されており、現存する記録としては江戸初期の神主秦相宥の編纂した「松尾年中行事次第記巻中」に「八朔相撲」に関する記述がある。
 醸造祖神・洛西総氏神の松尾大社は、祭神「大山咋神」を飛鳥時代に祀ったとされているが、その起源はさらに溯り太古から棲んでいた人々が山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座に祀り守護神として崇敬したのが始まりと伝えられている。五世紀頃、秦の始皇帝の子孫あるいは新羅の豪族と称する人々は、秦氏が朝廷に招かれて来住し松尾の神を総氏神として、様々な分野の開拓や産業振興などを行った。保津峡の開鑿、大堰や用水路を通し農地開発をし、織物や酒造り、神殿建設などの土木工事を行うなど、人間活動のあらゆる活動に通じる成果をあげた。
 島根県益田市の高津柿本神社の八朔祭は、柿本人麻呂の誕生日、陰暦の8月1日に催され豊作祈願のお祭りで流鏑馬神事も行われる。この日は、二百十日の厄日にあたり、風除けと豊作を祝っての祭りで、石見地方きっての賑やかな祭りとして昔から続いている。神前では、石見神楽を奉納(午前10時〜午後9時)する。
 人丸から読み取れる、「人生まる」で安産の神、疫病防除の神、「火止まる」と火難防除の神、歌聖として学問の神、五穀豊穣の神として農業さらに商売繁盛を祈願する参拝者が多い。
 室町時代には、この日が武家の節句にあたり武士道の高揚を目的として流鏑馬の行事が行われた。神社近くの高津川河川敷で古式豊かな流鏑馬神事が 行われる。流鏑馬は、1661(寛文元)年8月1日に亀井茲政が奉納したのが始まりで、鏑矢が飛んで行く時発する高い音が魔除けの破魔矢効果があるとされている。(要約:公益社団法人 島根観光協会2019年/しまね観光ナビ/観光スポット・柿本神社八朔祭)
 八朔祭は、五穀豊穣と子孫繁栄を祈る神事と共に流鏑馬や神馬を奉納することも行なわれており、馬に関する神亊は武家勢力の進展によって盛んになったと思われる。
 古代の馬と牧に関しては,律令制度のもとで国府や国分寺と共に五畿七道が整備され厩牧令により30里(約16km)毎に駅家が設置され牧で伝馬が乗り継ぎの為に飼育管理されていた。現在、発掘によって判明している駅家は山陽道の布勢と野摩のみであったが2007(平成29)年11月に東山道の玉前駅、玉前剗の重要な手掛かりが得られている。宮城県岩沼市の原遺跡の県営圃場整備事業に伴う発掘調査で掘立柱建物跡からは陶製の円面硯や長頸瓶(フラスコ形で、古代城柵の地鎮の埋納品とされた。)、砥石、刀子、墨書土器、内黒土器と鞴羽口や釣り針などが出土しており役所の機能を果たしていたことが推察される。
 牧に適しているのは、黒ボク土を含む土壌で、黒ボク土は土中に腐食が集積することによって黒く見え、その母体は、テフラ物質つまり火山灰で一般の植物には有害なアルミニュウムイオンが多く含まれるがイネ科の植物はそれらを吸収する。そして、イネ科の植物を好むのが馬なのだ。けれども、火山灰土があることがイネ科の植物生育の条件で馬を飼いやすい条件だが、馬を飼っていたことを示している訳ではない。東北北部に広がる黒ぼく土地帯は、次のような条件、①温潤で冷温〜温暖な気候②火入れ・焼き畑・焼き狩などの人間の関与③水が下方に浸透しやすい台地や丘陵があることが馬を飼うために十分な条件を満たしていることである。特に火入れや草焼き、野焼きをしてイネ科植物の生育を促した草原は、平坦地が広がり、十和田火山灰などの集積がなされている東北北部の山地の東側は冬の積雪も少なく馬を飼うには適していたと思われる。黒ボク土地域と古代の官牧の分布が類似していることが地質図と「延喜式」に記された東北地方の牧の分布を重ねてみると分かる。
 現在馬飼は、有資格者の家畜商で、牛、馬、豚、緬羊、山羊などの家畜を家畜市場で売買、交換、斡旋する者のことを言う馬喰・博労・伯楽・白楽は、大化以前には馬の調教飼育や飼料の貢納などに従事した部曲で、大化以後は左右馬寮に雑戸馬飼部として属した。その後。徳川藩政期の馬飼は、幕府の馬に関する諸事を司った職名となった。また、『日本姓氏語源辞典』の名字の由来と分布をみると馬の飼育に従事した馬飼部からと考えられるが、島根県西部(旧石見国)では馬飼(バカイ)で、愛知県あま市付近(旧海部郡)の馬飼由来と伝えられている。愛知県稲沢市(旧中島郡)祖父江町馬飼(マカイ)は、江戸時代から記録のある地名である。福岡県北九州市南区葉山町では、福井県坂井市丸岡町霞の丸岡城の江戸時代の城主有馬氏の後裔と伝えられている。
 馬飼さんが多い地域は、愛知県知立市などにおよそ10人、三重県伊賀市などにおよそ10人、兵庫県神戸市兵庫区などにおよそ10人、岡山県倉敷市などにおよそ10人、岡山県高梁市などにおよそ10人がT O P 5である。
 馬飼は、駅馬を牧で世話し、駅馬としての役割を果たすための準備を常に怠らなかった。連絡の用のある時には即駅馬として出発出来る体制を整えておくことが求められた。馬の飼育には人の約十倍の塩が必要で、古代遺跡から出土する馬骨の近くからは製塩土器が出土している。牧は塩の補給や伝馬の交換をするための重要な拠点であった。補給できるまた、馬には序列があった。『続日本紀』721(養老5)年3月9日の条に馬の所有数に関する記述があり「五位の者は四匹、六位以下庶民までは、三匹」とあり、一般的な武士は三匹が限度だ。が、源義経の乗り換え馬が四匹なのは義経が五位のためである。
 八朔祭は、様々な曲折を経て各地の祭礼として残り、祭礼の形式も様々だが、五穀豊穣を祈り地霊を鎮めて子孫繁栄を願う人々の願いを天に届ける素朴な形を伝え続けている。




舞鶴場所での救命救急処置

2018-04-07 11:32:47 | 記録
1)土俵で救命に当たった女性の初期対応、医師が絶賛「相当トレーニングを積んだ方と思われます」
HUFFPOS 日本版T4/6(金) 12:26配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180406-00010002-huffpost-soci

京都府舞鶴市で開かれた大相撲の巡業で、土俵で倒れた多々見良三・舞鶴市長に心臓マッサージをしていた女性たちに、「土俵から降りてください」と求めたアナウンスが物議を醸している。朝日新聞デジタルによると、女性は看護師だったという。(錦光山雅子 / ハフポスト日本版)

女性が蘇生にあたる様子を撮影した動画はこちら

日本救急医学会の「ICLSコース」ディレクターで、昭和伊南総合病院麻酔科診療部長の大房幸浩さんは、YouTubeに投稿された、現場の様子を伝える動画に映った土俵上の様子から、中心になった女性がとった初期対応を検証、自身のFacebookで公表した。
ICLSコースは、突然の心停止など、緊急性の高い事態になったときの適切な初動とチーム蘇生の技術を習得するための講習で、大房さんは、ディレクターとして心肺蘇生、1次、2次救命処置を医療関係者に指導している。

以下、動画から確認できる土俵上での大まかな蘇生の流れだ。

3秒  女性Aが土俵に上がる

21秒  女性Aが周りの人をかき分ける

23秒  女性Aが胸骨圧迫(心停止した人の心臓のあたりを両手で圧迫して血液の循環を促す)開始。女性Bが到着

27秒 女性Aが周りに指示

43秒 女性C、Dが土俵に上がる

45秒 AED(自動体外式除細動器)が到着

47秒「女性の方は土俵から降りて下さい」のアナウンス

49秒 女性Aから女性Bに胸骨圧迫交代

56秒 女性Bから救急隊員に胸骨圧迫交代

69秒 救命バッグを持った救急隊員が土俵に上がる

70秒 女性A、Bが土俵から降りる

75秒 担架到着

76秒 胸骨圧迫が中断された様子(AEDの解析中と思われる。AEDは作動させた形跡がなく、その後は心肺蘇生も行っていないため、脈と呼吸が確認されたか、生体反応が現れたと思われる)

82秒 女性CとDが、土俵から降りる

117秒 「救急車呼びました」

145秒 救急隊員が瞳孔を確認している。(この時点では意識がなかったと思われる)

161秒 担架に乗せる

172秒 救命バッグ撤収

186秒 担架で市長を搬送。胸骨圧迫、人工呼吸は行わず

女性たちがあたった蘇生の様子について、大房さんはこう解説する。

「関係者が取り囲みながらも何もできずにいたところ(中心となって蘇生に当たった)女性Aが土俵に上がり、すぐに状況を把握し救命処置を行っています。たぶん、市長の意識はなく、呼吸は確認できなかったか、あっても死戦期呼吸(あえぎ呼吸)だったのではないでしょうか」

「胸骨圧迫のスキル、周りへの指示の的確さから、相当トレーニングを積んだ方であると思われます。胸骨圧迫の早さや強さは完ぺきで、救急蘇生のスペシャリストと考えられます」

「特記すべきは隣の人に時間確認の指示を出している様子がうががえること。確認したのは、心肺蘇生の開始された時間だと思います。救命のポイントは心肺停止から蘇生開始までの時間にかかっています。できるだけ早い方が良いのですが、実際救命処置を行っても記録に残っていなければ、果たして正しい蘇生が行われたか、後日の検証ができません。このため、蘇生の講習会では記録を残すよう指導しています。時間確認ができるのは相当冷静に対応していたと考えられます」

「AEDが到着し、女性Bに胸骨圧迫が変わりますが、ハンズオンリーCPR(人工呼吸をしない心肺蘇生)ならび胸骨圧迫交代のタイミングも文句のつけようがありません。経過を追ってみると、心臓疾患による急変ではないのがうかがわれますが、初期対応としては完璧です」

朝日新聞デジタルによると、実行委員会が5日、心臓マッサージの中心になった女性に感謝状を贈りたいと連絡したが、「当たり前のことをしただけ。そっとしておいてほしい」と固辞したという。


2)脳神経外科医が絶賛する「土俵で救命」女性の神対応 くも膜下出血の怖さとは?〈AERA dot.〉4/6(金) 19:57配信

京都府舞鶴市で4日行われた大相撲の春巡業。土俵上で突然、倒れた同市の多々見(たたみ)良三市長(67)に心臓マッサージをしていた女性に対し、若手行司が「土俵から降りてください」とアナウンスし、その後、大量の塩をまくなどの対応が痛烈な批判をあびている。

朝日新聞デジタルによると、土俵に駆け上がった女性は看護師だった。市長はその後、病院に運ばれ、倒れた原因はくも膜下出血と判明。すでに手術を終え、一命をとりとめているという。

「女性の救命措置がなければ、亡くなっていた可能性もあります。すばらしい対応ですね」そう絶賛するのは、小倉記念病院脳卒中センター長・脳神経外科主任部長の波多野武人医師だ。

「倒れた直後は、くも膜下出血かどうかわからなかったはずです。ただ、そうであってもなくても、意識を失っていて呼吸がなく脈が触れなければ、心臓マッサージが必要になります」(波多野医師)

くも膜下出血を発症すると、約3割が死亡し、助かったとしても約3割に後遺症が残るといわれている。働き盛りの40代から発症が増えるとされ、2010年、プロ野球巨人・木村拓也コーチが試合前の練習中にくも膜下出血で倒れて亡くなったのも記憶に新しい。意識障害を起こしている患者にどう対応するかが、大きなカギとなる。

くも膜下出血を発症すると、約3割が死亡し、助かったとしても約3割に後遺症が残るといわれている。働き盛りの40代から発症が増えるとされ、2010年、プロ野球巨人・木村拓也コーチが試合前の練習中にくも膜下出血で倒れて亡くなったのも記憶に新しい。意識障害を起こしている患者にどう対応するかが、大きなカギとなる。「くも膜下出血を発症すると呼吸が停止してしまうことは頻繁にあります。時間とともに蘇生の確率が低くなってしまうので、胸骨圧迫、いわゆる心臓マッサージはとても重要です。初期救急医療をしっかり理解している、正しい措置だったと思われます」

大相撲「女人禁制」の伝統は江戸時代から続くが、即座に土俵に駆け上がった女性の「神対応」に、八角理事長(元横綱北勝海)も「人命にかかわる状況には不適切な対応でした」と謝罪。「当たり前のことをしただけ」と女性は感謝状を固辞したというが、最近の相撲協会はいろいろ「当たり前」の感覚を忘れてはいないか。(AERAdot.編集部・井上和典)




よしなに・いわての文化

2018-02-03 16:58:11 | 記録
            よしなに
 
  「アスクレピオスの杖」は、翼と蛇の巻き付いた杖の図像です。医療や医術の象徴として世界中で用いられているギリシャ神話の名医アスクレピオスが持っていたといわれている杖です。日野原重明氏が診療なさっていた聖路加国際病院には、医療の守護聖人「聖ルカ」の名と共に「アスクレピオスの杖」が中心にある病院のマークが入り口に掲げられています。初代アメリカ公使ハリスの居留地住宅が敷地内に移設されていますが、築地居留地は、福沢諭吉の菩提寺である善福寺境内にあったものが移設されたといわれていますが、居留地は、数カ所移設されて後に、現在は、聖路加国際病院の敷地内にあります。
 道を挟んで向い側には、「日本蘭学発祥の地」記念碑と「慶応義塾発祥の地」記念碑が並び立ち、この築地界隈一角は、日本の近代化の象徴となるものがあります。築地本願寺や幕末の藩邸下屋敷、泉岳寺などもあり、歴史や医療の発展の一端を知ることができます。
 また、最近、美食の聖地として脚光をあびている、スペインバスク地方のサンセバスチャンは、スペイン王妃が療養の地として選び快癒したことでも知られていますが、紀元前ローマ皇帝デミトリアヌスの親衛隊長だったセバステアヌスが善行を行い、病気平癒の聖人「聖セバステアヌス」とされた故事にちなんでいることでも知られています。
 「聖セバステアヌス」は、ペスト流行で激減した中世から近世にかけて欧州で、信奉され、ルネッサンスには、著名な画家が競って描いています。ルーブル美術館にも何点か収蔵されていますので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
 一年一回の健康診断で、思いがけない結果を突きつけられて狼狽してしまい、相談を受ける事がよくありましたが、今回は、私でした。守護聖人の方々に祈りを捧げても、検査結果は冷酷です。最終診断は、二月初めになりそうですが、十年前のようにクリアできることを念じています。

 連綿と続いて来た人間の病との格闘は、予防医学の進展や先進技術の導入、先端医療などで、成果をあげ、医療従事者は、対処療法の中から最善の方法を駆使して健康寿命を延ばしてきました。
 「人はどこからきてどこへいくのか」「人類とは?」をご研究の研究者の方々は、発掘された骨を分析し、移動の経緯や定着した人の痕跡を探しています。その途上で、病気に罹患した痕跡や激しい戦闘での無惨な死を骨格の傷に見、未知の病原菌に遭遇したと考えられる不審な痕、そして、異なった遺伝子組成の混在に遭遇することもあるようです。
 様々な情報に接することができる今日ですが、自分自身についての具体的な対処法を選択することは、大変狭い範囲の中からと言わざるを得ません。治療は、よしなに、と、お願いするより他ありません。
 果たして、「アスクレピオスの杖」は…。

        
                 正岡子規生誕150年と岩手の文物に寄せて

  秋田県秋田市雄和女米木生まれの石井露月(本名・祐治)は、子規四天王(碧梧桐、虚子、鳴雪)の一人と言われています。懸命に句作している為山の姿を繪の中央下部に描いた下村為山の描いた作品「子規庵枕頭句会図」では、子規の右手に露月、肋骨、碧梧桐、四方太、虚子、鳴雪、紅緑などが居並んでいて、医師露月と子規との絆を感じます。
 石井露月(1873年(明治6)年5月17日) - 1928(昭和3)年9月18日)についての資料は、秋田市中通のあきた文学資料館の「明治150年 正岡子規と秋田」展(2017年9月29日 〜 2018年2月28日)で、様々な資料と共に紹介されています。また、島田五空の創設した「北斗吟社」を引き継いだ「俳星」の名付け親は、正岡子規(1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902〈明治35〉年 9月19日)です。「…秋田」展には、子規直筆の句稿や「新年句集」なども展示されています。「新年句集」は、1899(明治32)年1月8日東京根岸の子規庵で開かれた新年句会の句をまとめたものです。
 石井露月の資料は、故郷の雄和の「露月山盧」に保管されていて見学することが出来ます。露月は、雄和の人々に愛され、秋田県の俳句に大きな影響を与えています。秋田の人々は、俳句結社に集って句作を続けると共に、秋田県俳句懇話会という結社を越えた集合体を結成しています。露月は、そうした活動を促す力になっていると思われます。
 
 [子規ライン・子規古道「はてしらずの道」]
 正岡子規が西和賀町の湯本温泉を訪れたのは、1893(明治26)年夏の7月19日から8月20日までの約1ヶ月間、芭蕉の足跡を訪ねて東北地方を旅し、「はて知らずの記」を著しました。子規が、松尾芭蕉の足跡をたどる東北旅行の最終盤に、現在「子規古道」と言われている、秋田県六郷町(現・美郷町)から岩手県境の黒森峠を越え、ここ岩手県和賀郡西和賀町の湯本温泉にたどりついた時は、27歳でした。子規は
「山の温泉(ゆ)や裸の上の天の河」(湯本温泉句碑公園) 「秋風や人あらわなる山の宿」(JR北上線ほっとゆだ駅前)「蜩や夕日の里は見えながら」(下前地区県道12号線沿い)などの句を詠みました。-()内は句碑建立地- 
 子規は、湯本温泉に投宿した翌朝人力車に乗って和賀川に沿って下っていますが、「はてしらずの記」にその道中について、次のような一節が記されています。「ここより杉名畑に至る六・七里の間、山迫り河急に樹緑にして水青し、風光絶佳掏すべく誠に近国無比の勝地なり」と
。東京に戻った子規は、編集責任者を務める新聞「小日本」に西和賀町を舞台にした小説『一日物語』を発表しました。 
 西和賀町の欧風せんべい「一日物語」は、地元の湯田牛乳を使って、毎日1枚1枚手作りしているラング・ド・シャ風の薄型クッキーで、さくさくとした爽やかな味わいです。

子規のたどった道は、現在は湯田ダムの湖底に姿を消しましたが、錦秋湖に沿ってつくられた国道107号線の一部が、「子規ライン」と名づけられ秋田と岩手を繋いでいます。  
 岩手県西和賀町・湯田などと秋田県横手市・美郷町を結ぶ道は、古今を通じて重要な役割を担ってきました。白木峠、黒森峠、笹峠などを通る峠道は、人や文物の行き交う文明や文化が交流する遊歩道ともなり、人々の暮らしの生命線ともなっていくのですが、その経過を辿って行きましょう。

 [塩の道と牧畜]
  種々のミネラル成分が含まれている塩は,地球の生物が生きて行く上で必須のものです。生命を支える塩を私たちは、食物や調理した食品から摂取するなどの方法でとっています
 約40億年前、生命が誕生した地球は、塩水に満たされていましたので、多細胞生物も体内の細胞を「体の中の海」で囲み、陸上に上がった後も、その仕組みを引き継いでいるため、その体液という海を維持する塩が必要なのです。
 周りを海で囲まれていて、岩塩や地塩に恵まれない日本は、モンスーン気候のため塩田での製塩に適地ではありません。それでも沿岸地域の海水による製塩は盛んに行われていました。少なからず困難な作業を求められる製塩は、命を繋ぐだけではなく交易品としても大切な資源でした。
 
国際バレエコンクールが開催されることで知られるブルガリアの黒海沿岸の町ヴァルナで、1972年、約300基もの墓が偶然発見され、6kgにもおよぶ金製品が出土しました。そして、これらの金製品は6000年以上前の銅石器時代に加工された世界最古の金だったことが分かりました。この地には、岩塩鉱床があり、地の利を得て塩の交易で栄えたようです。勿論、金鉱床もあります。
 ギリシャ神話のアルゴ舟でコルキスに渡り「金の羊毛」を持ち帰ったイアソンの物語りが絵空事ではなかったのです。日本では、金粉をそば粉で集めると言われているように、欧州では,羊毛で集めると言われています。今も、最高の格式として「金の羊毛勲章」を授与された「金の羊毛騎士団」が存在することも、歴史の重みを物語ります。北方ルネサンスの拠点を築いたブルゴーニュのフィリップ善良公により創設されたこの騎士団の名称は、古代ギリシャ神話でイアソンが金の羊毛を見つけに世界を回る冒険譚に由来します。それと同時に、欧州で最先進の毛織物工業地帯を抱えた公国にとって「黄金をうみだす羊毛」という意味も込められていました。それにしても。ヴァルナに黄金をもたらしたものはなんだったのでしょうか。
 その答えは、2012年11月1日に発掘された、欧州最古とみられる先史時代の「町」の跡と、塩の生産設備でした。当時、塩は希少品だったので、発掘にあたった考古学者らはバルナにある古代墓地で大量の金の装飾品が見つかる理由がこれで解明できると期待しました。
「町」が発掘されたのは、バルナ郊外の町プロバディヤ近郊にあるプロバディヤ・サルニツァタ遺跡です。2005年から続けられてきた発掘調査で、2階建て住宅や墓地、儀式に使われたとみられる多数の穴、門の一部、要塞らしき建造物や防壁が発見されました。炭素年代測定で、全て紀元前4700~4200年の「金石併用時代」中期~後期のものであることが分かったのです。

  ブルガリア国立考古学研究所の考古学チームは、墓地に埋葬されていた人骨の姿勢や出土した埋葬品がいずれも、ブルガリアで過去に見つかった新石器時代のものとは大きく異なっていますし、「町」を取り囲む石造りの巨大な防壁も、これまで南東欧で見つかった先史時代の遺跡には見られなかったものでしたので、「大変興味深い発見だ」と説明しています。
 およそ人口350人ほどだったこの集落は防壁でしっかりと守られ、宗教の中心地だったと考えられます。そして、広く交易に使われていた最も重要な物資の塩を特産品としていたことが分かり、研究チームは、欧州で知られている中で最古の「先史時代の町」と呼ぶのにふさわしい全ての条件を備えていると結論付けました。
 ヴァルナには紀元前4300年ごろのネクロポリス(古代文明の集団墓地)があり、世界最古とされる黄金の装飾品が多数発掘されています。しかし、農業や牧畜が中心で資源も少ないこの地域に、なぜこれほどの富が集中したのかは謎でした。研究チームでは、塩の交易こそが富をもたらしたのではないかと考えています。

 いわての牧畜は、現在も盛んに行われていますが、放牧時の必携品の塩袋の紹介や最新の研究で塩生植物を好んで食べるラクダやトナカイ、飼料用の畜産固形塩などと共に収量増が報告されている農産品のあることが分かってきていますので、農地に塩を播いて収量増を目指したり、塩害の時に栽培作物を換える選択も可能になっています。
 いわての塩の歴史は、三陸沿岸の製塩が大きな特徴です。寒冷地の住民にとって塩は生活必需品であると共に、非効率な自煮製塩を続けたのは貴重な交易物資だったからでしょう。三陸沿岸は、リアス式海岸で豊かな樹木が海岸まで迫り、砂鉄鉱山が多く自煮製塩のための鉄釜が入手しやすかったことが幸いしました。農業生産物が乏しく、海産物が豊富な三陸沿岸では、塩やあわびなどの海産物を峠越えで運び米や穀物と交換することが必要でした。重い物資を運ぶには、牛が適していました。勿論、馬も運搬手段には必要でした。岩手には、今も、沢山の牧場があり、馬、牛,羊などを飼育していますし、観光牧場でのふれあいを楽しむこともできます。

 古代の製塩には、製塩土器が使われていますが、全国でも有数の砂鉄産地のいわてでは、800年ごろから製鉄が行われ、1700年ごろには鉄釜が盛んに使われるようになって製塩は飛躍的に発展しました。いわての製鉄については、日本初の橋野高炉の紹介も含めて、釜石市立鉄の歴史館で、その足跡を辿ることができます。

 製鉄が盛んになったころに、阿弖流為の活躍があったことも象徴的なできごとです。京都の清水寺の境内に阿弖流為と母礼の供養碑が建てられていますが、坂上田村麻呂と阿弖流為との経緯とガリア戦でのカエサルとウイルキンゲトリクスの経緯の類似が時代の違いがありながら、人のこころがかわらないことや当事者同士の心の通い合いがありながら、戦時の周囲の人々との感情の乖離が思わぬ結果をもたらすことを思わずにはいられません

  さて、北上山地を越えて、三陸沿岸から内陸への塩の道は, 釜石から遠野を経由して岩屋堂、北上、花巻方面へ、宮古からは盛岡方面へ、野田からは盛岡方面だけでなく、秋田県鹿角方面にまで運ばれて、穀物などの生活物資と交換されました。野田村の塩は、牛の背に付けて運ばれ「野田ベコ」と呼ばれるほどで、塩行商の総称になるほどでした。薬の行商が、「富山の薬屋さん」と言われていたように…。

 塩の交易だけでなく、江戸時代に九戸で製鉄が盛んになるとより重い鉄を運ぶことが必要になり、持久力のある牛が荷駄運搬用に求められ、牛飼牛方が必要になりました。牛は、野宿ができ、道端の草を食べるなど、馬に比べて利点が多く、冬を除いて運搬途中の餌に困ることはないことも幸いでした。

 早くからエコロジー対応の施策を進め「北緯40度 ミルクとワインとクリーンエネルギーの町」をキャチフレーズにしている葛巻町を訪れると、奥羽山地沿いの道際の峠の入り口に「塩の道」の表示板を見かけることが多いです。
 「塩の道」は、生活保全のために自然にできた道ですが、三陸沿岸の海水を集め煮詰めて塩を作るには、大変な労働と沢山の時間を掛かけています。その貴重な塩を運ぶための苦労も大変なものだったことが推察されます。塩を運ぶための道は,道沿いに住む人々にも少なからず恩恵をもたらしました。他の地域の文化や文明に触れる機会を得られたからです。古への文明の道「シルクロード」は、新奇な文物や服飾、調度、教典、文房四寶、絵画、陶磁器などの贅沢品が交易品としてもたらされました。「塩の道」は、生活必需品を交換するための庶民のための道ですが、生活文化の最新情報をもたらす重要な伝達手段という機能を果たしていました

  製塩は、専売制を経て自由化されましたので、古来のNaclだけでない、Ca,K,Mg,Fe,Znなどの専売制の時には、夾雑物として排除されていたものが、製塩地の個性を豊かにするものとして認められるようになり、そうした塩が特産品として販売できるようになりました。特に、洋野町の「ほや塩」は、ホヤをさばいた時にホヤからでてくる海水を煮詰めて精製した塩で、「種市ふるさと物産館」で販売しています。ほんのりホヤの香りがする逸品ですが、品薄とのことです。

 [黄金の道 秀衡街道]・[金沢柵・金沢城]
 横手市街北部には、金沢柵・金沢城、大鳥井山遺跡、陣館遺跡、沼柵・沼館城などの遺跡群があり、後三年合戦後の平泉の藤原氏の興隆に繋がります。黄金の道・秀衡街道の終着点平泉に至る道筋には、鷲之巣金山、水沢鉱山、綱取鉱山、大荒沢銅山などが連なっています。北上川沿いでは土金の採取も行われ平泉文化を支え、大陸からの文物を受け入れる原資にもなったようです。

 平安時代末の平泉藤原三代秀衡と黄金文化にちなんで名づけられた「秀衡街道」は、岩手県北上市から西和賀町を経て、秋田県横手市まで数十kmにわたって今に息づいていますが、奥羽山脈のほぼ中央部を、北上川支流の和賀川と雄物川支流の横手川が浸食した、その山あいの横断谷を縫うように結ばれています。

 [まとめ]
 多くの先達を輩出している岩手県は、地理的な要因を活かして必要と思われることに率先して取り組み、時代の先端をいく清新な風を巻き起こしてきました。合理的な決断と困難な状況を克服する強い意思を感じます。
 東北地方では、最北の古墳文化が花咲いていますが、JR北上線江釣子駅の江釣子古墳から出土のは蕨手刀は日本最多です。砂鉄製鉄が盛んだったことが分かります。2013(平成25)年北上市北鬼柳の八幡遺跡からは馬の絵が描かれた土器が出土していますから、馬牧も盛んだったと思われます。中央政府の馬への規制は厳しく,787(延暦6)年狄馬の交易禁止、815(弘仁6)年奥羽両国の馬の私的交易の禁止「日本後紀」「三大格」、861(貞観3)年軍用に耐える馬は牡牝を問わず陸奥国外に出すことを禁止「三大格」の禁令に加えて、901(延喜1)年-金、鷹、馬が北奥で交易されている。「管家後集」、のような重要情報が記録されています。
 古代の優れた文物や不屈の精神に引かれて、芭蕉や子規が訪れたと思われるいわての地は、限りない可能性を秘めています。