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斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

17 【ラーメン】

2017年01月16日 | 言葉
 「日式拉麺」
 日本を代表する国民食になったラーメン。来日する中国人観光客からでさえ「代表的な日本食」の評価を得るようになった。彼らは日本で食べるラーメンを日本式ラーメン、縮めて「日式拉麺」と呼ぶ。だが、待てよ。ラーメンには「中華そば」という呼び方があり、中華料理店の代表的メニューである。ならば「日本食」でなくて「中華食」ではないのか。ラーメンの起源は中国なのか、日本にあるのか。罪のない論議ながらケンケンゴウゴウ、カンカンガクガクと、カマビスしい。
 
 そもそも「麺」の意味は?
 コトノハに関する小文だから、言葉から入りたい。悩ましいのは「麺」の字だ。麺好きの筆者も若い頃から、つまり麺という漢字を知った頃から、なぜ「麺」という字なのかと疑問を抱き続けてきた。小麦粉が材料だから左半分の偏(へん)は「麦」で良いとして、右半分の旁(つくり)が「面」であるのはなぜか。これだと平面の形状、つまり餃子の皮のようなモノを連想してしまう。ずっと後になってから「拉麺」という表記があり、ラーメンの場合は「拉致(らち)」の「拉」の字を加え、引っ張って細長く延ばしたものだと知った。
 ところが、である。「拉」の漢字には「引っ張る」のほかに「砕く」や「押しつぶす」の意味もある(大修館書店『漢語林』)。小麦粉に水を加えて練った塊を平面状に押しつぶしたものも「拉麺」だとすれば、中国では「麺」が日本で言うところの麺ではなく、餃子やワンタンの皮のような、具材を包む平べったいものを指すとも考えられる。ここに至って「漢字の国であり食の国でもある中国で、日本語の麺のように1字だけで表記する漢字がないのは、不自然ではないか。中国にラーメンのような麺料理は存在したのか?」と思うようになった。同じような疑問を持ち続けてきた人も多いのではないか。
 疑問が解けたのは、ずっと後になってからのこと。中国・後漢時代の西暦100年頃に成立したと伝えられる漢字辞典『説文解字(せつもんかいじ)』によると、「麺」の正字である「麪」は小麦粉を指したという。そこで日本の漢和辞典である『漢語林』を調べると、「麪」の旁の「丏(めん)」は「連綿としてつながる」という場合の「綿」に通じ、ゆえに「麪」には「練って糸状に連なる小麦粉」という意味もあるという。「連綿」は木綿糸のように長く続くこと、つまり細長い麺の意味に重なる。疑問氷解。正字の「麪」が簡易体の「麺」にならなければ、紛らわしさや誤解は生じなかったかもしれない。中国・宋の時代には広く「麪(ミエン)」の字が使われ、街には麺料理店が多かったようだ。
 現代の中国でも「麺」は小麦粉を指し、小麦粉料理全般の意味もある。ラーメンの表記は「拉麺」より「麺条(ミンティアオ)」とされることが多く、餃子の皮のような平面的な形のものは「麺包(ミェンパオ)」と呼ばれ区別されている。「条」は「細い筋になって見えるもの」の意味。やはり「拉麺」の字には中国でも違和感を覚える人が多いのだろうか。

 ラーメンの条件
 ラーメンのルーツに諸説が生じる背景に、ラーメンの定義が明確でないことが挙げられるかもしれない。①スープ麺であること②かん水(鹹水、梘水)麺であること――が最低限の条件だろう。スープ麺とは、麺がスープの器に浸った状態の麺類。中国では「湯麺(タンミエン)」と呼ばれる。かん水は、小麦粉に混ぜて練り、麺に独特のコシと歯ごたえを出すアルカリ性塩水溶液のことで、中華麺が薄黄色なのは、かん水を加えているため。うどんにも「かけうどん」のようにスープ麺の伝統があるが、かん水処理がされていないからラーメンのカテゴリーには入らない。
 文化人類学者の石毛直道さんはネット上で公開している『石毛直道食文化アーカイブス』で、世界の製麺技術を5系列に分け、現在のラーメンに連なるのは新疆ウイグル自治区やモンゴルに残る「手延べラーメン系列」だと紹介している。中国辺境の地が麺の発祥地である理由は、自然条件の厳しさゆえに米作が不可能で、そのぶん麦作が盛んだったから。かん水も天然のソーダ水として中国北部で豊富に産出する。この製法の麺が山東省や山西省、陜西省に伝わった。現在、中国東北部のラーメンは麺が太くてスープは濃い醤油ベース、主食代わりなのでボリュームがあり、逆に南部では麺が細くて塩味スープ、おかず代わりなので少量であるという。

 日本のラーメン文化の発祥は横浜中華街と浅草
 ラーメンの発祥地がウイグル民族やモンゴル民族の住む中国辺境であることは分かった。一方、日本のラーメン発祥地は横浜中華街と浅草である。これより先に水戸黄門が食べたという説があるが、その後の水戸や江戸ではラーメンが根づかなかったから発祥の地とは言い難い。
 小菅桂子さんの著『にっぽんラーメン物語』(駸々堂出版)によれば、横浜中華街でラーメンが人気を博し始めたのは明治30年代後半から40年代初めにかけてのこと。明治43年開業の浅草「来々軒」も「支那そば」とワンタンを目玉メニューに、当時東京一の繁華街だった浅草六区の客たちに広まった。ちなみに天津丼は来々軒が発祥の創作料理というから、天津ラーメンも日本で考案された可能性が高い。
 ラーメンが「支那そば」と愛称された理由は、具材が中華料理の焼豚やシナチク(メンマ)だったため。日本仕込みの醤油やナルトの使用など“日本流”にアレンジされてはいたが、「支那ふう」「中華ふう」は客を引き付けるキャッチフレーズとして効果的だった。ある意味でコトノハのトリックだろう。名称は「南京そば」から「支那そば」、「中華そば」、「ラーメン」の順に変遷した。岡田哲さんは『ラーメンの誕生』(ちくま新書)の中で、昭和25年刊の『西洋料理と中華料理』(主婦と生活社)で使われたのが「ラーメン」という語の初見であると説明している。
 
 我がラーメン
 終戦の余燼(よじん)が消え残る昭和20年代の終わり、1杯30円のラーメンは醤油味オンリーながら、子供たちにとって年に1、2度しか食べられない外食のご馳走だった。高度経済成長期を経て子供の外食人気ナンバーワンは「お子さまランチ」などのハンバーグ系に変わったが、当時を知る団塊世代にはラーメンに特別の思い入れのようなものがある。昭和33年に即席麺が登場し、40年代になると東京で味噌ラーメンがブームになった。現在はかくの如くラーメンの種類と特徴は多様さを極める。現在ほど、この料理が歓迎されている時代はなかっただろう。発祥の地がどこであれ、ラーメン文化が花開いた国は日本である。
 蛇足ながら皆さんは、どのラーメンが好きだろうか。辛味好みの筆者は坦々麺のような濃い味系も注文するが、いちばん好きなのは、あっさり系の醤油ラーメンである。麺のゆで方からスープの仕上がり具合まで、濃い味系では隠れて見えにくい店の実力が、あっさり系だとよく分かる。

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