https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/14412677690fc31e8bf24964da5c6de3
悪魔が書いた聖書
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189745.html
ルシファー研究室から
http://www5.cncm.ne.jp/~ryuji-t/kenkyu/lucif.htm
http://megalodon.jp/2015-1031-1245-22/www5.cncm.ne.jp/~ryuji-t/kenkyu/lucif.htm
1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』icon序章(鈴木啓司訳/人文書院)
ルシファー! 光をもたらす者! 暗黒の精霊に与えられたなんと奇妙な名であろう。なんとしたことだ、光をもたらし弱い魂を盲にするのはこの者か。然り、間違いない。なぜならキリスト教の伝統は、このことを告げる神による啓示と霊感に満ち溢れている故。
エリファス・レヴィの『魔術の歴史』では、引用したこの序文と、「第三之書キリスト教の啓示による魔術の結合と聖なる実現 第三章悪魔について」にルシファーに関する言及がある。秘儀参入者的なルシファー観は、「彼らによれぱ、光を伝達しあらゆる形を集積することからいみじくも《ルシファー》と呼ばれている大いなる魔術的媒介物が、創造物全体にあまねく行き渡っている中間力なのである。このカは創造と破壊両方に働く。アダムの失墜はエロチックな陶酔であり、彼から生まれてくる者たちをこの致命的な光の奴隷にした。感覚を占拠する情愛はどれも、死の淵にわれわれを引ぎずり込もうとするこの光の渦なのである。狂気、幻覚、幻視、恍惚は、この内部の発光体の極めて危険な昂揚状態に起因する。要するに、この光は火の性質を有しており、これを賢く使えば熱と活力を得るが、逆に便いすぎると焼かれ落かされて無に帰さしめられるのである」という。エリファス・レヴィは「星気体」という魂の発する光(あるいは魂そのもの)の存在を説いており、ルシファーというのは、この星気体に光をもたらす、魔術的媒体であるという。それは強力な力を持った光だが、強力ゆえに、狂気や幻覚などの副作用を起こすこともある。また、「秘儀参入者にとって、悪魔は一箇の人格ではない。それは善のために創られながら悪に奉仕することもできる力である。自由のための道具である。彼らは生殖を支配するこのカを、角を生やしたパンの神話で表現した。エデンの蛇の兄弟であるサバトの雄山羊が出てきたのである。それば光をもたらす者あるいは《光を発する者》であり、詩人により伝説上の偽ルシファーに仕立てられたのであった」とも言い、これはエロスの力、フロイトの言う「リビドー」的な解釈ではないだろうか。 (魔術の歴史もアマゾンで買えます)
関連記事~パリを見渡すガーゴイル
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/18.html
ヨーロッパにおけるもっとも印象的な中世のガーゴィルは,明らかにパリのノートルダム寺院の塔にあるガーゴィルであって,その大半は13世紀末の様式による。ガーゴィルの一つは錬金術師の像であり,これらガーゴィルが人間の内なる性質を表しているのだという。こうしたオカルティストたちは,キリスト教教義の目的が,人間におけるデーモンの要素をあがなう(変成)ことだとしている。この仮説の観点では,デーモンの形態は人間の諸要素を表し,人間はこうした要素を贖(あがな)われ,天使の堕天を逆転するようなやりかたでもって,天にひきあげられるのである。
ZURICH郊外の教会にあったガーゴイル
関連記事:台形の法則
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/502.html
アントン・ラベイ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/akuma/lavey.htm
『アントン・サンダー・ラヴェイは1932年にシカゴで生まれた。
彼は、早くからショービジネスの業界に触れ、そうした方面への才能を開花させていた。
高校生のときにサーカス団に入り、猛獣の調教師となった。そして18歳にはカーニバル業界に入り、読心術を学んだ。彼がオカルトや催眠術に触れたのは、この頃らしい。そして、蒸気オルガン引き、占い師、殺人現場専門の警察のカメラマンを経ながら、20世紀の悪魔崇拝の大家としての道を進んで言った。
彼が独自の悪魔崇拝の哲学を構築し活動をはじめるのは、1950年代の頃かららしい。
最初にはっきりさせておくが、彼の崇拝する悪魔とは、世間一般で考えられている悪魔とは、だいぶ異なる。彼の考えるサタンとは、神に謀反を起こして天から堕とされ、セコい復讐にもえるようなケチな存在ではない。
キリスト教の神話に登場するような悪魔ではない。言ってみれば、キリスト教の神話に登場する悪魔など、教会が布教宣伝のために作り出した道化でしかない。
「みなさん、恐ろしい悪魔から身を守るためにもキリスト教を信じましょう。」
「キリスト教の敵は、邪悪な悪魔にあやつられているのです。」
こんなものを信じてみたところで、釈迦の掌の上で大立ちまわりを演じている猿と同じだろう、ということだ。
彼の考える「悪魔」は、そんな存在ではない。
では、それは何か?
彼は言う。人間には、新しい神が必用である。それは、教会にあるような無味乾燥な、奴隷が主人に対するような崇拝を要求する神ではない。人間とは切り離すことのできない存在、「神性」を有しながら人間の痛みを知り、人間と共に欲望や苦しみを分かち合い、それでいて人間よりも叡智を持ち強い力を持った神。
歴史を振り返ると、科学や哲学の進歩をもたらして来た者達は、既存の権威に反逆して来た者たちではないのか? 教会や権力や一般社会に反逆した者たちではないのか?
人間の心の中には秘められた自由奔放な欲望や強いパワーがある。これを解放す者は、高みから人間を見下ろし家畜や奴隷のように人間を扱う者では断じてない。強い反逆心を持つ人類の同胞でなければならない。
では、そうした新しい神とは何ぞや?
「創世記」の時代から、畏怖の念を持って語られてきた謀反と激情の神。人類を誘惑し(=人類に快楽を教えてこれを推奨し)、神の秘密を人間に暴露して迷妄から解放してくれる存在。そう、サタンと呼ばれるものではないのか?
サタンは、人間に罪を犯して悪に服従するようなことは要求しない。彼の目的とは、神やキリストとは異なる方法での人類の救済である。彼は、人間に自由奔放に生きることを薦め、それによってこそ真の人間理解を得ることができる、という。
ラヴェイは、いわゆる「霊的」なものには、強い不信感を持っている。
彼は、儀式魔術なども「神秘めかしたたわごと」、「信心ぶったまやかし」と切って捨てる。
では、なぜ彼の教団では、黒ミサや黒魔術の呪術を行うのか?
「人間には幻想が必要だからである。」
それで、かのクトゥルー神話の邪神への祈り、などというものも出てくるわけである。
彼はある意味、宗教の効能を認め、それを積極的に活用する唯物論者と言うべき側面も持っているように思える。
彼の哲学は、単純な快楽主義ではない。
彼の思想は1969年に出された「悪魔聖書」に集約される。
悪魔崇拝とは宗教というより、人種学である。それはキリスト教とは正反対のものである。すなわち、その実体は「合理主義」と「自己保存主義」であり、本来は世俗的で健全な思想である。単にそれを「宗教」というオブラートで包んでみたものにすぎない。
この健全な思想が、危険視されるのは、むしろ世間を支配しているキリスト教に代表される思想が、不健全なためである。
彼の「悪魔聖書」には、9つの声明文がある。
これを読めば、彼の大まかな価値観が理解できるのではあるまいか?
1.悪魔は節制ではなく放逸を好む。
2.悪魔は幻想ではなく実存である。
3.悪魔は偽善に満ちた自己欺瞞ではなく、優れた叡智である。
4.悪魔は敵を愛するような不合理なことをして愛を浪費しない。愛するに値する者のみに恩恵をもたらす。
5.悪魔は「右の頬をうたれたなら左の頬も向けよ」などと不合理な要求はしない。復讐を要求する。
6.悪魔は責任を負うべきものに対して責任を持つ。
7.悪魔は野獣のごとき人間である。それは、現実にいる動物よりも賢く、時には凶暴になる。高度に発達した精神と知性のために、恐ろしい獣となる。
8.悪魔は、いわゆる「罪」といわれるものを認める。なぜなら、それらの多くは肉体的・精神的な欲求を満たしてくれるものだからである。
9.悪魔はキリスト教においてさえ、人類の親友であった。彼は太古の昔から、ずっとそうであった。
悪魔が書いた聖書
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52189745.html
また、これに対して、ラヴェイは悪魔崇拝者が避けるべき「罪」についても言及する。
これも9つあり、愚鈍、知ったかぶり、唯我主義、自己欺瞞、集団への同調、見通しの欠如、過去の権威の忘却、非生産的な自尊心、美意識の欠如である、という。
彼の理想は、まずは快楽の肯定である。快楽主義は、どこも悪くない。欲望を無理に押え付ける節制は自然に反した不合理で偽善的な行為である。
そして、平等主義のような欺瞞は捨てる。人間を区別し、階層化させる。しかし、その方法はファシズム的な方法では成功しない。あらゆる義務を放棄し、自由な共同体を作ることによって(例えば一夫多妻制を設けるなど)、それは成される。
そして、弱肉強食のジャングルの掟に従った社会を作る。
これによって、人間は解放され、進歩する。
こうした考え方に基き、かれは11から成る悪魔崇拝者が守るべき道徳を挙げる。だいたい、こんな感じである。
1.人から求められない限り、自分の意見を口にするな。
2.聞きたがる人以外には、自分の悩みについて話すな。
3.郷に入らば、郷に従え。さもなくば、その郷から出てゆけ。
4.あなたの郷に入って来たのに、あなたに敬意を示さない客は、遠慮なくぶちのめせ。
5.相手の同意の無いセックスをしてはいけない。
6.自分の物でもない物を奪ってはいけない。さもないと、奪われた人は悲鳴をあげ、助けを求める(そして、結果的にあなたが損をすることになる)。
7.呪術を行って効果があったら、素直にそれを信じること(それが科学的かどうかなど、どうでもよろしい、人間には幻想が必要なのだ)。
8.自分の利益と関係ないものに、文句をつけるな。
9.小さな子供を傷つけてはいけない。
10.人間以外の動物を傷つけてはいけない。ただし、食用にしたり、自分の身を守る等、必用な場合は許される。
11.公共の場で他人に迷惑をかけてはならない。また、迷惑を受けたら注意せよ、聞かないようなら、ぶちのめせ。
要するにこれは、秩序だった合理的な利己主義、快楽主義とも言える。
また、彼は「子供を傷つけるな」、「人間以外の動物を傷つけるな」とし、かの有名な「悪魔崇拝者は子供をさらって生け贄にしている」といった都市伝説や悪意に満ちた噂への対抗も忘れない。
こうなると、当然の疑問も浮かんでくる。
こうした哲学を実践するのに、なんでわざわざ「悪魔」を引き合いに出すのか。もうちょっと、上品で刺戟の少ない言葉を選べば良いのではないのか?
彼は答える。
「悪魔」という名前を使えば精神が高揚する、精神が高揚すれば意欲がわき、自己鍛錬もやりやすくなる。それは、様々な目的を達成するに足る強力な言葉である。もっと簡単に言えば、面白くて発展性があり、そのものずばりの名前だから、我々は「悪魔」という言葉を使うのだ。
ラヴェイは、ショービジネスの世界に身を置いただけあって、ある種の言葉なりシンボルが、人間の心に揺さぶりをかけ、あるいは魅了し、イデオロギーの原動力となることを知っていたのではあるまいか。
「悪魔」という、このインパクトのある、様々な意味や、人間の心に大きな影響をあたえ得る言葉を使ったからこそ、彼の哲学が成功したとも言えるのかもしれない。
彼が、こうした思想を持つに至る一つのきっかけは、警察のカメラマンとして殺人や自殺の現場、そして遺族達の姿を見たことがきっかけだったという。
遺族達は、涙を流しながらも「これも神の御心です」という。ラヴェイには、それが理解できなかった。こんな惨いことをしておいて、何が神か? どうして、遺族が、そんな神に感謝しなければならないのか?』
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/f9a302e0c7df41b8ef249a23d5d71fe1
聖ペテロはイエスに出会う前の名前はシモンであるがガリラヤ湖には聖ペテロというスズメダイに属する魚がいる。学名は「Chromis simonis」という。
Christian Computer Artより:「Chromis simonis」
これが幻の初代ローマ法王
「シモン・バル・ヨナ。お前は祝福されたものだ。このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。」マタイによる福音書の16:18-19
教皇は「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、バチカン市国の首長、神のしもべのしもべ」などと表現されていますがカトリック聖書では「神の代理」となっている。Vaticanという言葉は「diving serpent」でありVatis=Diviner and Can=Serpent(蛇)から由来している。カトリック聖書(ドウエイ版)verse18にはこう書かれている。666~the numeral letters of his name shall make up his number.So let us take his name that is given to this MAN -the Pope of Rome。ローマのPopeは「VICARIUS FILII DEI」(Representative of the SON of GOD・神の子の代理人)であり,GODとはSATAN/LUCIFERのことである。以下のようにヘブライ語数字変換すると.....
DOUAY BibleにはPOPEは神の代理であると実にはっきりと明記してある。米国でCisco Wheeler女史(元イルミナティ11位階の暗黒の母)が言ったことは今でもはっきりと記憶にある。それは「the total papal structure had been built on the supposition that the POPE is the VICARIUS FILII DEL and when the POPE is crowned ,the cardinal who places the TIARA(教皇冠) on his head pronounces him to be VICARIUS FILII DEI」と。ではなぜそうなったのか?答えは『神の名の正義によって脅迫し服従させ略奪・殺戮行為を神権統治によって正当化するためである』。
嘘八百のビデオです
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/bc78129a50b783e47b98e450c7cacc2b
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/bc78129a50b783e47b98e450c7cacc2
メタトロンの魔力
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2225686.html#more
旧約聖書の時代。モーセと共にユダヤの民がエジプトを脱出したとき、黄金の秘宝をシナイ山に隠したと言われる―。時は下って、現代。二人のアメリカ人冒険家の元にシナイ山についてのある情報が舞い込んだ。シナイ山には黄金が埋っている可能性が高く、しかもその山は、従来そうだとされてきたエジプトではなくサウジアラビアにあるというのだ。旧約聖書『出エジプト記』を熱心に読みとき、シナイ山はサウジにあると確信を深めた二人は、中東へ旅立つ―。折しも中東は各国とも軍備拡大を密かに進めており、一触即発の情報戦の真っ直中だった。国際謀略渦巻く中東で、彼らは無事シナイ山にたどり着き、真実を発見できるのか!?「インディー・ジョーンズ」を凌駕する、驚くべき発見の連続―聖書の謎を求めた二人の冒険家が、遂にたどり着いた、知られざる真実。怒涛のジャンルミックス・ノンフィクション。
内容(「MARC」データベースより)
旧約聖書の時代、ユダヤの民がエジプトを脱出したとき、黄金の秘宝をシナイ山に隠したといわれる…。そして現代、二人のアメリカ人冒険家が、シナイ山はサウジアラビアにあるとの情報を得て、中東へと旅立つ…。映画化決定作。
投稿者:Ra Buddhy.
2015/2/12 20:19
小石 泉先生のホームページに 【出エジプト記 No.3 神の山ホレブ】http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2008msg/081130.html
ってのが有りますが。この通りだとすると、前回の記事をも全て納得がいくような気がします。敬白
Bible Land museum
バイブルランド博物館
出エジプト記 No.3 神の山ホレブ
3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 3:2 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。 3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
モーセが住んだミデヤンは古代の歴史地図でも現在のアラビヤ半島のサウジアラビヤ西部にあった国です。モーセはそこで羊を飼っていたときに、神の山と呼ばれるホレブ山の麓にやってきました。そこに不思議な光景がありました。柴が燃えているのに燃え尽きなかったのです。これはモーセを招く神様の方法でした。
ところで、この神の山ホレブとはどの山なのでしょうか。ミデヤンがアラビヤ半島にあったとすれば、今、言われているシナイ半島のシナイ山に行くには数百キロも移動しなければなりません。学者たちの意見でもまだはっきりと決まっていません.
ホレブ(シナイ)山はどこにあったか
現在、ホレブ山はシナイ半島の先端にあるジェベル・ムーサ(モーセの山)と言われています。そして、それが当然のようにキリスト教系の出版物や旅行社のパンフレットに書かれています。そして毎年多くの観光客がそこに行き、感激して帰ってきます。私もその一人でした。しかし、実は学術的にこの山はほとんど何の根拠も無いのです。実はシナイ山の候補地は幾つかあります。ジェベル・ムーサと言う名の山も複数あります。そして現在のシナイ山は最も根拠の無い山であることが分かってきました。それは次のような理由によります。
シナイ半島は歴史上常にエジプト領だった。(1967年6月に起きた第3次中東戦争〔六日戦争〕によってシナイ半島がイスラエルに占領された後の和平交渉でイスラエルがあっさりシナイ半島をエジプトに返還したのも、聖書でアブラハムに神様が与えた領土にはシナイ半島は含まれていないからです。)
シナイ半島には銅とトルコ石の鉱山があり、古代エジプト時代には盛んに採掘が行われていた。そのために多くのエジプト軍が駐留していた。
現在のシナイ山は4世紀にローマ皇帝コンスタンチヌスの母へレナが勝手に決めた聖地の一つに過ぎない。
現在のシナイ山近辺にはイスラエルの100万を越える人口がキャンプする広い土地が無い。
モーセの出エジプトの痕跡になる遺物などはまったく発見されていない。
ところが最近になって民間の考古学者ロン・ワイアットさんがシナイ山の候補地の一つだったアラビヤ半島のラウズ山に行き、はっきりとした確証を発見しました。しかし、サウジアラビヤ政府は考古学的な調査を許さなかったために、ワイアットさんたちは逮捕拘留され75日間も監獄に入れられ、釈放されたとき、全ての持ち物を取り上げられ、そこで見たことは一切発表してはならないと厳命されました。実はサウジアラビヤはこの山をミサイル基地にする予定だったのです。標的はもちろんイスラエルでした。
ところが1988年資産家で冒険家のラリー・ウイリアムズとボデーガードのボブ・コーニュークは、ワイアットさんのチームの一人だった男からそこに莫大な財宝が埋まっていると言う話を聞き、非常な苦労の末にラウズ山に登りました。そしてそこに聖書の記述どおりの遺跡を発見しました。それは彼らの事を書いた「隠された神の山」(ハワード・ブルム著1999年2月角川書店刊行)と言う本に書かれています。
山に登ることを禁ずる境界を示す積み石の列
金の子牛を祭ったと思われる大きな石の祭壇(砂漠にはいない牛の絵が描かれている)
イスラエルの12部族の為に立てた12の石柱
モーセの祭壇と思われる祭壇跡
エリヤが過ごしたと思われる洞窟
黒くこげた山肌
モーセが隠れた岩の裂け目
管理人注:金(黄金)の子牛の関連記事:葦の海の奇跡
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/bf35b3880502c4ec076320c2eeb58316
しかし、実はラウズ山はすでにサウジアラビヤのミサイル基地になっていて、(ここにラウズ山の写真を載せられないのは、そのせいです。)山は有刺鉄線で囲まれ、24時間体制で警備されていました。彼らは非常な危険を冒してそこに入り、山に登り、命からがら脱出しました。財宝どころではなかったのです。しかし、彼らは財宝以上の宝を発見しました。その山のおごそかな雰囲気と、神は居るという確信でした。彼らはクリスチャンとなりました。
実は私はこの話を、その本を読んで、数年前から知っていました。そして、自分がインチキのシナイ山に登って感激したことと、いまだに多くの人々が騙され続けていることを嘆いていました。しかし、最近もう一度この本を読んで、これは神様がなさっておられることだと確信しました。 神様は「神の山」が毎年数万人の観光客が訪れ、麓にはホテルと土産物屋、山頂にはごみの山、大小便を置いて行くようなことにはされたくなかったのです。シナイ山は今のままでいいのだと思います。本当のシナイ山はいつまでも高貴な「神の山」として隠されていてほしいですから。
管理人注:ミディアン
ミディアン (Midian, ヘブライ語: מִדְיָן)
サウジアラビア北西部、タブーク州地域。
ミデヤン人 - 旧約聖書に登場する民族。ミディアンに住んでいた。
ミデヤン (Midian) - 旧約聖書の登場人物。アブラハムの息子で第4子。ミデヤン人の祖先。
アダムからイエスまでの血統図
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb112.html
出エジプト記2章11~22節には.....
民数記の方が詳しい
http://mizuno-net.jp/ashinokai/snote/index.cgi?page=4
聖書ものがたり・民数記
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/128.html
士師記はミディアン人を.......
http://www.thebible.jp/%E3%82%AE%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%B3-%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%AD%A6%E3%81%B3.htm
後に記すNumbers(民数記),Deuteronomy(申命記)のエジプトからMOABへの記述の半数以上が不正確であり,セシル・デミル監督が言うように,幼児のモーゼが捨てられファラオの娘に拾われ育てられた時から自分の出生の秘密を知る時期という中間部分がないというのも不思議です。
By the Brink of OLD NILE。そこへ,ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りてきた。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は,葦の茂みの間に籠を見つけたので, 仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり,しかも男の子で,泣いていた..............。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」<EXODUS・出エジプト記2:4~10>
モーゼがひとりシナイ山に登ることを述べたシリア社会の神話のうち『人間は人間性を棄てて,アリストテレスのことばを借りていえば「獣か神か」どちらかにならなければならない』ということが示されている。モーゼはヤーウエに召され,ヤーウエと交わるために山に登る。召されるのはモーゼひとりであって,ほかのイスラエルの子らは,離れているように命ぜられる。しかしヤーウエがモーゼを山の上に呼んだ目的は,再びモーゼを,山に登り,神と直接言葉(ロゴス)を交わすことのできなかったほかの人々に新しい掟を伝える使者として,山から降らせるためであった。
我々は現在この”魚座の時代”にいる。そして2150年から新しい時代に入る。水瓶座(AQUARIUS)の時代である。旧約聖書ではモーゼがシナイ山に十戒と共に現れた時,彼は人々が黄金の牛を崇拝しているのを見てひどく憤慨した。実際モーゼは石刻版(管理人注:二枚のうちの一枚)を粉々に砕いて人々に心を清めるために殺し合えと命令した。
契約の箱
モーセの十戒が刻まれた石板が収められている契約の箱は、映画「インディージョーンズ 失われたアーク」でも取り上げられた。この映画の最後のシーンで、ナチス軍が今や契約の箱の蓋を開けようとする時に、インディーは昔の恋人マリアンに言う。
「絶対に目を開けちゃだめだ!
契約の箱の中を見てはいけないのである。
だからインディーは目をつぶったのだ.......以下本文を参照