あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

集団的自衛権に焼身抗議

2014年06月30日 08時47分29秒 | Weblog
 昨日の午後、新宿駅南口で集団的自衛権行使に対する焼身抗議があった。
 言葉が出てこない。

 焼身自殺を図った男性は命を取り留めたようだ。50から60代に見られるという。まず最初に思ったのは自分の知り合いなのではないかということだ。ほとんどと言って良いくらいマスコミが報道しないので詳細が全くわからないが、かつてぼくと同じ闘いの現場にいた人である可能性は依然として低くない。

 マスコミの対応は意図的に見える。確かに最近の傾向として自殺報道は控え気味にするようになってはいるが、これだけネット上で騒がれている事件をこんなに小さくしか扱わないのは、たぶん今日が集団的自衛権行使容認の大きなターニングポイントだからだ。マスコミが報道しないのはこれだけではなく、頻繁に行われている抗議運動や集会についてもほとんどちゃんとした報道がない。
 一方で海外メディアの扱いは比較的大きい。日本でこれだけ激しい抗議行動が発生するのは珍しいからだ。写真も動画も多数存在しているし、その意味ではマスコミ向きの「ネタ」でもある。

 男性の意図は今のところ全くわからない。しかし正直に言ってぼくもこうした抗議の方法を考えないわけではない。もしそれで安倍政権を退陣に追い込めるとか、集団的自衛権の行使容認を止められるというのであれば、自分の命くらい失っても良いかもしれない。本気でそう思う。
 しかし、本当に残念なことだけれどただの庶民の命など毛筋ほどの重さもないのだ。ぼくが仮に100人死んだところで、おそらく安倍政権に何のダメージも与えられないだろう。そのことを今回のマスコミの対応がよく示している。
 人の命はその人にとっては唯一のものだ。というより全宇宙そのものだ。しかし大きな力、大きな流れにとっては何ほどの大きさでもない。抗議の自殺というのはたぶん過去にも沢山あったが世間はそれを受け止めてはくれない。残念ながら文字通り死人に口なしにされてしまうのだ。

 どんなに悔しくても、細々でも何かを言い続けるしかない。少なくとも今は。

過去を学ぶ、過去に学ぶということ

2014年06月29日 17時22分05秒 | Weblog
 今日(6月29日)の朝日新聞・天声人語の冒頭は、明治時代の川柳師・井上剣花坊の「暖室に酒呑みながら主戦論」という川柳から始まっていた。この当時はおそらく特権階級に対する批判、皮肉であったのだろうが、現代日本では国民全てが、まさにクーラーのきいた部屋でビールを飲みながら集団安保で自衛隊を中東に派兵できるようにすべきだとか言い合っているような状況だ。
 天声人語ではこの後に第一次世界大戦の悲惨を描いたレマルクの小説「西部戦線異状なし」が引用される。前線の兵士は命をかける。それは敵も味方もそうだ。そして兵士たちは戦争がなければ個人的には何一つ戦わなければならない理由がない。一方でエライ人達は相手の領土をどうぶんどるかという皮算用をしている。
 こうした感覚はその当時の西部戦線では特別なものではなかったかもしれない。開戦の年のクリスマスにはあの有名な塹壕の奇跡が起こった。最前線で対峙していた英軍と独軍の兵士たちが勝手に戦闘を止め、歌を歌ったり、遊んだり、相互に遺体を回収したりしたのである。当然エライ人達は激怒して休戦を禁止し、世界大戦は泥沼化していった。

 戦争をやるのは支配層であり、駒となって戦争をやらされるのは下層の庶民である。戦争をする理由は上にしかなく、下には苦痛だけが押しつけられる。そのことは日本においても、つい最近までは常識的な考え方だった。それが今ではむしろ下の方から好戦主義がわき上がり極右政権を支えている。つまりこれがナショナリズム(国家主義)だ。

 それではナショナリズムの反対概念は何かというと、それはインターナショナリズムである。国際主義、つまり国家の枠を超えて民衆が連帯しようという思想だ。
 インターナショナリズムは必ずしもマルクス主義者の概念ではない。しかしインターナショナリズムを理論的に支える概念がマルクス主義には存在した。それが階級闘争論である。
 あらかじめ言っておけば、階級とは経済学的・哲学的概念であり、学問的に規定されたいわば抽象化された概念である。ある時代のある地域の現実においてはとても明確である場合もあれば、べつの時代べつの場所の現実でははっきりしないこともある。現代日本に暮らす我々にとって、誰がどの階級なのかはっきり区分けしろと言ってもその境界はあいまいにならざるを得ない。
 しかしそうは言ってもやはり階級は存在する。資本主義の原理的な構造は資本家階級が労働者階級を一見それとは分からない形で支配し、富を奪い取っている(これを搾取という)ものなのである。

 資本主義社会においては基本的には皆同じ構造をしていると考えられ、その視点から見れば、どの国の資本家も根本的には同じだし、どの国の労働者も根本的には同じ境遇におかれている。それはグローバリズムが叫ばれるようになってますますはっきりとしている。資本家は事業を国際化してグローバル企業化し、国境に左右されることなく自分(たち)にとって一番利益になる方法で収益を上げる方策を採る。そして収益を上げるということはとりもなおさず、労働者階級(もしくは無産者階級ともいうが)から搾取することに他ならない。
 こうした思想を背景にして、つまり資本家が国境を超えて搾取するのならば、労働者階級の根本的な利害も国境を超えて一致しているはずだという考え方が、労働者の国際連帯=インターナショナリズムを支える根拠となったのである。

 もっとも現実の労働者階級の目に映る光景は理論とは正反対のものである。事実としては軍事的もしくは経済的に強い国の労働者階級は弱い国の労働者階級よりずっと豊かで快適な生活が出来る。労働者階級にとってみれば国に戦争や経済で勝ってもらった方がよい。もちろんそれは事実としては、労働者階級にもたらされる利益より、より多くの利益が資本家階級に転がり込んでいく構造になっているのであり(そうでなければ資本家階級は事業も戦争も行う理由がない)、相対的にはますます労働者階級と資本家階級の格差が拡大していく、つまり相対的に労働者階級が貧乏になっていくということでしかないのであるが、このことはまたいつかちゃんと考察しよう。

 ともかくもマルクス主義の理論に大きく支えられたインターナショナリズムは、マルクス主義の衰退とともに力を落とした。それは結果としてナショナリズムの勢力を拡大することになった。具体的にはグローバリズムと呼ばれる米国ナショナリズムの世界制覇とそれに反発するイスラム原理主義や各国・各勢力のナショナリズムが、相互反応しながら激しい勢いで極大化している。
 ひと言で言えばこれがポスト冷戦=21世紀型の世界構造なのだが、これをもっとマンガ的に表現すれば、世界のバランスを支えていたマルクス主義という左側の支えが切れてしまい、一気に世界が右側に揺れてしまったとも言えるだろう。

 いわゆるリベラリストが「リベラルな勢力がいなくなった」と嘆いている。しかしそれはリベラリスト自身が社会主義、共産主義勢力を嫌って排除してきた結果でもある。左側の重しが無くなったから世の中は一気に右に傾いた。
 当然、リベラリストはリベラリズムの社会が良いのだろうし、それを実現したいと思ったのだろうけれど、現実の世界に自分にとってだけ都合の良い社会など作れるはずがない。自分にとってやっかいな嫌な存在であったとしても、それを排除してしまったら、実は自分の求めていた世界からも遠ざかってしまうのだ。もちろんこのことは左翼にもわかっていなかったし、おそらく現在の右翼勢力にもわかっていない。右翼にとっては現状は千載一遇の好気に見えているだろうし、自分たちの求める世界に一気に近づけると思っているかもしれないが、ナチスでも昭和ファシズムの日本でも、もしくはポスト冷戦期のアメリカでさえ、破滅の道を歩んだという史実をしっかり振り返ってみることだ。

 過去の歴史が、そして過去の多く人達が、われわれに多くの貴重な教えを(それは多くは失敗の教訓かもしれないが)与えてくれている。冷静になってそのことを学んでいくことにしか、未来は存在しない。

集団的自衛権に関するふたつの矛盾

2014年06月28日 16時57分45秒 | Weblog
 世の中には理屈に合うことと理屈に合わないことがある。もちろん人間は理屈で生きているのではないから、別に論理に殉じる必要もない。
 ただ理屈が通らなくてはならない問題もたくさんある。政治家の言葉もそのひとつだ。だから政治家は必ず理屈を用意する。しかしだからこそ、逆に理屈が通らないことが明らかになったりもするのだ。

 先日、テレビ朝日の「モーニングバード」で、記者の玉川徹氏が国会議員の歳費削減問題を追及していた。共産党にこのことをインタビューした生々しいビデオが流されたが、ここで共産党側は削減を検討するべきだと言いながら、何度も話を政党助成金問題にすり替え、話をごまかそうとした。そもそもインタビューを拒否した与党や民主の方が上手とも言えるが、ここまであからさまに理屈に合わない発言をする共産党の程度というものが垣間見えた。

 さてしかし、共産党のちぐはぐな対応など比べものにならないほど理屈に合わないのが集団的自衛権行使容認論議である。
 公明党ははっきりと集団的自衛権に反対していたはずだが、結局いつの間にか自民党案を容認してしまったようだ。なんだか非常に細かい助詞の使い方を変更させたから暴走ストッパーの役目を果たしたと胸を張っているが、小手先のテクニックとも呼べないような言葉遊びで、実質的に憲法を否定することを認めてしまったのは、まさに権力のために最後の魂まで売り渡したと言われても仕方ない。
 政府・自民党は公明党との協議は儀式としてやっただけで、実際、政府答弁書などでは公明との協議ではなんとなくうやむやにした集団安保での武力行使を悪びれもせず明らかにしている。助詞の「は」だの「が」だの言っているレベルではない。

 今回の問題は自民党側の言葉遊び戦術に皆がはまってしまって、最も根本的な矛盾が見えなくなっている。もちろん当然見えてはいるが、あえて触れないだけかもしれない(山崎拓氏は正面から指摘していた)が。

 集団的自衛権問題はそもそも憲法問題であり、安保問題である。以前から指摘しているように、これはアメリカ合衆国の世界戦略の中で日本に「押しつけられた」裏と表の二つの憲法だ。そして国際法解釈上、安保の方が優位に立つ最高法規にならざるを得ない。
 合衆国側から見ると第二次世界大戦後、日本に永久的に武装解除をさせるこが最も良い戦略であった。そうしたアメリカの思惑と日本人の厭戦気分=もう戦争はしたくないという思いがマッチングして奇跡の僥倖として戦争放棄・平和憲法が誕生したのである。
 ところが極東情勢は合衆国の予想を超えて激変した。中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発である。さらに社会主義革命は東南アジアへ怒濤の勢いで波及していこうとしていた。合衆国の戦略は日本に強固な橋頭堡=軍事拠点を築く方針へと転換した。そこで生まれたのが日米安保である。
 しかしここにはすでに日本国憲法が存在していた。またアメリカとしても日本に再軍備を許して軍事大国化してもらっては困るという気持ちもあったはずだ。そこで日米安保は軍事同盟であるにもかかわらず極端な片務条約になった。つまり日本は米軍の浮沈空母としてアメリカが自由に使える基地を提供し、全面的に米軍基地を維持・保全する。米国はその自分の基地、極東における戦略拠点を守るために日本に対する武力攻撃から日本全体を守る、ということだ。
 こうして見る限り、日米安保は日本国憲法「押しつけ」よりずっと屈辱的な条約であることがわかる。しかし「愛国者」である右翼たちはなぜだか憲法にのみ敵愾心を燃やす一方で安保は大好きだ。これも理屈に合わない話ではある。

 ともかくも安保が片務条約になっているのは、日本の側の論理ではなくアメリカ側の意図によるのである。つまりアメリカに使いやすいように、日本を属国視して作られているのだ。
 そうなると現在語られているようなアメリカだけに負担を負わせてはならないなどという理屈は出て来ようがない。もし日米が平等になるのだと主張するのなら、片務条約を双務条約に改変するというのなら、まずもって日本側の一方的負担を拒否する方が先なのだ。もし日本側の負担をそのままに日本が集団的自衛権を発動するとなったら片務はよりひどくなってしまう。
 つまり集団的自衛権と現在の日米安保は矛盾する関係にある。対等な関係を構築するための集団的自衛権であるというなら、現在の安保は破棄されなくてはならない。

 もちろんこうした矛盾が発生するのは、そもそも安保が日本国憲法とセットとして合衆国が日本を支配(もしくは利用)するためのツールだからだ。そうすると当然憲法の問題も考えざるを得ない。
 だいたい今回の集団的自衛権の話は集団的自衛権を行使することを目的に始まったものだったのだろうか? 本当のところは安倍さんにしか分からないかもしれないが、思い返してみれば最初は改憲論議だったのだと思う。もちろん改憲の目的=本丸は戦争放棄の撤回と軍隊の保持にある。当初から安倍首相が目指しているのは日本を公然と戦争の出来る国家へ改変することである。
 しかし改憲論議がなかなか思うように進まない中、その代替策としてともかく実質的に戦争に参加できる道として見つけたのが集団的自衛権行使容認論だったのではないのか。

 ところがここにも大きな矛盾が存在する。
 自民党が作った新憲法草案はほとんど全面的に憲法を書き換えるものである。章立てこそ現憲法に似た作りになっているが、中身は全く別物になっている。ようするに石原老が分党を決断するまでこだわっている「自主憲法」である。
 これはもちろん現憲法の否定である。この憲法じゃダメだ、ということである。ところが集団的自衛権行使容認は憲法解釈の変更なのだ。これは根本的におかしいのではないだろうか。
 現に安倍首相は集団的自衛権行使容認についての記者会見では、さかんに現憲法の素晴らしさを強調し、このように国民を守るという精神に満ちた憲法が集団的自衛権を認めていないわけがないという論理で話を展開した。
 とすると、現憲法は十分現実に耐えうる憲法であると言うことなのだろうか。そうだとしたら改憲論はいったいどうなるのか。
 まさに改憲論の立場と今回の集団的自衛権行使容認の論理は完全に矛盾しているのである。支離滅裂と言うしかない。

 論理が破綻する、理屈が通らないことを言う、というのは、その論者が論理的思考でものを考えられないからなのだろうか。そんな人間が総理大臣をやっているのだろうか。もちろんそうではない。
 政治家や官僚、大企業経営者が論理的に矛盾したことを言うのは何か本質的なことを隠しているからである。共産党が議員歳費の見直し論議をするべきだと言いながら、その議論は今するべきではないと主張するのは、本当は議員歳費を下げられたくないからだ。安倍首相の支離滅裂も、それに乗せられる(ふりをする?)公明党も、日本を戦争国家にすることが目的だとは公然と言えないから、訳の分からないことを言って国民や支持者を煙に巻いているのである。

 問題なのは、そんなことは十分分かっていながら、やはり心の中では戦争国家になっていきたい人々が、積極的にせよ消極的にせよ、こうした矛盾に目をつぶり、表面的な議論についてだけああだこうだとさえずっているという現実である。それはマスコミであり、評論家であり、実はあなたの隣人だ。そして更に大きな問題は、あなたがそのことに無関心であることなのである。

ワールドカップ雑感

2014年06月27日 18時00分29秒 | Weblog
 サッカー・ワールドカップ・ブラジル大会ではついに予選リーグが終わり、決勝トーナメントへの出場国が決定した。残念ながら日本を含めてアジア・太平洋地域、というより東半球の国は全滅した。オーストラリア、イラン、韓国、ロシアはすべて消えた。
 いくつか感じたことがあったのでランダムに書いてみる。

 勇気について。
 今回の日本代表は全く良いところがなかった。初戦敗北後、リスクを恐れず勇気を持って戦わないからダメなのだという批判が多かった。相手は強いのだから守りが手薄になっても攻めて行けということだ。いずれにせよ何も失うものが無い最終対コロンビア戦では、そこでとにかく突っ込んでいく戦術が採られた。その結果が大量失点による敗北となった。
 こうした結果を見て評論家は、これが現在のリアルな実力であると分析している。妥当な評価だと思う。
 もちろんこれは所詮ただのゲームだから、それでよい。強い者もいれば弱い者もいる。選手のひとりがインタビューで「勝ち負けのあるスポーツだから」と語っていたが、まさにそのとおりだ。敗者がいるから勝者がいる。大きなリスクを背負って捨て身の攻撃をするのもアリだ。勝ち目がなさそうな者があっと驚く方法で巨大な敵を打ち倒すところがおもしろい。
 ただ、結果として示されたのは、日本代表には別に勇気が足りなかったわけではなかったという事実であった。「勇気」を持って突撃したら完敗したので、これはつまり無謀と言うことだ。当初、消極的に見えた日本代表の戦法は仕方のない、合理的で常識的な判断だったということが、逆説的に証明されたのである。まあどのみち勝てないことに変わりはないが。
 繰り返すが、ゲームならどういう戦術を採ってもよい。ゲームである以上だれかが負けることは当初から決まっているのだし、負けても次の試合、次の大会はある。しかしこれが政治や経営や戦争だったら、そんなことが言えないのは明らかだ。現実社会はゲームではない。
 資本主義社会=近代の論理の中にいると、我々はしばしば現実をゲームとして捉えてしまいがちだ。競争社会という言葉がそもそもゲームのニュアンスを含んでいる。評論家もよく「アメリカでは失敗した人にも次に成功するチャンスが与えられている」などと口にする。しかし現実の社会の中では誰かの失敗はその人だけの不幸では済まない。大きな成功の裏側には同じだけの「失敗」が存在し、さらにその裏にはより大きな不幸が存在する。現実の社会は勝ち負けだけではない複雑な連関がある。だから裏の裏は表ではなく、裏の裏にはさらに奥深い裏がどこまでも続く。
 サッカーにおいては格好の良い勇気であったことが、現実では誰かの横暴や蛮行でしかないことを、ちゃんと理解しておかねばならない。

 責任について。
 ザッケローニ監督は予選敗退後、即座に辞任を表明した。内田篤人選手もその真意はわからないが代表からの引退問題に触れた。
 本当に彼らが責任をとらなくてはならないのかどうかは、ぼくにはわからない。しかし彼らが自分の立場と責任をしっかり自覚しており、結果に対して自分の役割は終わった、次の人材に託すべきだと冷静に判断しているのなら、それは立派なことだと思う。現在の日本の政治家、官僚、経営者には求むべきもない潔さである。

 応援スタイルについて。
 応援する人達のスタイルは、もちろん自由だ。別に批判するつもりはないが、個人的には不快なものもある。
 よく日章旗の問題が話題になるが、実はほとんどの人が本物の日章旗と別の旗との区別が付けられないそうだ。ぼくもよくわからないが、日章旗によく似た別の旗というのが色々存在するらしい。たとえば海上自衛隊の旗は正確には日章旗ではないそうだ。右翼から攻撃の的にされる朝日新聞の旗だって日章旗に似ている。
 ただここにはセクハラと同じ問題が存在する。日章旗がレイシズムのシンボルとして批判され、またそれに対する反発が起こる。それぞれに言い分はあるのだろうが、結局のところ、その場にいる相手がそれによって不快になるかどうかで、それがレイシズムかどうかが決まるのである。
 正直に言ってぼくは日の丸と君が代がとても不快だ。ただそれを純粋に信奉する人がいる以上、時と場合によっては我慢しなくてはならないときがあるとも思う。重要なのは日の丸を掲げ、君が代を歌う人々にもそれを理解してもらいたいということである。不愉快に思い、それを拒絶する人がいるということを認めないのは人権侵害なのだ。
 もうひとつ、今回のテレビ中継を見ていてこれはアウトだろうと思うスタイルもあった。日の丸鉢巻きに「神風」と書いてあるやつだ。戦争末期の特攻戦術を否定するにしても肯定するにしても、それを軽々しく扱うことは不謹慎だと思う。暴走族が神風鉢巻きをするのは、ある意味でこの社会に対する反発と自らがアウトローであるという自覚を根底にしていて、そこには複雑で屈折した「特攻」のメタファーがあるのだけれど、世界的にスタンダードな場所で日本代表に対する公の応援としてはいただけない。
 こうした問題はようするに戦争の問題につながっていく。簡単に言えば侵略と戦争への反省がないと言うことだ。安倍首相をはじめ歴代の日本政府は公式には昭和の戦争を侵略であったと認め、反省すると述べているにもかかわらず、現実の日本国内における教育では全くそれを反映させようとしない。むしろそれを隠蔽して逆にかつての戦争を肯定しようというキャンペーンをやっているというのが実態だ。そのことがまさに神風鉢巻きを平気で巻き、それを平気で世界中にテレビ中継させてしまうことにつながっているのだと思う。
 それでは何故かつての戦争を否定できないのか。それは戦争責任を問われたくない人々がいたからだ。はっきり言って昭和天皇も軍部も財閥も、みな戦争を推進した責任があった。しかし実際には数人の政治家と多数のBC級戦犯だけに罪を押しつけて、本当に責任があった人々は何もなかったように戦後社会に復活し権勢をふるった。実はそのことこそが最も悪い負の遺産なのである。最も重い責任を持つ者が最も責任をとらない体質がレイシズムのひとつの原因でもある。

 応援マナーについて。
 その一方で今回は日本サポーターが試合終了後にゴミ拾いをしている姿が報道され、世界のメディアが賞賛した。東日本大震災でも略奪がなかったと国際的に驚かれた。しかし原発事故の責任を誰もとっていないことが伝えられたら、更に驚かれるだろう。責任をとらないエライ人と自ら進んで責任をとる民衆、まさにこれが日本である。
 それではなぜ日本人はマナーがよいのか。これはおそらく戦後民主主義がもたらした成果が大きい。
 もちろんその前提には明治以降の国民統治の歴史もある。明治政府は先進国と肩を並べることを目指し、統一国家形成の戦略を採った。そのひとつが身分制度の廃止である。その装置としては天皇制が使われた。日本国民は天皇の赤子(せきし)として平等であるという教育を行ったのである。事実としては激しい階級・階層間の差別があったのだが、それが戦後民主主義の導入とともに理念として花開いた。高度成長期には一億総中流などとも言われた。
 それは企業の家族型経営、終身雇用と年功序列制度によって、能力にあまり左右されずに安定的な収入を保証することにもつながったし、平等主義を基礎とする人権意識の高まりも生んだ。先日自分の年間報酬を9億円と公表したカルロス・ゴーン日産社長は、日本の役員報酬は低すぎると語ったが、まさに日本型経営においては経営者と労働者の報酬格差が比較的低く抑えられてきたのである。
 平和と秩序と安定は平等によってもたらされる。自由主義者はそれを停滞と呼んで怨嗟するが、激しい競争と格差の社会は人々の心を荒廃させ、不安定化を呼び込む。しばらく前までは日本人は個性が無さ過ぎる、均一化しているという批判が日本人論でよく語られたが、それは日本人の平等主義のひとつの現れでもあった。またそれは閉鎖的なムラ社会の原因だとも言われた。確かにイジメ問題においては、ひとつの集団の中で同一化、均一化していないと排除されてしまう構造が見て取れる。ただこの問題はまた改めて考えよう。
 現在、政府や経済界から労働力不足の対応として外国人労働者への門戸を広げようという意見が強まっている。ぼくは基本的に外国人受け入れを拡大するべきだと思っているが、しかし現在言われいてる外国人労働者受け入れ論には強い違和感を感じざるを得ない。
 政府や経済界がやろうとしているのはあくまでも安価で使い捨ての出来る労働力の確保であって、「人間」を受け入れようとしているのではない。日本人の若者が賃金が安くてやる気にならないような仕事を、もっと安く実現しようとしているだけだ。いわばロボット導入と同じ発想なのだ。
 これは大変危険なことである。欧米がすでに何十年も前に(もしくはもっと前から)始めた政策であり、我々はすでにその結果を目にしている。移民排斥の極右の台頭と移民や下層労働者による暴動の頻発だ。つまり差別と貧困に苦しめられる移民と、その移民に職を奪われる下層労働者が爆発しているのだ。
 もし外国人労働者を受け入れるのなら、あらゆる面で日本人と平等にしなければいけない。もちろんそうしたら企業の目論む大きな利益は得られないだろう。しかしそれはこの現在世界から賞賛される日本社会の長所を守るために絶対に必要なことである。
 東日本大震災で暴動も略奪も起きなかったというエピソードに、関東大震災の史実を重ね合わせてみると良い。そこで起きたのは朝鮮人虐殺だった。このことはしっかり考えておかねばならない。

都議会があいまい幕引きへ

2014年06月26日 17時46分24秒 | Weblog
 都議会のセクハラ野次問題は、やはりと言うか、あいまい決着で幕引きがはかられた。正直に言ってぼく自身は、事実そのもの(誰が、何を、どういう意図で野次を飛ばしたのか)さえ全く明らかにされなかったと思うので、評価の仕様もないという気分だ。
 今回の問題でぼくが感じた違和感に似たことを指摘している記事があったので紹介しておこう。

「都議会ヤジの問題で大はしゃぎする人たちが軽すぎて、頭痛が痛い。」

 ぼくとは全く立場や考え方の違う人だし、別にこの文章の全てに賛同するわけではないが、今回の問題の本質を突いていると思う。

 都議会ではこの問題に関する三つの提案があった。自民系、みんな系、共産党のものである。自民の提案はようするに「まあここで幕引きにしましょう。これ以上事を荒立てるのはやめましょう」ということだ。これには結果的に全会派が賛成したようだ。
 みんな系の提案は民主党と生活者ネットのみの賛成で、逆に言えば他の会派は否決にまわったと言うことだ。野次の発言者である鈴木議員の辞職を求める共産党案は共産党だけが賛成した。
 この結果を見ると何だか体の中をゾワゾワしたものが駆け抜ける。なんだこれは。ようするに党派間のさや当てというか、結局政治勢力同士のいつも見慣れた対立構造でしかないではないか。ようするにこれが前に書いた「ミソもクソも一緒」ということである。誰もこの問題を差別の問題とか人権の問題とか文化の問題だとか思っていないのだ。これもこまごまある政治闘争の材料のひとつでしかないのだ。
 なぜ共産とみんな・民主・生活ネットが共同歩調をとれないのか。政治的にやりたくないのだろうし、またやっても政治的なメリットがないということだ。なぜ会派を超えて賛成・反対を表明できないのか。議会が「都民」のものではなく政党のものだからだ。

 このところ石原環境大臣の「金目」発言と言い、麻生副総理の集団的自衛権問題をイジメにたとえる発言と言い、自民党の失言問題がまた目立っている。政治家に緊張感が無いのだろう。政治家の仕事の最も重要な仕事は選挙に勝つことであって、あとは親分の指示通りに無批判・無反省に議会に出て議決権を行使していればよく、議場で寝ていようが遊んでいようがどうでもよいのだ。何しろ次の選挙までには期間があり、有権者はそれまでに何もかも忘れてしまうのだから。次の選挙に勝つためにはむしろ頭を低くして、なるべく目立たない方が得策でさえあるのだ。

 このことを別の観点で言えば、議会が議会として機能していないと言うことを意味する。
 本来、議会は論議を重ねてよりよい結論に到達するためにある。しかし多数決主義(数の暴力主義と言い換えても良いが)の下では、議会の機能は決議をとることだけになってしまった。いくら議会で議論しても最終的には多数派の意見が通る。本当に決定的な修正やすりあわせは議場の外の密室談合で全て決められる。
 そんな議場の討論に本気になれないのは仕方ないことだろうなあ、と多数派の無気力議員にむしろ同情したくなるほどだ。だって最後の決議以外に仕事が何もないのだもの。政治家の質が低下するのも当然だ。

 たぶん近代の初めにおいては、選挙も議会ももっと真剣で緊張感があったのだろう。代議員はまさにワタシの生存に関わるような重要な代理として選んだのだろうし、議会は政治屋のメシの種としてではなく、共同体の命運を左右する重大な方向性を決める場として、真摯な討論が行われたのだろう。
 その時点では選挙も代議制も議会も民主主義も、本来の意味で機能していたのだと思う。しかしすでに近代は終盤を迎え、近代を形成していたイデオロギーもツールも劣化し機能不全を起こしている。
 冒頭に紹介したネットの文章の筆者が嘆いているように、民衆・大衆も社会に対する責任感や緊張感が無く、ただ一瞬の「祭り」にうっぷんをはらすだけという劣化ぶりだ。

 ただ、しかしそれでもやはり、女性差別はいけない、セクハラは許さないという「まっとうな」意見が、ともかくも、女は黙っていろ、男の論理に従えと言うまるでボコ・ハラムみたいな勢力の言葉よりも取り上げられているのは、まだ救いがあると言って良いことなのかもしれない。近代そのものが腐り始めているとしても、その到達点、果実の種は少なくともそれ以前の時代よりも確実に進化しているし、最後には時代は後戻りせず前進するのだという希望を与えてくれる。
 現在の日本の国政において最も復古的、時代錯誤的な政治勢力が「次世代の党」という名称を採用せざるを得ないことが、そのことを皮肉に象徴している。
 ひとりずつでもこの社会に存在する問題について表面的にではなく本質的に考える人が増えていけば、この閉塞状況は今すぐではなくてもいつかきっと突破されることだろう。

科学の限界と法律の限界

2014年06月25日 23時22分36秒 | Weblog
 昨日、東京の三鷹の限られた地域に大量の雹が降った。テレビで見るとまるで大雪が降ったかのようだ。今日は埼玉県の朝霞で豪雨が降り、アンダーパスでクルマが何台も水没した。昨年は北関東に竜巻被害が続発した。このところ毎年、夏も冬も観測史上初という記録が当たり前のように出現する。
 それは日本だけの話ではない。世界中あらゆる場所で気候変動の兆候が観測されている。

 地球温暖化のせいである。そして温暖化の原因は人間が温暖化物質を大量に放出していることにある。誰もがそれを知っている。しかし科学者・専門家はいまだにそれを断定しない。それをいいことに政治家や企業家は温暖化対策への取り組みを遅らせに遅らせてきた。そしておそらく事態は手遅れになってしまった。この荒々しい気象はますます激しくなって人類を襲うだろう。

 科学者は客観的な証明ができなければ何事も断定できない。科学者の手法が裁判で使われたら、おそらく有罪になる人間はほとんどいなくなるだろう。犯罪、もしくは違法行為を客観的完全に証明することはかなり困難なことだからだ。
 同じく昨日の夜、東京・池袋で自動車が暴走し何人もの死傷者が出た。亡くなったのは若い女性とのことだ。クルマを運転していたのは中年オヤジで、いわゆる脱法ドラッグを買って吸った直後のことだったと言われている。
 脱法ドラッグは法律で取り締まることが難しい。ある化学物質を違法指定しても化学式の違う新しい物質は取り締まれないからだ。ここにも科学の限界がある。

 先日のマンガ「美味しんぼ」の福島での被爆問題でも、多くの科学者は被爆の事実を「科学的に」否定する。確かに現状の知見ではそうなのだろうが、もし仮に現在被爆による被害が出ていることが未来の科学で発見されても、現実の人間にとってはあまり意味がない。

 もちろん政治や法律は科学ではない(そのこと自体を研究する科学は存在するにしても)。だから科学の先回りをして何かを規制したり取り締まったりすることは可能だ。しかしそこには二つの限界が存在する。

 ひとつは信頼の限界だ。
 先日記事に書いた児童ポルノ法がその典型だが、法律の主旨には賛成できてもその運用の仕方が信頼されないから、危険性を感じざるを得ないのである。それは秘密保護法でも、現在の集団的自衛権行使容認でも同じだ。
 そのそれぞれは一般的には重要な問題なのかもしれない。しかしどう考えても政府の本音はは建前上の説明とは違っているだろうと推察せざるを得ない。だから本来はそれらが悪用されることを前提に法律が設計されなくてはならないのに、政府はむしろその逆の方向で実現させようとする。そこでますます信頼感が失われていく。

 もうひとつは恣意性が入り込む限界である。
 温暖化問題がそうであるように、政治家はある問題に対して完全に恣意的な判断をする。温暖化で言えば「疑わしきは罰せず」という対応をする。100パーセント完全に温暖化物質が100パーセント確実に多くの人の生存を奪うという完璧な因果関係が立証されない限り、政治家がこれを確実に取り締まることはないだろう。そして前述のようにその立証は大変困難なことでもある。
 一方で集団的自衛権行使容認の問題ではあり得そうもないようなケースを含めて、どれほど現実に起こるか全くわからないことを、さも明日にでも起こるかのように言いつのって、だから集団的自衛権が使えなくてはならないのだと主張するのである。
 現実に起き、進行している原発事故のリスクについては、ほとんど起こる可能性はないと断定しているのとは全く対照的である。

 我々はまず、科学にも法律にも限界があると言うことを前提にして考えねばならない。科学が全て答えてくれる、法律が全て問題を解決してくれるなどと考えるのは近代合理主義の神話に毒されきっているのである。
 科学や法律を否定しない。しかしだからと言ってそれに100パーセントゆだねない、そこにもっと成熟した人類としての知見でもって判断し対応する。そういう文化が必要なのだろう。

近代を超えるための批判のスタイルとは

2014年06月24日 10時17分56秒 | Weblog
 都議会のセクハラ野次と石原環境大臣の「金目」発言について記事を書いたが、再度何が気になるのかを書いておきたい。
 ぼくはもちろん野次にも金目発言にも否定的、批判的な視点を持っているが、マスコミ報道に対しては違和感を感じるのである。マスコミの姿勢が、というだけではなく、政治家たちの対応や、一般の人々の反応など、もっと言えば当事者たちに対しても違和感を感じる。
 それは何なのか。
 批判が批判のための批判になっているという気がしてしまうのだ。
 批判のための批判とは何か。それは相手にダメージを与えることだけを目的にした批判の形をとった攻撃のことである。それは多くの場合、党派闘争、グループ間闘争、ある層と別の層との闘争の手段として使われる。
 別の言い方をすれば結論が先に存在する批判である。そこには対話や弁証法的な問題解決の深化が存在しない。

 ただそうした批判はとても分かりやすい。くだくだしい論理展開はいらないし、自分の頭で考える必要もない。感覚、感情で感じるだけで済むからだ。もちろんそうした感性は大変重要である。論理は論理でしかない。論理の前に感情が無かったらその結論は非人間的なものにしかならない。しかし論理のない感情は危険でもある。

 それでは批判のための批判でない本当の批判、というより現代の我々が本当に必要としている批判のスタイルとはどういうものなのか。
 それは対立と闘争の手段としての批判ではなく、共存・共生のプロセスとしての批判であるべきである。そしてそれは競争原理と力(知力・武力・勢力)の論理によって成立していた近代を乗り越える手段でもあるはずだ。このブログでは何度も書いていることだが、こうした批判は本質的に説得の手段であり、また常に自己批判を内包していなくてはならない。
 またそれは表面的な事象から掘り下げられ、どこまでも本質を追及する行為になるはずである。

 もちろんそのためには現実に起こったこと、起こっていることを正確に知らなくてはならないのだが、それは実は不可能なことでもある。事実というのは常にあいまいだ。そしてまた現実に起きたことを全て把握することも出来ない。
 そうした限られた情報の中で限界を持つ「私」が問題について思索しなくてはならないのだ。おそらくその時もっとも厚い壁、強力な敵として現れてくるのは自分自身である。
 繊細に謙虚に、しかし大胆に勇気を持って、自分と他者と世界と対峙することを永遠に繰り返すことが、本質的批判ということなのだろうと思う。

「金目」発言の本当の問題点

2014年06月23日 09時51分39秒 | Weblog
 先日の記事の中で、都議会のセクハラ野次に関連して「与党幹部のヤジ発言者への批判はただのしっぽ切りだ」という意味のことを書いた。もうひとつの暴言としてマスコミが取り上げている石原環境大臣の「金目」発言についても同じようなことを感じてしまう。

 事の発端は、原発事故の放射能ゴミの中間貯蔵施設の用地取得に関連して、地元からの用地補償の金額提示の要求に対して、環境省がかたくなに回答をこばんだところにある。
 一般的には石原大臣の「最後は金目でしょ」という発言が、カネで何でも解決する体質として批判されているが、この経緯を見てみれば、むしろ公のところではなく裏側の個別撃破戦術によって、各地主と補償金額交渉を行うことで用地取得を進めて行くのだよと言う意味のようにもとれる。もう少し突っ込んで言えば、カネで解決すると言うより、いかに地主同士の疑心暗鬼を利用して結果的に安く用地を取得できるかという点に主眼があるのではないかと言うことだ。

 政治家もマスコミも「何でもカネで解決する体質」だと言って攻撃しているが、それはそれとして確かにそうだとしても、こういうステロタイプの批判はこの問題の本質に迫れないのではないかという気がしてならない。
 この社会に起こる問題にはカネで解決する以外の方法があるケースはたくさんある。またカネで解決してはいけない問題も数多くある。たとえば基地問題なら基地を移転もしくは閉鎖すればよいのだし、少なくともそれは技術的には可能である。原発建設問題でもそもそも建設しなければよいのだし、これをカネで解決しようとしてきたことにこそ問題があった。

 しかし、原発事故処理問題には選択肢がない。どんなに迷惑な話であろうが、どこかが誰かが引き受けなくてはならない。しかもそれは、だからと言ってどこでも良いわけではなく、自然環境や人々の居住環境などの要素を考慮しなくてはならず、おのずと適地は限られてしまうのである。
 そのとき、心意気だけで引き受けてくださいと言えるはずがない。少なくとも資本主義社会においては「最後は金目」なのである。これは本当に悲しいけれどどうしようもないことなのだ。

 果たして石原発言への批判者がこのことをどのくらい真剣に、深刻に考えて批判しているだろうか。カネで解決することではなく、ここに至ってまだ、金額を巡って策略を巡らそうとする卑劣な対応が批判されねばならないのに、そのことをちゃんと考えているのだろうか。
 「何でもカネで解決しようとする」。確かにそのとおり。しかしそうやって、いわばミソもクソも一緒にしてしまうステロタイプの批判は、ただの批判のための批判でしかなく、自分を優位にするための政治パフォーマンスでしかないのだ。そこに本当に被災者に寄り添う心を見ることは出来ない。

Nさんへの手紙(6)~宗教対立と戦争

2014年06月23日 08時28分10秒 | Weblog
 イラクの内戦は深刻さを増しています。ですがご指摘にあったようなシーア派とスンニ派がどちらかが滅びるまで絶滅戦争をし続けると言うことはないと思います。ぼくが思うに、どちらも滅びないでしょうし、対立が終わることもないでしょう。
 別に不思議なことではありません。キリスト教のカソリックとプロテスタントの対立と同じです。アイルランドでは長いあいだ激しい対立がありますが、別にどちらも無くならないし、かと言って対立が無くなったわけでもありません。

 宗派対立、もしくは宗教対立は人類文明において必然であり、おそらく人類が高度な知的生物として存在し続ける限り無くならないと、ぼくは考えています。
 ただそれが戦争や無差別テロルとして発現されるのは、本質的には宗派対立とは関係ない原因によるのです。戦争や武力対立の大義名分に宗教が利用されるので、多くの人は額面通りそれが宗教対立だと思ってしまいますが、実はそんなのはただの口実に過ぎません。
 世界中、シーア派とスンニ派が問題なく共存しているところはたくさんあるだろうし、それどころかイスラム教とキリスト教が共存することも特別なことではありません。

 現実に戦争や軍事紛争、無差別テロなどが起こる原因は、基本的に経済対立にあります。収奪される側と既得権益を持つ側の対立が根底にあるのです。もっとも場合によっては収奪される側同士が限られたパイを巡って対立することもあるので、複雑な様相を呈しますが。

 もし経済的に全ての人が平等になったら、そこまで言わなくても世界中の人々の生活格差の幅が上と下とで20分の1の間に収まったら、シーア対スンニの対立も戦争にまで至らないと思いますよ。

「今どきまだ」都議会のヤジ

2014年06月22日 18時42分06秒 | Weblog
 6月18日の東京都議会で、みんなの党の女性議員が出産や子育て支援策に対する対策について質問をしていた際に、「お前が結婚しろ」「生めないのか」というヤジが飛んだということでマスコミが一斉に報道している。
 ヤジを飛ばしたのが自民党の極右系議員であることは、ほぼ特定されているらしい。この議員はすでにマスコミの取材攻勢にあっており、自分がヤジったかどうかわからないというニュアンスの支離滅裂な対応をしたり、新聞記者への電話で怒鳴り散らしたりと、かなり追い詰められている様子だ。

 ただ公平に言えば、実はヤジで本当に何が言われたかは定かでない。テレビで放送された録画を元に分析したネット上の記事では「みんなが結婚した方が良いんじゃないか」と聞こえるというものもある(都議会「野次」は「お前が結婚しろ」だったのか)。またおそらく「生めないのか」というヤジについては明瞭な録音が残っている資料は今のところどこにも公開されていない。

 ひとつ注意しなくてはならないのは、マスコミがセンセーショナルに報道するからと言って、それをそのまま鵜呑みにしてしまうのは危険だと言うことだ。このことは常に心にとめておかねばならない。
 それにしても結局のところ、ヤジを飛ばした本人がサッサと名乗り出て、自分の本意について明らかにしないから、訳のわからない話になるのだ。それは何を意味しているのか。名乗り出られない理由があるということだ。普通に考えれば自分が言ったことが差別的であると自覚しているからだろうと誰もが思う。
 しかしもしかすると、問題はもっと深刻なのかもしれない。それは自分が言ったことが差別的なのかどうか自分で判断できないのかもしれない。つまり自分では何が問題なのかわからないが世間が騒いでいるから黙っておこうということだったら、これはかなり困ったことだ。

 ただ別の見方をすれば、それは差別というものの本質でもある。いわゆるヘイト・スピーチのような意識的、意図的な差別的挑発は確信犯であり、良くも悪くも何らかの強制的な対応をする以外に止めることは出来ない。しかし本当に社会において危険かつ深刻なのは無意識的な差別観である。本人がそれを差別であると自覚していない差別こそ、真の問題なのだ。
 今回の都議会ヤジの問題でテレビのコメンテーターはこぞって「今どきまだこんな発言をするのか」と批判する。しかしそれは本当に「今どきまだ」なのだろうか。むしろ現代は意識的、無意識的な差別感情が爆発している時代なのではないのか。

 2ちゃんねるを覗いてみれば、この問題に関するスレッドはあまりに差別むき出しの言葉があふれかえっている。その中には野党・少数派への差別と民族差別、女性差別をこの問題と絡め、当事者の女性議員の個人攻撃をテコにする読むに耐えないものも少なくない。
 こうした極端なヘイト・スピーチを放置しておいて、というより権力者たちが都合の良いときにこうした「世論」を利用しておいて、一方で聖人君子のようにヤジを飛ばした特定の個人だけを批判するのでは、この問題を本質的に解決することになるはずがない。与党幹部たちも表向きはヤジを徹底的に批判するが、それはただ自分たちの利害のためのしっぽ切りでしかない。

 意識的にせよ、無意識的にせよ、差別感情・差別意識が増えるのには、当然理由がある。格差の拡大である。論理的には格差意識が強くなれば、自分より優位な者を恨むようになると思えるが、現実には自分が虐げられれば虐げられるだけ、自分より劣位の者に対する差別意識が激しくなる。
 「今どきまだ」なのではなく、今だからこそ、こうした問題が拡大していくのだということに自覚的であるべきだと思う。

Nさんへの手紙(5)~戦争への道と児童ポルノ

2014年06月21日 10時13分07秒 | Weblog
Nさん

 いつもお手紙ありがとうございます。
 実はぼくはこのところ色々あって、精神的に少し疲れています。他人から見たら大したことではないと思いますが、ぼくは普段と違う状況に直面すると弱いのです。緊張が続いた後で、それと同じくらいの期間、緊張緩和というかボーっとしていました。
 そんなわけでと言うわけではありませんが、新聞もほとんど読んでいません。お手紙をいただいてはじめて、各紙が近代史の特集を継続しているということを知りました。読売と産経が毎週土曜日に近現代史特集、毎日が毎月第二土曜日、朝日が毎月第三火曜日「声」欄に戦争特集、東京新聞は不定期に中野学校特集や学徒兵特集をしているというのですね。

 ぼくは読んでいないので憶測で言うしかないのですが、これは一般的な歴史ブームというようなものではなく、歴史修正主義の台頭という方が正しいのかもしれないと思ってしまいます。
 いよいよ昭和の戦争の時代から80年以上の時が過ぎ、安倍極右絶対政権が誕生して、自衛隊の侵略軍化と国内治安体制整備が本格化してきました。まさに戦後日本が終わり、新たな軍事・警察国家として日本が再出発しようとしています。
 そうした中で、これまでの史観では新たな日本の姿を肯定することが出来ないから、再検証という名目で歴史修正が行われようとしているのではないでしょうか。もちろんそうした動きには反発や批判も起こるわけで、そうしたせめぎ合いが表出しているのかもしれません。

 ところで、治安体制の整備・強化という部分では、先般の特定秘密保持法制定もありましたが、実は数日前に、集団的自衛権に関する騒動に隠されてほとんどの人が知らないうちに、国会である重大な法改訂が行われてしまいました。
 いわゆる改正児童ポルノ禁止法です。もちろんこの法律は大変デリケートな問題を含んでいるので、なかなか反対を言いづらいところもあるのですが、今回の改訂は「児童ポルノ」の単純所持を禁じたのです。NHKのサイトによると「みずからの性的好奇心を満たす目的で所持した場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金を科すとしてい」るそうです。
 ここには大きな問題があります。そもそも何をもって「児童ポルノ」とするのかがあいまいです。歴史的な絵画には男女、老若にかかわらず多くのヌードが描かれていますが、それはポルノでしょうか。現代の画家が同じような絵を描いたらポルノになるでしょうか。誰でも知っているとおり、この境界線はどこまでもあいまいなままです。
 ましてや「みずからの性的好奇心を満たす目的」というのを、どうやって証明すると言うのでしょうか。それこそまさに人の心の中をのぞき込むと言うことですが、結局のところ取り締まる側(否定的な側)の恣意的な判断にならざるを得ないでしょう。もっと踏み込めばエロスとは何であり、どこからどこまでが<違法>な<好奇心>なのか、逆に言えばどこまでが<合法>な心情であるのか、あまりにも難しい問題に入り込まざるを得なくなってしまいます。

 このことを微細に検討しても仕方ありませんし、もちろん意見の分かれるところでもあるでしょうが、怖いのはこの法改定がほとんど報道されず、日本書籍出版協会、日本雑誌協会、日弁連などが抗議声明を出しているのに、その内容も伝えられていないという点です。
 まだ報道されるのなら良いのです。集団的自衛権の問題は報道され、世論調査が行われ、そうした中で安倍政権のニュアンスはどんどん変わっていきました。しかし報道されない、誰も知らないところで行われてしまうことは、世論さえ形成されず、国会議員のセンセイの「良識」だけでどんどん変更されてしまうのです。
 児ポ法はあまりにも多くの問題を含んでいるので、当初の成立時には単純所持の禁止が盛り込まれませんでした。これとは別ですが東京都の有害図書指定問題でも大きな反対運動が起こり大きな論争が起きたことは記憶に新しいと思います。なぜ問題になるのかと言えば、言うまでもなく、この問題は表現の自由や思想・心情の自由に深く関わっているからです。
 それがなぜ、この時期に突然、しかも事実上秘密裏に改訂されてしまったのか。ぼくはここに強い懸念を感じます。例のマルティン・ニーメラーの「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を思い出します。

 集団的自衛権行使容認問題は重大な問題です。しかし戦争への道は単純にただ一本だけあるわけではありません。
 新聞の一見文化的な記事の中にも、TPPや原発・武器輸出、規制緩和などの経済活性化政策の中にも、まさに児童保護やポルノ規制問題にさえ、様々な仕掛けが仕込まれています。重要なことは、表面的な政策の是非ではなく、その根底にある思惑や思想が何なのか考え、見抜いていくことだと思います。