すばらしき妄想ライフ

TOA烈風のシンク大好きなオタクの日記
・・・だと思う・・ョ、うん。
っきっとそうだ・・・ょね?

久しぶりの

2006-12-29 11:51:50 | Weblog
鑑定結果
あなたの精神年齢は35歳です


あなたの精神は『中年』になりかけています。一人前の大人です。若々しさはほどんどなくなりましたが、代わりに大人としての風格が目立つようになってきました。しかし、そろそろ年を考えなければならなくなりそうです。

実際の年齢との差22歳


あなたは実際の年齢よりかなり大人です。周りの人からもよいお父(母)さん役として親しまれていることでしょう。ただ、同年代の人とはしばしば話があわなくなったりしてしまうでしょう。


幼稚度64%


あなたは幼稚園児並みの幼稚さを持っています。お遊戯をして1日中遊んでいたい年頃です。


大人度54%


あなたはなかなかの大人です。冷静さもあり、精神的も発達してきています。


ご老人度53%


あなたはもう老人です。あせることなく、はしゃぐことなく、いつものんびりなご老人です。


↑なんかイロイロヤベェぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!
どうなの?これ?
大人なの?幼稚なの??マジでどっち???

伊達政宗2

2006-12-28 00:15:32 | Weblog
伊達政宗の辞世の句は
「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」

↑どーゆー意味だ。


徳川家康 西田敏行
豊臣秀吉 西田敏行
武田信玄 西田敏行
上杉謙信 西田敏行
伊達政宗 西田敏行
毛利元就 西田敏行

画像の人が西田敏行。
政宗様のイメージ壊れた・・・。

質門 歴史に「たら、れば」はタブーですが、でもやっぱり気になります。

戦国時代で一番強い武将(軍団)は誰ですか?

・不敗神話の軍神、上杉謙信と越後勢。
・風林火山の旗の下、武田信玄と戦国最強の騎馬隊甲州勢。
・三本の矢は折れず、毛利元就と無敵水軍の中国勢。
・薩摩隼人が吼える、島津義弘と薩摩勢。
・天下布武、織田信長と尾張勢。
・奥州の暴れん坊、伊達政宗と奥州勢。
・難攻不落の小田原城を有する関東の雄、北条氏康と関東勢。
・赤備えの甲冑に六文銭の旗、真田昌幸・幸村親子と信濃勢。

長期戦じゃなく個々の戦術重視でなら誰が最強ですか?

勝手に強い武将を選びましたが、他にも推薦があれば教えて下さい。

解 戦術重視の 最強なら 謙信です
信長軍にも勝ってますし 川中島も 信玄よりも 一枚上手の戦術をみせました
家康は 信玄に子ども扱いされていますし
政宗は 大阪で 幸村に 苦杯を飲まされています 幸村 と 謙信 これが 激突すれば 面白いですが 幸村の突撃は やはり 謙信にうまくかわされて 神がかり的な戦術で 幸村の側面を やはり 謙信がつくでしょう

↑毘沙門天強っ!!!!

質門 伊達市というのが誕生したらしいですが、伊達政宗と関係がありますか?

解 福島県伊達市保原町(旧伊達郡保原町)に、伊達氏の祖である伊達朝宗の居城跡(高子館跡)があります。
その他にも、伊達市や伊達郡の町に、伊達氏に関するものが残っています。

さすが!!政宗様VV!!!

伊達政宗は山岡荘八著「伊達政宗」文庫で全8巻

質門 戦国大名 伊達政宗のすごさを教えてください???????

解 彼は若くして父から家督を譲られましたが、その父が人質になり、あげく政宗の目の前にて殺されてしまいました。で、その際に父を見殺しにしなければならない立場で敵を討てと言える非常さを手にいれた。
しかも実母から毒を盛られた彼は、注意力や用心深さも手に入れたらしく、逸話ですが、有る時自分の部下が「政宗反逆」と云う事で豊臣側の部将に注進に及びその証拠として政宗の密書を携えていたが、花押が違うと云う事で秀吉に許されたと云うのもそれを表している。
因みに一度戦になれば、以前の負け戦を糧に調略や戦法、武器等を工夫し、勇猛果敢に戦ったと云う事も彼の凄い処だと思うし、東北の片田舎大名が海外にも目を向けていたのも凄いと思う。

質門 「伊達政宗」ってどうして眼帯してるの?
イクサで負傷したの?

解 幼少時に天然痘にかかり、失明したんですよ・・・・・・・・・・・・・

疱瘡と言っていましたが、今で言うところの天然痘なのでしょうか?
幼児期にその疱瘡になって、目をやられたので目を取り除いたんです。
痛かったでしょうね

独眼竜政宗

愛姫 (よしひめ)

織田信長

2006-12-27 23:42:40 | Weblog
織田信長には11人の息子と12人の娘がいました。
信成氏は信長の七男信高の末裔、信長から数えて17代目

↑すっげーーーー
プレイボーイだったんだね。信長公

濃姫

2006-12-27 23:38:02 | Weblog
慶長17年(1612年)7月9日に78歳で逝去した。

実質濃姫の詳細は不明。
婚儀の後に、離婚説、早世説などがあるそうです。

本能寺の変の時良くフィクションで
信長と共にこの世を去るシーンがありますが、
あれは、断固ありえない。 だそうです
いざと言う時見捨てなければいけない
状況下をつくる必要もないからだそうです。

伊達政宗

2006-12-27 23:16:18 | Weblog
身長/159.4cm
血液型/B型
特徴:面長で骨太 頭でっかち
趣味:料理
愛煙家?
生没:1567~1636年(70才)
本名:藤次郎政宗(とうじろうまさむね)
幼名:梵天(ぼんてん)丸
陸奥仙台藩62万石・初代当主

 
伊達政宗の生涯
西 暦 主な出来事
1567(永禄10)年
8月3日、米沢城に生まれる。父は伊達家16代当主輝宗、母は山形城主最上義守(もがみよしもり)の娘・義姫。

1571年(元亀2年)
疱瘡(ほうそう)を患い、右目を失明。

1577年(天正5年)
11歳で元服。藤次郎政宗と名のる。

1579年
冬、三春城主・田村清顕の娘、愛(めご)姫と結婚。

1581年
初陣。父とともに相馬氏と戦う。翌年、相馬氏を掃討し、伊具郡、信夫郡を奪還する。

1584年
10月、父輝宗隠居、家督を相続する。

1585年
父輝宗、畠山義継に拉致される。政宗、父もろとも義継を撃ち殺す。
11月、畠山氏の居城・二本松城を攻めるが失敗。引き揚げるところを佐竹・芦名連合軍に襲われ、かろうじて撃退する。(人取橋の戦い)
翌年、二本松城を攻め落とす。

1588年
2月、大崎氏を攻めるが大敗。
7月、交戦中の佐竹・芦名、大崎・最上と和睦。

1589年
6月、磐梯山麓・摺上原(すりあげはら)の戦い。
芦名軍16000に対し、伊達軍23000。はじめは強い西風の影響で芦名軍有利に進むが、風向きが変わるや戦況一変。伊達軍が猛反撃を開始し、芦名軍をさんざんに打ち破った。芦名義広は、わずか数十騎に守られて逃亡。政宗は黒川入城を果たす。
奥州に覇を唱える。政宗弱冠23歳。

1590年
年頭、豊臣秀吉から小田原参陣を命じられ、膝を屈する。
だが4月、弟の小次郎を擁立した母に毒を盛られ、殺されかける。母をかばった小次郎を斬り、母は実家・最上氏を頼って出奔する。
6月、小田原到着。2ヶ月の遅参を咎められて幽閉。政宗は死を覚悟したのか、白装束で秀吉との謁見の場に出向く。そのことがかえって秀吉の興味をひき、旧芦名領をのぞく本領は安堵された。
秋、米沢に戻り、大崎・葛西一揆討伐に向かう。

1592年(文禄元年)
3月、朝鮮攻めに加わり、名護屋に出陣。秀吉から割り当てられた倍の兵(3000人)で上洛し、派手な軍装で人々の目を惹く。

1593年
2月、朝鮮へ渡り、晋州城攻撃等に参加し、これを落す。
9月帰国。

1595年
8月、豊臣秀次が謀反の疑いで高野山に蟄居、切腹を命じられた。この事件で、政宗や最上義光も疑われ秀吉に詰問されるが、のちに疑いが晴れ許される。

1598年(慶長3年)
秀吉の遺品・縞(しのぎ)藤四郎の脇差を受け取る。

1600年
9月、関ヶ原の合戦勃発。上杉氏の足を止めるため、戦う。上杉の支城「白石城」を攻略。
直江兼続軍と交戦中の最上氏に援軍を出す。

1601年
年頭より、仙台城(青葉城)築城に着手し、4月に仙台城に移る。それまでの居城・岩出山の民を仙台に移す。

1613年
支倉(はせくら)常長を遣欧使節としてローマに派遣する。

1614年
10月、大坂冬の陣に従軍し、大坂城を攻める。
真田丸の南西に長男秀宗とともに着陣するが、これといった戦闘もないまま和睦。

1615年(元和元年)
4月、大坂夏の陣に従軍。
道明寺の戦いでは騎馬鉄砲隊を率いて、後藤又兵衛、薄田隼人の軍と激突し、これを破る。
さらに真田幸村軍と激突するが苦戦。数で圧倒的不利な真田軍にゲリラ戦法でかく乱される。やがて双方被害が大きくなったため兵を引くが、政宗はそれ以上の損害を恐れて深追いせず。 翌日、大坂城落城。伊達軍は傍観に徹したため、これといった戦果なし。

1620年
支倉常長、仙台に戻る。鎖国政策に失望し、2年後に死亡。

1626年(寛永3年)
秀忠に従って参内し、権中納言に任ぜられる。

1628年
11月、若林の屋敷に隠居。

1636年(寛永13年)
4月20日、病をおして江戸に向かう。すでにこのとき、死を覚悟していたらしい。
5月21日、将軍家光の見舞いを受ける。
5月24日、江戸の伊達屋敷にて死去(70歳)。死因はガン性の腹膜炎とも食道ガンともいわれる。遺骸は仙台経ヶ峰に埋葬された。

昭和51年、政宗の霊廟瑞鳳殿が再建されたおり、政宗の遺体が発掘され、鑑定が行われた。その結果、身長や骨格が明らかに。


森蘭丸3

2006-12-23 10:22:00 | Weblog
質門 本能寺跡地は、発掘されているのですか?

解 本能寺の発掘はおそらく秀吉が最初にやりました。
本能寺の本来の場所は他の人が回答しているとうりですが、なぜ今の場所に移ったかというのが重要です。
秀吉の命令で移されましたが、移築時に旧跡地を大々的に発掘しています。
秀吉は何を探していたんでしょうね?
ちょうど信長の1周期で大々的な葬式を予定していました。
信長の骨を捜していたのかもしれません。
何か心当たりがあったのでしょうか?
本能寺が信長の京都での宿舎となる前に秀吉は信長の命令で本能寺と隣のバテレン教会の間に地下道の抜け道を作らされています。
抜け道なので殆どの人は存在する知らなかったそうです。
これは宣教師の本国への手紙に記載されていますが、目立たないように教会に出入りしている信者を使ったようです。
本能寺の塀は非常に高く作られたことで有名ですが、この時の抜け穴の土を使って塀を高くしたそうです。本能寺というのは、となりのバテレン教会とセットで跡地と考える必要があります。
本能寺の変の後織田信長と森蘭丸の側近の遺体が見つかりませんでしたが、この抜け穴のどこかで死んだから遺体が無いことを秀吉は知っていたのでしょう!
もし秀吉が事前にこの抜け道を途中で塞いでいたことが判ったら謀反人は秀吉になります。そのため骨の発掘と称し痕跡を消す作業をしていたのかも知れません。
もし宣教師が塞いでいたらどうでしょうか?
ローマカトリックが神になろうとした信長を暗殺しようとした?
(日本版ダビンチコードですか???)
ここまでくると飛躍しすぎですが、信長・秀吉・宣教師しか知らないことがあることがあまり話題にならないのが残念です。
秀吉による移転が終わり発掘が済めば更地で放置されるでしょうからその後は早い者勝ちで小屋など建てて人々が住みだすでしょう

質門 “森蘭丸”という人物は男ですか?それとも女ですか?

解 ○“森蘭丸”という人物は男ですか?それとも女ですか?
●出生には諸説があるようですが、性別には異論がありません。
「男」です。

質門 戦国武将が戦場に赴く時、美少年系の小姓を連れて行きますが(有名なところでは「織田信長」の小姓「森蘭丸」)、どういう理由で連れて行くのでしょうか?
ある説によれば、武将の性的欲求を満たす為(その為戦国武将は両刀使いが多かった)と聞いた事があります、実際はどうでしょうか?

解 今のように飛行機も車も無かったのと、一度戦に赴けば戦が
長引けば長引くほど何ヶ月も帰られなかったというのが多いのですが
かといって戦場に女性を連れて行くわけにもいかず
いつのまにか位の高い武将は城に戻っても男色も
普通に(普通ではないのですが)なっていったんだと思います
今で言う、女性と接することの出来ない刑務所や
男性ばかりしかいない中で起こってしまう異常現象に近いと思います・・・
ですが、森蘭丸の子孫の森家については非常に戦国時代の
男色の例えとして蘭丸が多く使われることから
そのような史実は残っていないということでそうではなかったと
いっています(でも事実は当時の人にしか分からないと思うんですが・・・)
※「2・森蘭丸公について」をお読み下さい。おもしろいですよ
http://www.mori-family.com/aboutme/webpolicy.html#2

「森蘭丸」の子孫がいるという事は、弱冠17歳にして、既に結婚していて子供がいたという事ですか・・・。

質門 戦国時代の人で森蘭丸って武将(?)がいるけれど
その人に関する本ってありますか?
なるべく安価なものが良いです。
それと、森蘭丸の略歴などについて教えて下さい!
解 森蘭丸に関する本
小説
「森蘭丸(上下)」小野稔・大陸文庫・大陸書房
「森蘭丸」澤田ふじ子・徳間文庫・徳間書房
「森蘭丸」八尋舜右・PHP文庫・PHP研究所
映画
森蘭丸(製作年 : 1955年)
監督 : 小林桂三郎
中村扇雀 (森蘭丸)
坂東吉弥 (弟力丸)
金沢義彦 (弟坊丸)
村瀬幸子 (蘭丸の母)
山村聡 (織田信長)

質門 信長の部下?みたいな森蘭丸って何をしてたんですか?

解 実務は諸将との外交、諸事奉行、加判奉行等を努めた。この働きからも取れるように秘書として重宝されていた。
特にその才は外交に長けていたようで使者として蘭丸と接した数々の武将が蘭丸の礼儀を褒めている。

質門 森乱(蘭)丸は本当に美少年だったのですか。
確か彼のお兄さんは「鬼武蔵」と呼ばれたイカつい方だったような。父親でしたっけ。
大本営の画策で美少年にされたという話を聞いたことがあるので、如何。

解 森可成

森可隆 森可成の長男

森長可 森可成の次男(鬼武蔵)

森蘭丸 森可成の三男

森家 家系図
http://www.mori-family.com/keizu/mori-souke.htm

「鬼」と恐れられた武将 森 長可(もり ながよし)
http://www.m-network.com/sengoku/sen-12.html

森蘭丸(1565~1582年)
http://www.geocities.jp/ukikimaru/ran/rammaru.htm


↑こんなもんかな?
(気になったのは

森蘭丸2

2006-12-23 10:21:13 | Weblog
質門 織田信長は森蘭丸と肉体関係があったとみるのが定説なのですか?

解 定説も何も、男色(特に少年に対する)はあの時代の武士階級では一般的なことだったようですよ
別に信長と蘭丸に限ったことではありません
だから 尻奉公って 一部 馬鹿にされたのです・・・・・・

質門 本能寺からなぜ、女中たちだけ逃げる事が出来たのでしょうか?
それならば、みんな逃げられたのじゃないでしょうか?
なぜ、織田信長・森蘭丸など、逃げなかったのでしょう・・・

解 戦国時代においても、城主や君主と姻戚関係の無い女、子供は殺すことは殆どありませんでした。
基本的に武将は平素は政治家であったり立派な方が殆どでした、無益な殺生はしません。
また信長や側近は逃げる訳にはいきません
逃げても必ず捕まり、首を刎ねられたします
どの道死ぬのなら後世に名前を残せる死に方を選びます。

敵に背を向けるは武士の恥
勝ち目の無いときは自害するのが当時の習慣

「女、子供は、苦しゅうない(逃げて良いの意)」と言って、信長が本能寺の時、逃がしたのです。
また、包囲し、攻めた光秀も、反逆はしたけど、後の評判、自分の名前を惜しみ、か弱い女子供には手をかけなかったのです。
また、信長も光秀の気性を知っていたので、逃すことが出来たのです。
戦争はしながらでも、そのなかに秩序、武士道、大儀はあったのです。
その大儀がなく、主君を撃った光秀は、天下を取れなかったのです。

目的でない一族以外の女性、子供は降人として
認められますので。
信長は光秀をよく知ってました。
光秀ほどの男ががこういう行動を起こすという事はもう
逃げられないとわかっていたのでしょう。

質門 信長が「是非に及ばず」と言ったのは誰が聞いたのでしょうか。
後で信長がそう言っていたと証言したんですよね。
本能寺の爆破の中で生き残っていた人がいたと言うことでしょうか。

解 信長に「謀反は明智の手勢によるものです」と告げたのは、森蘭丸で、それに信長が応えたのが「是非に及ばず」とあります。
ですから、台詞は森蘭丸が聞いたことになりますが、当の森蘭丸も本能寺で果てましたので、実際のところは不明ですね。
本能寺からは、女中衆・前日から寝泊りしていた商人・それと若干名の家臣が逃げ延びています。
出所はそこらの人々なのではないですかね?

「是非に及ばず」は、太田牛一の「信長公記」にかかれている言葉ですが、当時、太田牛一は本能寺にいなかったと思う。
ということは、信長方の名も無いものか誰かが脱出して言葉が伝わったか、明智側の誰かが聞いたのか、どちらかでしょう。
ただ、「是非に及ばず」など、信長はこのような言葉を口にすることが多かったというので、太田牛一が推測で記した可能性もあります

質門 ふと思ったんですが…。
宇宙戦艦ヤマトに登場するキャラクターの名前て、日本での歴史上に名を馳せた有名人から取っているんでしょうか?
艦長は沖田や土方と新撰組だし、島>島左近 山本>山本五十六 徳川>徳川家康? 真田>何かいましたね?名前忘れました。
あと、斉藤や藤堂もいてたような…
気のせい?
他にも主要メンバーで当てはまる方はいますかね?
また意図的なものでしょうか?

解 多分、意図的にやっていますね。
上の方々があげたものの他では、
・山南艦長:新撰組の山南
・太田:太田道灌(これは考え過ぎかも)
・森雪:森蘭丸?
等々です。
なお、主人公の古代進は、松本零士版「光速エスパー」の主人公の
名前を流用しています。
(歴代艦長が新撰組からとられていることを考えると、藤堂長官も
同様でしょう。)

質門 織田信長は、どうやって死んだのでしょうか???
気になります。教えてください。回答をよろしくお願いします。

解 天正10年6月2日(1582年6月21日)織田信長は秀吉の中国攻めの援護に向かうためわずかな供回りとともに京・本能寺に滞在していた
早朝、信長が顔を洗っていると外が騒がしく、初めは小姓連中が喧嘩をしていると思ったが、近習によると寺が軍勢に囲まれているという。
信長が小姓に「旗指しは」と問うと小姓は「水色桔梗にござりまする」と
答え信長は「光秀か、是非に及ばず」と返し、落ち延びられるよう進言する
小姓に対し「光秀ならば寺の囲みに抜かりはあるまい」と弓を持って
押し寄せる明智勢を射ったが弦が切れ、変わって槍で突き伏せたが
傷を負い、堂内に戻り、森蘭丸に火を付けさせ自害した。

本能寺というところで、明智光秀に討たれました。
しかし、遺体は見つかっておらず謎が多い死です。
一説には秘密の通路から脱出したという説もあるくらいです。

1582年、6月、本能寺にて明智光秀の謀反により討ち死、
正室の濃姫、森、蘭丸、も討ち死に
この本能寺に徳川家康も宿泊する予定だったが本多忠勝の説得で難を逃れた。

質門 森蘭丸は信長と一緒に死んだのですか?

解 本能寺の変で信長の小姓であった森蘭丸も信長と共に討死したと伝えられる。
また、同じく信長の小姓であった森坊丸・力丸(両名とも蘭丸の弟)ら小姓衆も全員討死したという。
さらに、二条城では織田信忠や、今川義元を討ち取った毛利新助、京都所司代村井貞勝父子らも討死した。

質門 戦国時代は男とも女ともセックスするのが、普通だったのですか?
それが日本の常識的な風俗だったのですか?
具体的な例では
1、織田信長と森蘭丸
2、武田信玄と高坂昌信
高坂昌信は武田信玄に奥近習として召抱えられた。美童であったと言われた昌信は若き信玄の衆道の相手も務めた。信玄が昌信宛に送った浮気の弁明状が現存している。
小姓から出世した人物は大体において主君とやってたのですか?

解 当時の風俗で特に非難されることは無かったようです。
ですが好みの問題ですからやらない人の方が多かったと思います。
中には、出世のために日々張型で拡張を試みた者もいるそうです。
江戸時代にも陰間茶屋という、今でいうゲイバーがあり売春も行なわれていました。
刑務所内でも行なわれると言うし、男所帯になると性欲が優先されるのでしょう。

質門 織田信長の側近の蘭丸とはどういう人物ですか?そもそもなぜ信長の側近になれたのですか?

解 森蘭丸の先祖は八幡太郎義家の七男で代々同じ源氏の土岐氏の家臣でした。父可成は美濃の守護大名であった土岐氏が斉藤道三に攻め滅ぼされたため、織田信長に仕えました。
織田家では柴田勝家よりも早く信長に仕え、信長の家督相続にも活躍し、織田家の重臣となって行きました。
信長が美濃攻略後に金山城主に、その後宇佐山城主に抜擢されましたが、浅井・朝倉連合軍に攻められ戦死しました。
森家の家督は兄長可が継いでおり、最終的には二十万石の大名にまで出世しました。長可としては森家のため蘭丸含め3人の弟を人質の意味もあって信長の近習として預けていたと考えられます。
長可は信長の一字をもらっています。これは丹羽長秀とともに家中で特別な立場に森家があったことを意味します。

森蘭丸長定(1565~1582)乱丸・乱法師との記述も多く、成利・長康とする説もある。

美濃兼山城主・森可成の三男。
森家は早くから信長に仕えた口で、信行の反乱などにも組せず、信長を支え重きを成したが、長男は戦死し兼山城を賜うも、自身も近江で討死した。
森家は次男・長可(小牧長久手の戦いで戦死)が相続したが、蘭丸も小姓として出仕した。
信長に事の他気に入られ、諸将の接待、信長の取り次ぎ、諸事奉行、奏者に重用され、加判奉行もつとめた。
また、方々に使者として赴いている。
信長に面と向かって諫言出来たのは蘭丸だけであったという程の気に入り様であった。
武田家を滅ばした信長は、兄・長可を北信濃四郡に封じ、蘭丸に金山(一説には岩村)を与え城主とした。
実際には信長のそばを離れられなかったので代官が領地を治めた。
本能寺の変で、信長や弟二人と共に討死。
才智に長け、品行方正で異常に気が利く少年であったという。

森蘭丸の父は信長の重臣です。だから側近になれたのです。

森蘭丸

2006-12-23 10:05:20 | Weblog
もり‐らんまる【森蘭丸】
[1565~1582]安土桃山時代の武士。美濃の人。織田信長に小姓として仕え、本能寺の変で信長とともに戦死。

↑つーことは蘭丸17歳ってことだよね??
なのにあの可愛さは何!!???


質門 武田信玄が高坂昌信を、織田信長が森蘭丸を、上杉謙信が直江兼続を寵愛し少年愛の対象としていたと
耳にした事があるのですが、もし、本当にそうならば彼等は両刀遣いということなのでしょうか?
有名なエピソードがありましたら、お教えください。

解 かれらのほど身分の人は、男色はたしなみの一つだったようですね。
今でいうホモですが、当時は変なことではありませんでした。
秀吉は嫌だったようですが。。。

武田信玄と高坂昌信に、有名なエピソードがあります。
高坂昌信がまだ春日源助という名で16歳で信玄に謁見したとき、
源助があまりにも美少年だったため信玄は一目ぼれしてしまい、すぐに仕官が決まりました。
あるとき源助は、信玄が弥七郎という男を寵愛していることを知り、
「最近私にそっけないのは、弥七郎のほうが好きだからですね・・・」
とスネちまいました!あわてた信玄は源助に
「弥七郎と寝たことは一度もない(汗)。もし嘘だったら
甲斐国の一宮、二宮、三宮大明神、富士山、白山、特に八幡大菩薩、
諏訪上下大明神の罰だって受ける覚悟だからね。」という手紙を送りました。

信玄、25歳のときのラブレター(笑)
こんな手紙が後世にまで残っちゃってかわいそうに・・・

戦国時代、男色を好まなかったのは、豊臣秀吉だけと言われる程、当たり前の事だったようです。武田信玄は高坂昌信に熱烈なラブレターを送ってますし。戦場で共に戦い、勝利し、生き残るという意味合いが強かったようです。

上杉謙信については前半生に不明な部分はあるものの生涯不犯であり、未婚、実子なしなので両刀遣いというのはあたらないと思います


質門 「織田信長の小姓、森蘭丸」といいますが、
小姓とはどういった職制、どのような人の呼称なんでしょうか。

解 もとは「扈従」と書き、貴人に付き従って雑用を務める役目で、少年が用いられました。
戦国期になると、武将の秘書的な役割が大きくなり、近習として身辺警護にもあたるため、知識・作法・武芸に秀でていなければ務まらない役目で、男色の対象ともなりました。
江戸幕府になると、将軍の秘書的な役割は側用人が務めるようになり、奥小姓は将軍の大奥出入りの送迎、表小姓は儀式での配膳・御酌などを担当していました。

男色というのもありますが、秘書的な役割が大きかったのです。
ですから、愚かな人物には務まりませんでした。
それと、主君に対しての最終の盾でしたので、本能寺では信長の最期まで彼らは従ったのでした。
また、武家以外にも口減らしなどの目的で、寺に子供を勤めさせたり、金銭で売買されたりしていました。
寺に入ることになった男子は「寺小姓」と言われます。

質門 森蘭丸は美少年のように言われますけれど、根拠は何でしょうか?

解 昔の武将は女性だけでは無く少年ともいたしたそうです.
天下人の織田信長の選んだ夜伽の相手なので少なくとも当時の基準ではトップクラスの美少年だったのでしょう.
信長だけがそうだったのでは無く,各国にその様な立場から一流の武将になった人が何人も居ますので,
当時においては普通の事だった様です

質門 織田信長は、明智光秀が奇襲してきたときに、森蘭丸に
是非に及ばずって言い残したみたいなのですが
森蘭丸は、生き残ったのでしょうか?
誰が、織田信長が最後に言った言葉を
後世に残したのでしょうか?
黒人奴隷だけが、生き残ったって本当ですか?なんで?

解女子供に僧侶等非戦闘員の多くは逃げて生き延びています。「是非に及ばす」と言ったのは最初の頃ですから、後で逃げ延びた人々もまだ本能寺に居た時のことでしょう。そのうちの信長の側にいた誰かが聞いていたわけです。
大久保彦左衛門の「三河物語」には、謀反と聞いた信長が、当時同じ京都に若干の軍勢と共にいた息子の「信忠(の謀反)か」と言い、信忠ではなく光秀だと知ってから「是非に及ばす」という名台詞を口にしたことになっています。それも彦左衛門が生き残りから直接又は間接的に聞いた話を「三河物語」に書いたのでしょう。

息子の信忠なら、光秀と違って信長を殺せば自分がそのまま後釜に座れる確率が非常に高いので、最初は信長がそうに思ったという三河物語の記述はかなり信憑性が高いのではないかと思います。謀反を起したのが本当に信忠だったら、信長は何と言ったのでしょうね?

その後直ぐに逃げられるものは逃げ、残りは全員死んだので、後の消息は、何故信長の遺骸が見つからないのかを含めて真実は闇の中ということになったのです。

えへへ

2006-12-13 13:17:00 | Weblog
死にたい・・・。
死にたい・・・・。
死んだら呪ってやる!!!
奴ら全員呪ってやる!!!!
殺してやる・・!!!!!!!
殺してやる!!!!!!!!!!!!!
殺してやるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!!
死ね!!屑が!!!!
テメェと俺様は違げぇーんだよ!ファック!!!!!
俺様に何でもかんでも指図してんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇよ!!!!!!
くそ!!!
アイツらと同じ空気吸ってると思うだけで
吐き気がするぜ!!!
胸糞悪い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!




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