すばらしき妄想ライフ

TOA烈風のシンク大好きなオタクの日記
・・・だと思う・・ョ、うん。
っきっとそうだ・・・ょね?

前日

2007-02-25 18:39:36 | Weblog
今さっき思い出した!!!
アタシ明日誕生日やん!!!!!
ものっそ忘れとったよ!アタシ!
親に
「伊達政宗山岡荘八作買って!」
ってゆったら
「それ高いから1冊だけな。」
って言われてしまった・・・・
たった777円やで?
なのに1冊だけって・・・・・。
ものっそひどない??
ああああ!!!さすけーー!!!(←只今さすけブーム中

天下人

2007-02-12 22:57:56 | Weblog
天下人の伊達BASARAまでは
いかんけど
かっくいい!!
ええなぁ
天下人!!!!!
買おうかな!!!



資料
「伊達政宗」(著者:小林清治、出版社:吉川弘文館)
「伊達政宗卿」(著者:鈴木節夫、編集:藩祖伊達政宗公三百年祭協賛会)
小説
「伊達政宗」(著者:山岡荘八)
「伊達政宗」(著者:海音寺潮五郎)
「伊達政宗」(「風雲独眼竜」)(著者:井口朝生)
「伊達政宗」(著者:永岡慶之助)
「伊達政宗」(著者:鷲尾雨工)
「圖南の豪雄 伊達政宗」(著者:菅原兵治)
「独眼龍政宗」(著者:津本陽)
「独眼竜政宗」(著者:早乙女貢)
「独眼竜 政宗」(著者:松永義弘)
「独眼竜伊達政宗」(著者:西野辰吉)
「独眼龍伊達政宗」(著者:水野泰治)
「戦う政宗」(著者:星亮一)
「竜の見た夢」(著者:羽太雄平)
「独眼竜の涙」(著者:赤木駿介)
「政宗の娘」(著者:岩城希伊子)
「伊達政宗とその武将たち」(著者:飯田勝彦)
短編小説
「奥羽の二人」(著者:松本清張)
「馬上少年過ぐ」(著者:司馬遼太郎)
「武家盛衰記 伊達陸奥守政宗」(著者:南條範夫)
読本系小説
「伊達政宗 物語と史蹟をたずねて」(著者:竹内勇太郎)
「秀吉・家康を翻弄した男 伊達政宗」(著者:長谷川つとむ)
「伊達政宗―知られざる実像」(「史伝 伊達政宗」)(著者:小和田哲男)
if小説
「伊達政宗の大長征」(著者:志茂田景樹)
「政宗の天下」(著者:中津文彦)
子供向け伝記
「戦国をかける独眼竜 伊達政宗」(著者:浜野卓也)
「嵐の中の日本人 シリーズ14 伊達政宗」(著者:松永義弘)
「伊達政宗読本」(著者:伊達政宗読本編集委員会)
絵本
「みちのく政宗公絵巻」(編:支倉出版編集部)
マンガ
「伊達政宗」(原作:山岡荘八、著者:横山光輝)
「戦国武将烈伝 伊達政宗」(著者:永井豪&ダイナミックプロ)


あと
俺は決めた!!!
↑全部買ってやる!!!!!
揃えてやる!!!!!!!!
読んでやる!!!!!!!!

長曾我部 元親

2007-02-12 22:37:46 | Weblog
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか、天文8年(1539年) - 慶長4年5月19日(1599年7月11日)は、戦国時代、安土桃山時代の戦国大名。土佐(現在の高知県)の長宗我部氏21代当主。長宗我部国親の嫡男、母は美濃の斎藤氏の娘で、自らの正室も斎藤氏から迎える。幼名は弥三郎、法名雪蹊恕三、官位は宮内少輔、土佐守。兄弟は吉良親貞、香宗我部親泰、島弥九郎親益。子に信親、親和(香川五郎次郎)、親忠(津野孫次郎)、盛親、右近大夫、康豊(吉田氏)がいる。

幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱とも評される性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝わる。後に土佐一国を統一する大名に成長し、鬼若子や土佐の出来人と呼ばれたが、信長からは鳥なき島の蝙蝠[カワホリ]と揶揄された。


時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文8年(1539年)
死没 慶長4年5月19日(1599年9月12日)
別名 雪蹊恕三大禅定門、羽柴土佐侍従、
土佐の出来人、鬼若子、鳥なき島の蝙蝠
戒名 雪渓如三大居士
官位 宮内少輔、土佐守、侍従
氏族 秦氏
父母 父:長宗我部国親、母:祥鳳
兄弟 弟:吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部親益
妻 正室:斎藤利三の妹(菜々)
子 長宗我部信親、香川親和、津野親忠、
長宗我部盛親、長宗我部右近大夫、長宗我部康豊


生涯

[編集] 家督相続から土佐統一
長宗我部家の嫡子として岡豊城に生まれる。永禄3年(1560年)5月、土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて初陣。遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を邀撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。同年6月、父の国親が急死すると、22歳で家督を相続した。

元親は一領具足により兵を動員して勢力拡大に励む。土佐国司で幡田郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名土佐一条氏と共同し、永禄5年(1562年)にも朝倉城攻めを行う。翌永禄6年には美濃斉藤氏から室を迎え、この年には弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、弟の親泰は香宗香部氏を継いでおり、東土佐の安芸郡を支配する安芸氏とも対抗。

永禄11年(1568年)には宿敵の本山氏、翌永禄11年には安芸氏、元亀2年(1571年)には一条氏の家臣津野氏をそれぞれ滅ぼし、天正2年(1574年)には一条氏の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧した。翌年、兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、一時、窮地に追い込まれたが弟の吉良親貞の尽力のもと、渡川の戦い(四万十川の戦い)でこれを撃破し、土佐を完全に統一した。


[編集] 四国統一
その後、中央で統一事業を進めていた織田信長と同盟を結び、伊予国(愛媛県)や讃岐国(香川県)、阿波国(徳島県)へ侵攻していく。

その統一事業には紆余曲折があり困難を極めたが、その頃の四国の情勢が、畿内の権力抗争に派兵を重ね疲弊しきった阿波、反三好派と親三好派の摩擦が大きくなり基盤が崩壊しつつあった讃岐、河野氏を中心に多豪族間・国人領主間の抗争の絶えない伊予…という具合にそれぞれが統一感の無い状態であった事が幸いした。つまりその不安定さ故に、複数の権力者相手に右往左往していた各地の豪族たちを外交と謀略によって組み込み、その主家を内部崩壊(または降伏)へと導く、といった手段が容易に功を奏したのである。また、畿内で版図を拡大していた織田信長とも誼を通じ、その勢力は着々と四国全土に及んでいった。

しかし信長はこの動きを良しとせず、1582年に盟約を反古し、四国征伐を決意する。しかし同年、本能寺の変が起こり横死、四国征伐軍も解体する。元親はその機に乗じて再び勢力拡大に着手。旧織田家家臣の柴田勝家や、有力大名の徳川家康らとも結んで信長の実権を継いだ羽柴秀吉に対抗しつつ、宿敵であった十河存保を中富川合戦で撃破し阿讃の覇権を掌握。1585年には伊予を制圧、伊予西部に残存勢力を残しつつも四国全土をほぼ統一することに成功した。だがその頃秀吉の覇権は確固たるものになっており、四国征伐の準備も整っていた。統一から秀吉との戦いまでには数週間ほどの時間しか残されていなかった。


[編集] 四国征伐
同年、豊臣秀吉の四国征伐が行われ10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿讃伊の海岸線沿いに防備を固め抵抗する。秀吉は宇喜多秀家率いる軍勢を讃岐へ、小早川隆景、吉川元長率いる軍勢を東予へ、羽柴秀長、秀次率いる軍勢を阿波へと同時に派遣し、土佐方の城を相次いで落城させていく。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣、谷忠澄の言を入れ降伏。長宗我部家は阿波、讃岐、伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵される。


[編集] 豊臣政権
翌1586年には秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、大友氏の救援に向かう。しかし、12月、豊後戸次川の戦いで四国勢の大将仙石秀久は元親や十河存保らの言を容れず島津勢の策にはまり敗走。このときの乱戦において信親は討死してしまう。信親の死が元親に与えた影響は大きく、人が変わったように以後多くの行動で精彩を欠き、将来における長宗我部家滅亡の遠因をばらまいた。1588年には本拠を大高坂城へ移転、その後に起こった家督継承問題では次男親和、三男親忠を差し置いて四男盛親に家督を譲ることを決定する。その際、反対があったが、比江山親興、吉良親実らに死を命じるなど内部粛清を行い、盛親への家督相続を強行している。

1590年の小田原征伐では水軍を率いて参加。1591年1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋もの鯨を数十隻の船団と百人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転。1592年からは秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。 1596年にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定。1599年、秀吉の死去により政情が不安定になるという大事の中で、病のために伏見屋敷にて死去、享年61。法号は雪渓如三大禅定門。

墓所
墓所は高知県高知市に伝わるが、急峻な丘の斜面にあって周囲山林の手入れが行き届いておらず、崩壊の危機に直面している。


[編集] 関連項目
長宗我部氏
一領具足
雪蹊寺
内記黒
秦河勝

[編集] 参考文献
司馬遼太郎 『夏草の賦』(1968年、文藝春秋)(2005年、文春文庫[新装版])(上) ISBN 4167663198 (下) ISBN 4167663201
山本大『長宗我部元親』(1987年、吉川弘文館) ISBN 4642051031
山本大編『長宗我部元親のすべて』(1989年、新人物往来社) ISBN 4404016247
徳永真一郎『長宗我部元親』(1992年、光文社光文社文庫) ISBN 4334714625
『歴史群像シリーズ29 長宗我部元親』(1992年、学研) 共通雑誌コード 1069610311202
荒川法勝『長宗我部元親』(1995年、PHP研究所PHP文庫) ISBN 4569568335
吉田孝世著・岩原信守校注『土佐物語』(1997年、明石書店) ISBN 4750309419
宮地佐一郎『長宗我部元親』(1997年、学陽書房人物文庫) ISBN 4313750355
泉淳『元親記』(勉誠出版日本合戦騒動叢書) ISBN 4585051066

[編集] 長宗我部氏家臣団
浜田善右衛門
浜田善左衛門
浜田久直
香川信景
金子元宅
公文重忠
桑名吉成
佐竹親直
谷忠澄
中島可之助
久武親信
久武親直
非有
吉田孝頼
吉田重俊
吉田政重

姫+@

2007-02-12 16:52:26 | Weblog
うはwwwww
eri様すいません!
元親は弥三郎であっていました!!!


あと
ついに!!!!
ザビーの固有アイテム手に入れました!!!!
うへへへへへ!!!!!
あとだいぶとうかい11人制覇!!!
只今濃姫とかずがと謙信様でがんばっております・・・。

政宗2

2007-02-05 17:19:27 | Weblog
政宗様は、毒入りの夕食を食べた後吐血して倒れたそうな。
それで
寝室に小次郎を呼び切り捨てたそうな。


血吹いたんか。うふふ・・・。

政宗

2007-02-05 17:13:47 | Weblog
(1567~1636)

『寛政重修諸家譜』によれば、伊達氏はもともと藤原氏の流れだが、文治5年(1189)、源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐したとき、藤原鎌足を初代とした17代目の朝宗(伊達氏の祖)がこれに従って戦功があり、奥州伊達郡を与えられて以後、伊達氏と名乗ったという。

朝宗より14代稙宗が陸奥国の守護となり、相馬、芦名、大崎など、近隣の諸豪族と婚姻を結び、勢力を拡大。その子15代晴宗も奥州探題に任命され、その後も、稙宗と晴宗、晴宗とその子輝宗と、親子対立の抗争にまみれながらも、一族を岩城、留守、石川、国分など、豪族の名跡を継いで拡大を重ねた。

政宗は、永禄10年(1567)8月3日、伊達輝宗の嫡子として米沢城に誕生。母は最上義光の妹。幼名は梵天丸。幼時に疱瘡にかかり、右目を失明。

天正5年(1577)、元服して藤次郎政宗と名乗り、のち政宗。朝宗から八代後、大膳大夫政宗が武名と和歌の道(文武両道)の達人であったことにあやかり、命名されたという。

ちなみに伊達政宗の異名である「独眼竜」は、中国の後唐の第一世昭宗・李克用が、片目でありながら英傑で、独眼竜と呼ばれた故事に発している。

生涯に武勇のみならず文芸の才でも注目すべき政宗の教養は、幼少時より禅僧、虎哉宗乙に師事した事が大きく、仏教、漢詩、人格形成に大きな影響を及ぼしたと見られる。

初陣は15歳、相馬氏との戦いの時と見られる。

天正12年(1584)、41歳の輝宗は18歳の政宗に家督を譲った。特に輝宗が病弱であった形跡もなく、一説に、政宗の実母最上殿が、政宗の片目とその性質をきらい、弟の小次郎に家督を継がせるべく策動していたので、輝宗が先を制して政宗を立てたともいう。

こののち、政宗は宿敵、芦名氏との対決姿勢を強めていく。

天正13年(1585)9月、岩代安達の小浜城主、大内定綱が伊達氏に叛いて、会津の葦名氏や常陸の佐竹氏と通じた。政宗がこれを攻めると、定綱は岩代の二本松城の畠山義継の元に逃れ、その城に囲われた。

政宗は二本松城を攻めようとしていたが、畠山義継は50人ほどの兵を連れ、小浜城にいた政宗にわびに来て、所領はけずられたが許された。翌日義継は、御礼と称して輝宗の陣所の宮森城(小浜城)に来た。

義継は礼を述べた帰りがけ、門まで送ってきた輝宗をとつぜん拉致し、脇差を輝宗の胸元につきつけながら、二本松に去ろうとした。

主人を人質にとられた伊達家の家来たちは手出しできず、畠山主従の一団をとり囲みながら、阿武隈河畔の高田ヶ原(高田の渡し)まで追ってきたところで、この日早朝から鷹狩りに出ていた政宗が急報を聞き、駆けつけた。

輝宗はこのとき、政宗に「義継を討て。自分にかまって伊達の恥にするな」とさけんだと言われる。政宗は家来に鉄砲の一斉射撃を命じ、義継は輝宗を刺し殺して、小高い丘に上がり切腹して果てた。残りの畠山の従者は一人残らず討ち殺され、伊達の家来たちは義継の死体を切りさいたという。

この事件の原因は、畠山方の計画的な行動だったとも、輝宗が義継を斬るという風聞があったためとも言われるが、真相はわからない。

こののち政宗は、父の仇の義継の嫡子、国王丸の二本松城を攻めるが、佐竹、芦名らは連合軍3万となり援軍に寄せたため、8千の兵をもって応戦。人取橋の戦となる。一族伊達成実の奮戦で勝利をおさめ、8ヵ月後に二本松は降伏。以後、政宗は近隣の小豪族を討ち平らげ、苛烈なほどに所領を拡大していく。

天正17年(1589)、摺上原の戦においては、磐梯山の麓で芦名、佐竹連合軍1万6千に対し、2万3千の大軍で立ち向かう裏で、芦名氏の家来、猪苗代氏の内応などもあり、圧勝の上、葦名氏を追放。居城黒川城を奪い、本拠を米沢城から黒川城(今の会津若松城)に移す。芦名義広は実家、佐竹氏に身を寄せた。

これにより政宗は奥州66郡の半分、30余郡(沿岸を除く福島、宮城両県と岩手県南部、山形県南部)を手中におさめたが、中央で天下を握っていた秀吉は、この事を叱咤。これに対して政宗は、適当な申し開きをしている。このころから秀吉をはじめ、その周辺の権力者と文通し、贈り物などしつつ中央の情報にもある程度通じていたと思われる。

政宗が実力で奥州を制覇していた時期はわずか5年ほどであり、この後、侵略や統一の戦はしていない。

政宗の家臣団は、一門、一家、準一家、一族などがあり、血縁や臣従の過程の違いにより分類される。

一門は一族衆の中でも伊達姓を許され、代表として伊達成実がいる。他に石川、留守、亘理、白石、岩城などの諸氏。一家は遠戚による譜代重臣であり、鮎貝、小梁川、石母田など。準一家は外様衆で、芦名氏や二階堂氏の旧臣、大名家などから政宗の代に臣従した氏族。一族は譜代で、大立目、遠藤、茂庭、原田などがあり、茂庭義直、綱元親子がこれである。

一族以下に宿老、着座、太刀上、召出などがあり、片倉重綱は着座であったがのちに一家に昇格。遠藤元信も商人の出身であったが、政宗はこうした低い身分からも登用したという。

天正18年、秀吉が小田原征伐を開始。かねてより文通のあった秀吉の側近前田利家や、浅野長政からも知らせもあり、また政宗の放っていた情報網からも窺い知れたに違いないが、政宗はなかなか腰を上げなかった。

理由はよくわからない。当時、四国の長宗我部氏、九州の島津氏が結局、征伐を受けるまでは従わなかったが、この心境に似たものか、中央から距離を隔てていた事に安心していただけか、城中の重臣の意見が分かれたとする説もある。

しかし、次々に入る知らせを受け、ようやく小田原参陣を決意。ここでまた事件勃発。

通説では、政宗が出発する前日、母に食事に招かれたが、政宗の膳を膳番が毒見したところ、血を吐いて倒れたという。政宗は直ちに帰って弟小次郎を呼びよせ、これを斬った。

すでに秀吉の怒りにふれた政宗を毒殺し、弟小次郎を立て、伊達家の安泰をはかろうとした母の計画で、その黒幕は、母の実家最上氏であったともいい、また一説には、母がかねがね伊達家の家督を小次郎に継がせたっており、領国を留守にするにあたって、政宗が打った大芝居だともいう。何しろこのあと、政宗の母は実家最上氏のところに去っている。

天正18年5月9日、会津を発ち、北条の領地をさけて回り道して、6月5日に小田原到着。

秀吉は面会を許さず、底倉(神奈川県箱根町)に蟄居を命じ、それまでの振る舞いについて詰問させたが、政宗は理由を申し開きし、6月9日、構築中の石垣山城に呼ばれて秀吉に面会し、領地を削られはしたものの伊達百余万石を安堵され、6月25日会津に帰国。7月、秀吉の命に従って米沢に移った。

このとき秀吉は、白衣(死装束)で現れた政宗の首を、杖で打ち、「もう少しおくれて参着したら首が危なかったものを」といったという。

また、自分の刀を政宗にもたせて伴をさせ、石垣山の頂上から小田原の布陣を説明したので、政宗は秀吉の肝の大きさに驚いた、などと伝わっているが、今さら秀吉を害せば返って伊達家の破滅は免れないので、恐らくは後世の付会であろう。

小田原城を落とした秀吉は8月9日、会津にて奥州の配置を定め、会津に蒲生氏郷を42万石で入れ、政宗は岩出山城に移った。

この際、検地や新領主らの不手際により、大崎、葛西氏の旧領を与えられた木村吉清(5千石から30万石の大名に抜擢)の所領をはじめ奥羽各地に百姓一揆が起きた。

蒲生氏郷と政宗は鎮圧を命じられ、氏郷は鎮圧に活躍したが、政宗はむしろ一揆を煽動したと言われている。

この頃、会津黒川にて92万石の大大名に一躍昇進していた蒲生氏郷は、秀吉により政宗の監視を命じられ、氏郷は政宗に謀反の疑いありと報告したとも言われ、政宗は、新任大名たちの失政を煽り、奥羽全領の支配をねらったと見なされ、秀吉から京に呼ばれて詰問を受ける。

この時、政宗が死装束に金箔の磔柱を用意して弁明につとめた話が有名だが、実際には、蒲生氏郷の突然の病死と、徳川家康や前田利家のとりなしという好材料に恵まれて無事を得たと見る方が妥当だろう。

が、政宗自身に知己が多かった事も確かで、特に和歌の教養は、秀吉主催の歌会に多く呼ばれている事からもしのばれる。他に茶道、書道、能、香道などが知られている。

文禄元年(1592)の朝鮮の役にあたり、政宗は千人の将兵を引き連れて上洛し、軍装の壮麗さで秀吉にほめられている。予備軍として肥前の名護屋城につめ、翌2年(1593)4月から8月の間は渡海。南朝鮮で戦い、9月名護屋に帰陣。

文禄4年(1595)岩出山に帰国。7月、関白秀次が秀吉のために自殺すると、政宗はこれに連座して秀吉の怒りを招き、伊予に転封させられそうになったが、家康のとりなしにより無事を得た。

関ヶ原の戦いでは家康に通じ、会津若松の上杉景勝を攻撃。戦後は千代(仙台)に城を築きはじめた。

岩出山城は居城としては手狭さで、地理も悪かったため、千代の築城では、規模や領国統治の条件を考慮し、城が完成し、千代を仙台と改めると城下町の経営に力を入れている。

仙台城は、大手門を肥前名護屋城から移し、桃山風の書院造りなどは、秀吉の好みにも似て豪華なものであったが、天下も定まり、領土拡大の不可能を見通したのか、武備としての天守、城の飾りとしての天守の趣きは感じられない。

この時期、政宗は秀吉の遺命を破り、長女五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を成立。この後も嫡子忠宗に、徳川二代将軍、秀忠の養女振姫を正室に迎えるなど、徳川家と密接になっていく。

ちなみに政宗は、十指に余る子供に恵まれている。嫡子となった忠宗は正室愛姫の生んだ二男であり、庶長子、秀宗は分家の上、四国の宇和島伊達氏の藩祖となる。また九男宗実は、伊達成実の養子となっている。

政宗には逸話が多いが、徳川政権が安定してからは、武将としてより外様大名として保身する話が多い。

家康が政権を握ると、外様大名はつぎつぎと江戸参勤して妻子を江戸に居住させ、家康に二心なきを証明したが、政宗は諸大名に先がけて子の秀宗をいち早く江戸に送った。

あるとき、政宗が京都から歌舞伎の一団を仙台に呼んで興行させたが、武将の中には、かつての勇武な政宗と比べて嘆く者も多かった。が、加藤清正は、「さすがに伊達」と、さっそく熊本にも歌舞伎を呼んで興行させた。これも大名たちが遊芸にふけっている方が、幕府に怪しまれないと思ったからだという。

慶長16年(1611)ごろ、宣教師パードレ・ソテロによって切支丹に興味をもち、城下での布教を許したが、同18年(1613)にローマに派遣した支倉常長が、元和6年(1620)に日本に帰る間に、切支丹禁令が発せられたため、帰国した常長を牢につなぐことになる。

大阪の陣においては、はじめから徳川家に荷担。夏の陣で豪将、後藤基次を討ち取っている。

元和元年(1615)、伊達家江戸屋敷が火事にあったが、修理は小規模で済んだ。しかし政宗はこわして新築しようとしたので、重臣は万一のための軍資金をこそ案じた。政宗は「天下太平で戦乱の起きる心配もない今、万が一には公儀から軍資金は借用すればよい」と一笑し、屋敷を建て直した。これも、江戸に贅沢な屋敷を建てて幕府に見せ、警戒を解くためという。

徳川家光が将軍就任のとき、諸侯を集めて「祖父家康、父秀忠は諸侯の授けを得て将軍となったが、自分は生まれながらの将軍であるから、すべての大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異存があれば直ちに国元にて一戦の準備をされよ」と言った。政宗は居並ぶ諸侯の前に出て、「政宗はもとより、諸侯にも異存のあるはずがありません」と平伏したので、みな同じように頭を下げたという。

政宗は家光の前では、常に腰の大脇差を控えの間に置いて席に着いたが、家光は、家康、秀忠、家光の三代に仕えた政宗に報いて、特に脇差を許した。政宗は、「家康公、秀忠公二代には、戦場で御恩に報ゆることもできましたが、上様にはそれらしきこともできませんのに、ありがたお言葉をいただき、御恩は死んでも忘れません」と答え、心地よく酩酊して大いびきをかいて寝てしまった。家光の近習が政宗の大脇差を抜くと、中身は木刀であったという。

政宗の晩年は家光によく愛されたようであり、政宗が病床につくと、家光は直接見舞ったり、医者の手配をしている。

寛永13年(1636)5月24日、江戸の桜田藩邸にて政宗死去。70歳。官位は従三位権中納言、陸奥守。近年の発掘調査によると、死因は食道噴門癌による、癌性腹膜炎と診断された。

辞世「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」。
他に「馬上少年過ギ、世平白髪多シ、残躯ハ天ノ赦ス所、楽シマザレバ是レ如何」が有名。

のち伊達騒動などの危機もあったが、伊達家は安泰で明治を迎えた。

小次郎

2007-02-05 17:11:41 | Weblog
伊達 政道(だて まさみち、永禄11年(1568年)? - 天正18年4月7日(1590年5月10日))は、戦国時代の武将。父は伊達輝宗(政道は次男)。母は最上義光の妹・義姫。伊達政宗の同母弟に当たる。幼名、竺丸。通称は小次郎というが、伊達小次郎のほうが名としては知られている。生年を1574年、1578年とする説もある。また、「政道」とする名乗りを証明する当時の史料が現存せず、疑問視する学者もいる。没後175年経った1765年に建立された金上盛備墓の碑文には「政宗之弟正道」と書かれている為、その頃には「政道」若しくは「正道」だと認識されていたものと思われる。

政宗の弟であるが、兄とはあまり仲が良くなかった。しかも母の義姫が隻眼の政宗を忌み嫌って、弟の小次郎を寵愛したため、伊達氏内部で政宗と小次郎による家督争いが起こったこともある。しかし父の輝宗は政宗を寵愛し、1584年には政宗に家督を譲っている。母の義姫はよほど小次郎を家督に据えたかったらしく、何度も政宗の暗殺を謀っている。

1587年、蘆名氏の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名氏の当主として推薦されたが、蘆名氏の執権である金上盛備の策略によって、佐竹義重の子・蘆名義広が当主となった。1590年、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するため、母の義姫の招きを受けて赴いたとき、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけた。命は助かったが、政宗はこれに激怒して小次郎を惨殺し、母の義姫を最上義光のもとに戻したと言われている。

1793年に勘当状態が解かれ、死後203年目にして法要が営まれたという。


伊達氏3

2007-02-05 17:10:47 | Weblog
政宗の野望

政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。

秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた芦名家領土の「経略多端」の故と弁明している。後北条氏と手を結んで秀吉と対抗しようと機会を窺っていたという説があったが定かではない。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
大崎・葛西一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙った。
関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。
政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてスペインに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はスペインとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。また、ローマ教皇にも謁見した。しかし、この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でも南仏には日本人の末裔だとする人々が存在する。
「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」
また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。
「元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候」(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を霍乱するつもりだった)。
「大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』より抜粋)。
しかし、政宗の後援者であった大久保長安の死去や娘婿の松平忠輝の改易、スペインとの同盟不調などもあって、これらは実現されることは遂に無かった。
幕府は政宗存命中は、政宗がいつテロを起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の1616年(元和2年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
1628年(寛永5年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、家康の死去などで幕府の基盤はまだ磐石では無かったから、政宗は機会さえ恵まれていれば、謀反を起こす気があったと自ら発言しているのである。
徳川秀忠は1632年(寛永9年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
「年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州征伐のための軍を起こそうとしていた)。
家光が『生まれながらの将軍』を自称したのは政宗の擦り込みだったとも言われている。政宗は軍略、野望ともに最も危険視されていた人物であるから、それを逆手にとり自ら大名筆頭として頭を下げる事で、幕府に対し有無を言わせない立場を確立し、陰謀を起こそうとしていたわけである。
晩年の政宗は、「酔余口号」という漢詩を残している。「馬上少年過(馬上少年過ぐ)世平白髪多(世平らかにして白髪多し)残躯天所赦(残躯天の赦す所)不楽是如何」というものだが、最後の句を「楽しまずんば是いかん」と読むか「楽しまず是如何に」と読むかで全く解釈が違ってしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われ、この辺は永遠の謎となっている。
仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。

官職位階履歴

※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)

1584年(天正12)10月、家督継承
1585年(天正13)閏8月、従五位下美作守に叙任。
1586年(天正14)、左京大夫に転任。
1591年(天正19)3月、侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる。
1597年(慶長2)、従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
1608年(慶長13)1月、陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を将軍徳川秀忠より授かる。
1615年(元和元)閏6月19日、正四位下に昇叙し、参議に補任。 月日不詳にて参議辞職。
1626年(寛永3)8月19日、従三位権中納言に昇叙転任。この時点で、水戸徳川家(頼房)、加賀前田家(利常)、薩摩島津家(家久)と官位が並ぶ。
1634年(寛永11)8月、所領石高62万5000石となる。
1918年(大正7)11月18日、贈従二位。

家臣

伊達成実 /山岡重長
片倉景綱 /国分盛重
茂庭綱元 /猪苗代盛国
留守政景 /大内定綱
石川昭光 /遠藤宗信
泉田重光 /小梁川盛宗
白石宗実 /支倉常長
原田宗時 /桑折宗長
後藤信康 /鈴木元信
屋代景頼 /津田景康
亘理元宗 /亘理重宗

系譜

正室:愛姫(田村清顕娘)
五郎八姫(松平忠輝室、忠輝改易後に離縁)
伊達忠宗(仙台藩二代藩主)
伊達宗綱(栗原郡岩ヶ崎要害館主)
竹松丸
側室:新造の方(六郷伊賀守娘)/飯坂の局(飯坂宗康娘) - 史料により差異がある。
伊達秀宗(宇和島藩初代藩主)
飯坂宗清(飯坂宗康養子)
側室:塙氏(塙直之娘)
伊達宗泰(一門岩出山伊達家始祖)
側室:阿山方(柴田宗義娘)
伊達宗信(栗原郡岩ヶ崎要害館主)
伊達宗高(柴田郡村田要害館主)
牟宇姫(石川宗敬室)
側室:弘子姫(芝多常広娘)
(亘理)伊達安房宗実(伊達成実養子、一門亘理伊達家当主)
側室:勝女姫(多田吉広娘)
岑姫((涌谷)伊達安芸宗実室)
伊達宗勝(一関藩主)
側室:妙伴(村上正重娘)
千菊姫(京極高国室)

伊達氏2

2007-02-05 17:08:56 | Weblog
長谷堂城の戦い

豊臣秀吉死後の1600年(慶長5年)に家康が会津の上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して白石城を陥落させる。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に、戦勝の暁には百万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。同年9月、関ヶ原の戦いになると、家康ら東軍に属する。上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、援軍として侵攻。上杉軍と交戦する(長谷堂城の戦い)(一説によると重臣であり軍師格である片倉景綱(小十郎)は上杉・最上両軍が戦い、山形城が落城し、上杉勢が疲弊しきったところを討つべしと進言したが、母・義姫がいる山形城を見捨てるに忍びないと、政宗はこの策を受け入れなかったという)。戦後、政宗が和賀忠親を煽動して南部氏領国での一揆の策略を行っていた事が発覚し(一揆軍は敗北)、40万石加増、すなわち計100万石の約束は反故にされ、近江と常陸に小領土の飛び地及び陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石を加増されるにとどまり、62万石の領主となる。

仙台藩主

1601年(慶長6年)には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。1614年(慶長19年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田幸村の攻勢を受けてたつなど大きな功があった。一方、味方である神保相茂隊を味方討ちして全滅させたとも言われるが、風聞の域を出ない(詳細は神保相茂の項を参照)。仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台城下の城下町は全面的な開発であるため、のべ百万人を動員した大工事となった。藩内の統治には四十八カ所の館を置き家臣を配置した。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をメキシコからイスパニア、ローマにまで派遣して海外貿易を試みているが、いずれも成果は実らなかった。

世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。一説には江戸中期には300万石を超えていたと言われる。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡神社や瑞巌寺などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛重吉を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻港から江戸へ東回り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、1636年(寛永13年)5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。

辞世の句は、「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」

逸話

正室・愛姫と、少なくとも七人の側室がおり、先述の五郎八姫など十一男四女をもうけた(但し正室・愛姫が産んだ嫡出子は夭折した子も含めて記録に残っているが、側室が産んだ庶子は成人した子しか記録に残っていない可能性も考えられる。また側室も政宗との間に子供をもうけた女性だけが正式に記録され、実際には他にも関係を持った女性がいた可能性もある)。また外国人女性の側室もいたというが、これは山岡荘八の創作であり史実ではない。
当時の武士の例にもれず衆道の嗜みもあり、只野作十郎(只野伊賀勝吉)という寵童への書状が残されている。ちなみに作十郎と勝女姫(側室)は実の姉弟(多田吉広の子)である。
伊達家はそれまで足利将軍の名前から一文字ずつとることを慣習としてきた。しかし、父輝宗は政宗を期待して、先祖の名前から政宗と名づけたという。本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。
政宗は正室・愛姫との間にもうけた嫡出の次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前)との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせず、宇和島藩10万石の領地を与えて分家させている。
遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。政宗の正室・愛姫と長女の五郎八姫はキリシタンだった。
母の義姫には子供の頃、毒殺されかけたり大変な思いをしているが、母義姫の実家で逃亡先である最上家がお取り潰しとなってからは母と和解し、仙台に母を引き取っている。
また、最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したと言われるが定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたと言われる。
大坂夏の陣の際に、5月7日船場口で伊達勢の前方に展開していた神保相茂隊が明石全登隊の奇襲を受けて全滅したが、政宗による味方討ちではとの風聞が立った(島津氏の『薩藩旧記』にその記述が見られる)。政宗は、神保隊が明石全登隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分したと主張した。この事件は、幕府が最終的に伊達家の見解を追認して決着したが、事件直後から様々な興味と憶測を生んだ。上方贔屓の講談本『難波戦記』等は、伊達家の手荒な行為を「手柄を奪われた嫉妬の腹いせに抹殺した」等と悲憤慷慨して批難し、神保相茂主従に同情を寄せた。
喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた。(煙草を薬と考えていたらしい)遺品に、愛用のキセルがある。
下の世代の徳川家光からは尊敬されていたらしい。(下僕の家光に「伊達の親父殿」と呼ばれていたこともある)将軍就任の際に率先して頭を下げ諸侯を抑えたこととも関係しているのであろう。病床に着いた際も家光自らが見舞ったり、医者の手配をするなど配慮を見せている。将軍の前での脇差帯刀も許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという。
三代将軍徳川家光が鷹狩に没頭し、下宿を頻繁に行うのに困った家臣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。
大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には二種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。
また、同じく大崎一揆煽動の疑惑をかけられた際には、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭したとも言われている。
養生法が変っていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。
朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。
料理が趣味(当時の大名は多趣味な者が多かったが、料理が趣味なのは極めて異例である)。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を命期集に残している。仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。
料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。
岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。
ちなみに仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。
砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大阪の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列したことなどから落胤ではないかとの説もある。
政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉を侵略し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。その後政宗は、大坂夏の陣の際に豊臣家滅亡の責任を家康や将軍家に取らせて切腹させ、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想も描いたともいわれる。
大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望をあきらめざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、後述の史料(政宗の野望説)などから否定されることも多い。

伊達氏

2007-02-05 17:06:57 | Weblog
伊達 政宗(だて まさむね、永禄10年8月3日(1567年9月5日) - 寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、戦国時代の奥州の戦国大名で仙台藩初代藩主。 伊達氏第16代当主・輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の長男。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)、字は藤次郎(とうじろう)、諡号は貞山(ていざん)。正式な名乗りは藤原政宗(ふじわら・の・まさむね)と称する。神号は武振彦命(たけるひこのみこと)で、青葉神社に祭られる。幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明し、また派手で知られたため、後に独眼竜という異名がついた。「政宗」という名前は、伊達家中興の祖と言われる室町時代の九代当主の政宗(大膳大夫)にあやかったもの。1584年(天正12年)に18歳で家督を相続する。

時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)
改名 梵天丸(幼名)、藤次郎
別名 独眼竜(通称)
諡号 貞山
神号 武振彦命
戒名 瑞巌寺殿貞山禅利大居士
墓所 瑞鳳殿
官位 従五位下、美作守、左京大夫、侍従、越前守
   従四位下、右近衛権少将、陸奥守、正四位下
   従三位、権中納言、贈従二位
氏族  伊達氏
父母  父:伊達輝宗、母:最上義光の妹・義姫
兄弟  小次郎、秀雄、千子姫
妻  正室:愛姫、側室:新造の方/飯坂の局、塙氏弘子姫、勝女姫、妙伴
子  伊達秀宗(長男)、伊達忠宗(次男)、
  飯坂宗清(三男)、伊達宗泰(四男)、
  伊達宗綱(五男)、伊達宗信(六男)、
  伊達宗高(七男)、竹松丸(八男)、
  伊達安房宗実(九男)、伊達宗勝(十男)、
  亘理宗根、五郎八姫(松平忠輝正室)、
  牟宇姫(石川宗敬室)、岑姫(伊達安芸宗実室)、
  千菊姫(京極高国正室)

右目の失明

出羽国米沢(山形県米沢市)、米沢城に生まれる。1571年(元亀2年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。それ以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎まれ、弟の伊達小次郎だけが母の愛情を注がれたとされる。ちなみに、徳川家康や豊臣秀吉たちに「右目はどうしたのか?」と聞かれたとき、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている。さらに若い頃母親から毒を盛られたとされ、(しかし、政宗は「母に罪はない」と母を弁護したと伝わっている)それは眼に異常の無い弟を当主に立てるには伊達政宗の存在自身が邪魔だったからといわれる。1572年(元亀3年)、政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。1575年(天正3年)神職の子である片倉景綱(小十郎)が守り役を命ぜられ側近となる。片倉小十郎は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。

奥州の覇者

1577年(天正5年)に元服、1579年(天正7年)には仙道の大名で三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)を正室とする。1581年(天正9年)、隣接する相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。

1584年(天正12年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。二本松城主の畠山義継を撃破し、侵略しようとしたが、輝宗の取りなしにより五ヵ村を畠山領として安堵することになった。1585年(天正13年)に父の輝宗が、所領安堵の件などのお礼に来ていた畠山義継に拉致される。輝宗は城門まで見送りに行った所拉致されたという。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡、畠山義継を父・輝宗もろとも殺害したという。また、寝返った大内定綱討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清を行った。「撫で切り」を行うなど、非道な一面も持っている。「撫で切り」は主だった豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州ではセンセーショナルであり、近隣領主を恐怖に陥れた。しかし、これも近隣領主への見せしめ的な要素が多分にあり、後に大内定綱を家臣の列に加えている。

その後、初七日法要を済ますと早くも畠山氏の二本松城を包囲。畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など反伊達連合軍と安達郡人取橋で戦う。数の上で五分の一以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭左月斎を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪えた。政宗は更なる侵攻を行い、1588年(天正16年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻愛姫の実家田村氏の協力を得て、現在の福島県中通りにあたる地域を支配下におく。同年北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りに合い敗北、これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。又、最上義光とも一触即発の事態となるが義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。

1589年(天正17年)には会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破り、黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼして奥州南部の大部分を支配下に置き、150万石の領主になった。

豊臣政権

この頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、1590年(天正18年)の秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣して秀吉に臣従を誓い、本領を安堵される(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収)(このとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗に切腹を命じようとし事実上監禁したが、政宗は千利休の茶の指導を受けたいと、詰問に来た前田利家らに申し出、更に政宗は全軍に白装束を着せ、街を練り歩き、秀吉への忠誠を誓ったように見せた。これらの行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる)。参陣前には自身の身を転覆させようとしている母親を止めるため弟の伊達小次郎に対し自害を命じた。母・義姫(保春院)も実家の兄・最上義光をのもとへと(山形)追放した。

翌1591年(天正19年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が葛西大崎一揆を策略していた嫌疑をかけられる。これは蒲生氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩出山城に転封となり58万石、後に加増されて60万石となる。1592年(文禄2年)秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。豊臣政権では五大老である徳川家康に接近し、1599年(慶長4年)には嫡女・五郎八姫(いろはひめ)を家康の6男松平忠輝と婚約させる。

朝鮮出兵時に政宗があつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となり、これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった、と伝えられる。派手好みの秀吉の気に入る事により危ない橋を渡らないよう計算したものと言われる。