ユングとスピリチュアル

ユング心理学について。

ユング心理学研究会

2024-01-02 15:58:50 | スピリチュアル・精神世界



年を跨いで遅くなりましたが、ユングスタディ報告です。
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12月7日【第10回】
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 今回からは、ユング「チベットの大いなる解脱の書」をテキストに読み進めていきます。
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 ユング「チベットの大いなる解脱の書」(1939年)
  邦訳:湯浅泰雄・黒木幹雄訳『東洋的瞑想の心理学』(創元社)所収
     1983.11(第一版)、2019.1(新装版)
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 「チベットの大いなる解脱の書」はチベット密教の経典で、「チベット死者の書」と同じく、エヴァンス=ヴェンツの英訳によって西洋に知らされました。1939年に英訳が刊行された際に、訳者の依頼によって書かれた心理学的注解が今回のテキストです。このユングのテキストは2部構成で、前半は「東洋と西洋の思考様式の違い」と題された論考、後半は経典の内容に対する注解になっています。
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 ユングは今回のテキストを、東洋と西洋とでの「心」概念の違いについて注意を促すところから始めます。西洋近代において誕生した「心理学」なるものを、西洋とはメンタリティの異なる東洋の「心」の理解に無批判に適用してよいのか、という問題です。
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 このユングの問題提起を理解するにあたっては、改めて西洋思想史を参照してみる必要があります。西洋思想では人間の認識能力を、伝統的に「知性・理性・感性」の三つに区分けして考えてきました。このうち、人間を超えるものを直観してそれと繋がる能力とされる知性が、長らく最高次の能力とされていました。知性の働きに基づいて、感覚や知覚に捉えられる世界を超えた超越的存在や、自然全体の本性や本質を問う「形而上学」こそが、近代までは西洋思想の本流でした。

 しかしカントの批判哲学に至り、「知性」による直観、形而上学的主張は単なる主観的な独断ではないかと疑われ、推論を重ねて事象の洞察に至る論理的能力である理性こそが、最も最上の能力とされるに至りました。このカントにおける哲学の転換以降、知性は感性の素材を一通りの認識としてまとめ上げるだけの機能という位置付けに変わり、日本語の訳語でも「知性」は「悟性」と当てられるようになります。

 さらにカントは、理性の認識における限界をも示し、理性の理解の外にあるものについては何も語り得ないとしています。理性の限界を超えたものについて語ると、そこには主観的な投影が働くので、独断的にならざるを得ないわけです。ユングは批判哲学を「現代心理学の母」と位置付けますが、心理学は、理性の外にある形而上的主張が正しいか誤っているかを検証する手段を持たず、ただそれを「一つの主張にすぎない」とみなすだけです。
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 しかしユングによれば、この批判哲学を経ても、西洋で知性優位の立場が完全に捨て去られることはなく、それゆえに、科学(理性重視)と宗教(知性重視)との争いという新たな西洋の病が生まれます。さらには「裏返しの形而上学」である唯物論も登場します。唯物論者は、人間が認識できる範疇を超えた先に「物質」が存在すると断じているわけで、実のところ、唯物論は形を変えた形而上学にすぎないことになります。
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 こうした経緯をもって、現代の西洋人における「心」は、ただ単に主観的な心理的機能を意味し、宇宙との根源的な結びつきから引き離された個人的存在になっています。ユングは西洋におけるこの状況について、「心というものが生み出した事物や諸存在が生きて動いていたあの不思議な世界に別れを告げたときに、われわれは何かあるものを失ってしまった」、「物体のもつそういう能力がわれわれ自身の側に属するものであり、それらの意味はわれわれの側から投影したものである、ということを理解しなければならなかった」、「近代認識論は、人類の少年時代を抜け出した最後のステップにすぎなかった」と述べていきます。
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 この西洋の状況と対照する形で、ユングは東洋の伝統文化について、西洋の心理学にあたるようなものを持たず、形而上学だけを生み出してきたとします。東洋における「心」は、いまだ宇宙的なものであり、存在一般の本質として普遍性を持つものです。また西洋の伝統では、人間は神に比べてあくまでも小さい存在で、神の恩寵によってのみ救われうる非力なものですが、東洋では人間自身が本来的に神であって、自らを救済することができるとされています。
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 つまるところ、神的なものとの繋がり、あるいは救済のための力を、自らの心の内に認めることが困難であるのが現代西洋人のメンタリティであるということになります。ユングは自身の分析経験を通して、人間の心の奥底にあるそうした力に気づきましたが、この自身の体験と同じものを東洋思想の中に認めているわけです。(ところで現代の日本人は、ここでユングが描く東洋的伝統に属しているでしょうか。それとも、ここに描かれている西洋人の姿に近いでしょうか?)
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 ユングは続けて、「人間は、心に内在する諸傾向の限界を越えて認識することはできない」、そのために「世界の外見や現象形態が、自身の心の状態に大きく左右されている」とします。これまで繰り返し見てきたように、私たちの無意識が外界に投影されることで、私たちの見る世界の姿が形作られています。これは人間が外界を直接には知り得ないがゆえに行われる投影なのです。
 何ものも心的イメージとして現れないかぎり、私たちには知られえない。ゆえに心的存在こそが、われわれが直接に知っている存在の唯一のカテゴリーです。そしてこの心的存在の中にこそ、私たちの「心に内在する諸傾向」、すなわちユングの言う元型の形式が投影されていることになります。
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 図は、高橋澪子 『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 (講談社学術文庫、2016.9)からの引用で、図2のほうには一部こちらで補足の書き込みを加えています。
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 西洋での伝統的な人間理解は、「霊・魂・体」の三分法によるものと、「心・体」の二分法によるものとがあります。二分法はアリストテレスに由来しますが、近代までの主たる理解の方法は、キリスト教も採用している三分法の方でした。これは、人間の心の働きを、精神的で神聖な「霊」的なるものと、身体と結びついた俗なる「魂」的なるものとで分ける考え方です。
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 しかし16世紀半ばのデカルトの登場により、「心・体」の二分法が広く採用され、学問としては体(物質)を扱う自然科学と、心を扱う意識の科学に分岐することになります。意識の科学は現代心理学の源流であり、ロックなどのイギリス経験論からカントを経て、内観の心理学へと受け継がれ、実験心理学の始まりとされる1879年のヴントによる心理学研究室の設立に至ります。

 しかしこの後、内観の心理学は科学たり得ないとして、1930年台後半に心理学における行動主義革命が起きます。「心」という曖昧な概念を捨て、客観的に観察可能な行動の束のみを取り扱う行動科学は、自然科学の流れに合流していきますが、心を心として取り扱う流れも、臨床心理学などの中に受け継がれていくことになります。

 ちなみに、フロイトの精神分析もユングの分析心理学も、ヴントによる心理学研究室設立と行動主義革命の間となる、心理学史の上での特異な期間に形成されてきました。このことの意味は小さくないかもしれません。
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 つまるところ、現代心理学のパラダイムは「心・体」の二分法にあることになります。伝統的な三分法の立場から見れば、二分法は心の中で区別すべき要素を一緒にしているか、霊なり魂なりの何らかの要素を切り捨てているかに見えるでしょう。現代心理学における「心」が、単なる心理的機能になっている、というユングの指摘は、こうした心理学史の流れの中でも捉えることができます。

 ユングの思想は、基本、三分法に近い立場であって、その意味では現代心理学とはパラダイムを異にしていると言っていいかもしれません。他方、同じ三分法を共有するキリスト教や西洋錬金術などとは親和性があり、それがユングの後期研究の基盤ともなるわけです。



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