コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

食料で貯水池を造る

2010-10-19 | Weblog

ボンドゥク(Bondoukou)は、アビジャンを離れること北東に400キロ、ザンザン地方の州都である。ここまで来ると、もうサバンナ地帯に入っている。それが証拠に、街の周りにはカシューナッツ農園が、ずっと広がっている。カシューナッツの木は、サバンナ気候を好むのだ。ボンドゥクの市街を出て、灌木林をいくつも抜けながら、未舗装道路を車で走り続けると、急に稲田が広がる低地にでた。

数週間前の話、「世界食糧計画(WFP)」が、稲作によって貧困地域の食糧自給を高める「稲作振興計画」を進めることを考えている。それで、日本にも資金協力を求めたい、という相談が来た。稲作の開発という趣旨は結構ながら、サバンナ地帯でも食糧自給ならやはり稲作というのだろうか。乾燥気候であるサバンナ地帯で、ほんとうに稲作が行われている様子を視察してから、計画の是非を判断したい、と私が言ったら、WFPの担当者が、それでは現地にお連れしましょうということになった。

そして、やってきたのがボンドゥク郊外、カランバ(Karangba)地区の湿地帯である。畦道に、農民たちが集まって、私を待っていてくれた。拍手があって、私は車から降り、農民たち全員と握手した。組合長から、遠くまで広がる稲田を前に、説明がある。この湿地帯に広がる稲田は、42ヘクタール。村の農業組合が50人ほどの農民たちを組織して、湿地を水田に開発してからおよそ10年になる。

「日本大使には、稲田の開発計画への支援をいただいたおかげで、このように堅実な稲作が可能になりました。」
おっと、これはいけない。私は今日は、「稲作振興計画」がどういうものなのかをより良く理解するために、現場を見ておこうとここまで足を延ばしただけである。計画はまだ提案されたばかりであって、日本が資金を提供するのかどうかもまだ決まっていない。この村の稲田が日本の協力でできているというのは、誤りである。いったい私が来たということで、農業組合の人々に誤解があってはいけないし、過剰な期待を与えてもいけない。

ダカールのWFP事務所から来てくれている、計画担当のアクビアさんにそう囁いた。そうしたら、いや大使、それは違って、組合長の言うほうが正しい、実はこの稲田の開発には、すでに日本の資金が入っているのだ、という。
「WFPは、1990年代から、食糧支援の一つの方式として、「食料で勤労を(Food for Work)」という計画を進めてきました。これは、食糧を単に村に供給するだけでなく、その見返りに人々に労働を求めるというものです。その労働によって、村の食糧生産のためのインフラ強化などを実現していくのです。これはWFPとして、食糧不足に対してただ食料を運びこむだけではなく、食料自給能力を高めていかないと、ほんとうの解決にならない、という認識から進めている方式です。」

WFPは、この「食料で勤労を」計画を、コートジボワールでの稲作の開発事業として、1998年から開始した。その時に、この計画に日本が資金提供していたという。ところが、2002年の内乱発生以降、コートジボワールの事業は頓挫してしまい、現在までそのままになっている。WFPが今回提案している「稲作振興計画」は、いわば過去の「食料で勤労を」事業の、復活・継続戦なのである。

「それで、このカランバ地区でも、日本の資金により、水田の区画整理と、貯水池の建設が行われました。貯水池からは用水路が引かれ、安定した水供給が確保されるようになりました。組合長は、そのことを言っています。」
日本からの協力のおかげで、米の生産が格段に上がったので、村人たちは今もって大変感謝しているのですと、アクビアさんは言う。

それでは、その貯水池を見にいこう、ということになって、水田の一番はずれまで足を延ばした。そこには、長さ134メートルの堤が築いてあり、その片側にはゆったりと水が湛えられていた。これは、「食料で勤労を」計画で造られた堤で、村の女性たちが総出で労働し、2001年10月から2002年7月までの期間をかけ、2189立米の土を運んで突き固めたのである。日本からの食糧支援が、これらの労働への対価として、WFPを通じて配布された。いわば食料で貯水池を造った。

貯水池が完成したおかげで、これまで雨がちゃんと降るか降らないか、天を睨みながらしか稲作ができなかったものを、時期を選んで耕作できるようになった。それに、それまでは年1回の雨期に、自然に降って来る雨水だけを頼りに稲作を行っていたのが、貯水池の水を管理することにより、年2期作に拡大することができるようになった。それだけで、生産量は倍になった。

組合長が私に説明する。
「あれはもう何年も前です。あなたのずっと前の日本大使が、いちどこちらの水田を訪問されたことがありました。私は、その時その日本大使に、私たちの農業の発展計画を説明いたしました。しかし、その後の事態が災いして、日本は計画への支援を半ばにして去ったと伝えられました。どれだけ失望したことでしょう。でも、こうしてまた、日本大使が戻ってきてくれたのです。まことに、土地の古老が言う、「生きている限りは、何事も遅きに失することはない(Rien n’est tard quand la vie se prolonge.)」というとおりです。希望は持ち続けるべきものなのです。」

私のずっと前の日本大使が、すでにこのカランバ地区の水田を訪れていたのだった。その当時の日本の協力が、10年ちかい年月を経て、このように花咲いている。その日本大使は、何年か後に貯水池が完成し、日本の協力が成果をあげることを、ここに来てさぞかし夢見ていたことだろう。そしてこの私は、その計画が実現した後の様子を見ているのだ。何だかタイムマシンにでも乗ったような気分である。

「42ヘクタールの水田を、いまだに私たちは、鍬と鎌で腰をかがめて耕しているのです。収穫した稲穂を、臼と杵で突いて、脱穀しているのです。私たちに必要なのは、機械化です。トラクターや脱穀機が導入されれば、いよいよ私たちの農業は、近代化を遂げることができます。どうかよろしく、次の支援をお願いします。」

貯水池の完成に引き続き、農業技術向上と、農作業の近代化の計画が、実施に移される予定であったものが、2002年以降の混乱により、実現しないままになっている。もしこれが再開されれば、さらに生産力は拡大するに違いない。自分たちの力で貯水池まで造成し、このように水田開発に情熱を注ぐ、この村人たちならば、もっと近代的な農業に移行する資格があるだろう。

次はトラクターだな、耕運機だな、コンバインだな。そして村には脱穀機を設置して、と計画を進めて、生産力向上と商品化を進めていけばいいのだな、と私は納得した。そして傍らのアクビアさんに同意を求めると、彼はちょっと難しい顔をした。いや、WFPとしては、その方向で考えることには異論があるのですけれどね、また後ほど説明します、と彼は言った。

(続く)

 カランバ水田を背に、組合長が説明する。

 畦道で区画したり、苗代から育苗する方式は、技術供与で学んだ。

 2002年に築いた、貯水池の堤(の上に道がある)

 土堤の向かって左側に、降雨がたまって、貯水池となる。

 取水口から水を落とす。

 土堤の向かって右側から、水が流れ出て、用水路に至る。

 堤の建設当時(2001年)の写真(WFP提供)

 女性たちが皆で、平らにならす作業をする(WFP提供)。

 そして堤の土盛りを突き固めた(WFP提供)。


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