あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

不愉快な安部氏の発言

2014年03月27日 22時50分03秒 | Weblog
 吐き気を催す言葉というのがある。安倍総理の言葉を聞いて本当に生理的に気持ちが悪くなった。23日、オランダ訪問の最中に安倍氏がアンネ・フランク家博物館を訪れたときに発した言葉である。

「(日本で)アンネの日記が破損されたことは、大変残念な出来事でありました。こうしたことが二度と起こらないようにしていきたい」
「歴史の事実と謙虚に向き合い、語り継ぐことによって、世界の平和を実現していきたい」

 日本で起きた「アンネの日記」損壊事件の犯人は(判断能力があったかどうかはともかく)「アンネの日記」は偽物であるという思い込みから犯行に及んでいる。それはようするに「ユダヤ人虐殺」否認論のひとつの発現である。このことは以前の記事に書いた。そしてその記事の中で指摘したように、「ユダヤ人虐殺」否認と「従軍慰安婦」(への国家的関与)否認は、全く同じ思想、同じレトリックに立っている。
 外交関係の圧力によって河野談話の継承を表明せざるを得なかったにせよ、基本的には河野談話否定論者であり、河野談話検証を指示するなど、従軍慰安婦否認の主導者である安倍首相が、このような発言をすることは、まさに上面だけの、すべての責任を自分の外に置く厚顔無恥をさらけ出しているのだと言うしかない。

 何度も書いていることだが、批判は必ず自己批判でなくてはならない。他者への批判は常に自分に返ってくる。他者を批判するということは、自分がそれと同じことをしてこなかったか、していないか、これらから先もしないと言えるのか、そのことを自分に問うことと一体でなくてはならない。そうでない批判には何の意味もない。
 安部氏の発言に限らず、政治家の言動には皆こうした不快感が伴う。今で言えばみんなの党の渡辺代表の「個人的な借金」発言がまさにそうだ。猪瀬前東京都知事の不正献金疑惑を厳しく批判した御仁が、それと同じことをやっていたというのでは、政治家以前に人間としての資質さえ疑わざるを得ない。

 もちろんこのような、ぼくがしている批判も、当然ながら自分自身に問い返しながらしなくてはならない。それは時にはきつく、自分で自分の痛いところをえぐることにもなる。別にそのことをいちいち文章にして公開しているわけではないが、そのような葛藤を抱えながらこのブログを綴っているのだということも、もしご理解いただけるのならば幸いだと思う。


浦和レッズの無観客試合に思う

2014年03月24日 22時38分32秒 | Weblog
 浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONLY」という横断幕を掲げ、かつ指摘を受けていたにもかかわらず球団側も試合終了時までこれを撤去しなかったとして、Jリーグから制裁を受け、3月23日の試合が国内初の無観客試合となった。この横断幕を張った人物の主張について球団側は次のように言っている。

「ゴール裏は聖地、自分たちでやっていきたい。他の人達は入ってきてほしくないという意図があった。最近は海外のお客さんも来て統制がとれなくなる、という話を聞いている」(渕田社長)

 明らかに外国人を排除しようとする意図があるわけで、この「JAPANESE ONLY」のフレーズの意味は、いろいろ解釈している人がいたが、Jリーグが認定した「差別」であることは間違いない。
 ただもっと言えばそれは人種差別のみならず、おそらく一般の観客に対する差別でもある。彼らは「自分たち」とそれ以外の人を区別しており、排除したいと公言しているのである。もちろん「自分たち」の内に入る人が誰なのかと言っても、それは彼らが勝手に恣意的に決めつけるだけのものである。
 おそらくここに差別の本質のひとつが表されている。差別する者とされる者の間にはなんらの客観的な差異がないということだ。それは差別者の側の極めて主観的な線引きでしかない。

 もうひとつ言えば、差別というのは細分化であるとも言える。おそらく今の時点で掲げられた横断幕は英語で書かれていることが示すとおり外国人差別なのだが、彼らの主張に沿っていけば、それはやがて日本人の中の浦和レッズファンかそうでないか、さらには浦和レッズファンの中で熱狂的な者かそうでないか、そして最終的には自分自身かそれ以外か、というようにどんどん差別が深まっていく以外ない。差別者の根本にあるのは自己絶対化であり、自分は自分であるからこそ偉く正しく価値ある存在で、他者は自分でないから劣っていて間違っており価値のない存在だ、という思想である。
 もっとも、いま最後の最後は自分自身かそれ以外かになると書いたけれど、それはあくまで自分が最終的な主導権を握っている場合の話だ。自分が差別者の中心でなかったとしたら、他者を差別し排除していた自分が、あるとき気がついてみたら本流からはずれて、今度は差別され排除される側に回っているということになるだろう。

 今回のJリーグの処分は、浦和に対してと言う以上に世界に対して行われたと言える。すみやかに毅然とした態度を取ることによって、日本のサッカー界は人種差別をしないというアピールをしたのだ。これは世界の中の日本として存在するためには当然のことだろう。
 今回の件についてはマスコミでもネット界でもJリーグを批判する論調はあまりない。反論の仕様がないからだ。だが、この問題を掘り下げようともしていない。
 こうした人種差別行為が目に余るようになってきたことには背景には、日本社会の右傾化がある。この問題の本質は当然ながらサッカーの問題ではなく、ひどくなるばかりの週刊誌などのヘイトアーティクルの氾濫であり、ネットウヨクによるネット世論の蹂躙であり、一般のテレビや新聞のナショナリズムへの傾斜にこそある。
 こうした社会の雰囲気が人種差別やヘイトスピーチへの人々の感度を下げさせ、それどころか平等や平和を主張する人たちへの「反日認定」差別、排除さえ引き起こしているのだ。

 こんなことは誰もが感じていることだ。誰もがわかっていることなのに、なぜかマスコミは奥歯に物の挟まったような言い方しかしない。
 典型的なのはテレビのコメンテーターの「現在の日本にはサッカーに限らずこういうことが他にもあるかもしれない」という発言だ。どういうわけか皆こういう言い方をする。「かもしれない」だって。こんな卑怯な言い方はない。「ある」とわかっているから言及するのだろう。なぜ日本社会が右傾化している、それがこういう事件を生むとはっきり言えないのか。いったい誰にどんな配慮をしているのか。言論人、知識人が言葉を飲み込んでしまったら、思想、表現、言論の自由は死ぬ。

 ずっと以前、いわゆるプチ・ナショナリズムが社会問題化したとき、リベラル文化人たちは口をそろえて「健全なナショナリズム」論を展開した。つまりナショナリズムには良いナショナリズムと危険なナショナリズムがあり、危険なナショナリズムでなければナショナリズムは大いに必要だ、という論だった。しかしもちろんナショナリズムに良いも悪いもない。ナショナリズムである以上その本質は全く同じであって、それがかすかに現れるか、強烈に現れるかの違いでしかないのだ。
 こうした「健全なナショナリズム」論は、ようするにナショナリズムの台頭に対する人々の危機感がインターナショナリズムに傾斜しないように、すなわち資本主義の否定に向かわないようにする防御の言説だった。しかしナショナリズムを否定できなかったことにより、社会はどんどん右傾化を進め、ついには資本主義を守ろうとしたリベラルまでもが「左翼」として批判され、ついに排除される瀬戸際にまで追い詰められてきた。

 口ごもる文化人たちは、その最後の排除を恐れて本質に触れることができない。はっきりと本質を語る人々はすでに完全にマスコミから排除されてしまっている。まさに思想・言論統制の時代は根深いところまで浸透しているのである。
 しかし、まだこうした流れに命がけで立ち向かっている人もいる。日の丸・君が代の強制に反対し戦い続ける教師たちがおり、極右教科書の採用を断固として拒否し続ける教育委員会がある。かつての日本なら当たり前のこと、当然のことをしているだけなのに、今では極左扱いで、マスコミの目は冷たい。
 だがこうした魂の自由を守ろうとする人々が押しつぶされてしまったら、次につぶされるのはあなたの番だ。そのことは肝に銘じておいてもらいたい。


すでに戦争はあなたの隣にいる

2014年03月19日 21時44分33秒 | Weblog
 戦争の危機が迫っていると、ぼくは本気で思っているのだが、世の中はとても気楽そうだ。日本総研理事長の寺島実郎氏が訴えていることだが、現在のウクライナ情勢が最悪米ロの軍事的対立に発展した場合、もし集団自衛権が発動されたら、日本の自衛隊がロシア軍と戦火を交える可能性だって低くはないのだ。日本が自分の利害ではロシアと緊張関係を持ちたくないと思っていても、本当に切迫した事態になったらアメリカもロシアもそんなことは関係なくなるだろう。
 人々が戦争へのピリピリした緊迫感を感じないのは、まさに「平和ボケ」である。もっとも現在は先進国の多くで徴兵制が無くなり、戦争が人々から遠い話になってしまっている。それは日本だけの話ではない。戦後、戦争を止めたことのない合衆国でさえ、多くの人にとって戦争はどこか別世界のことらしい。

 ただその合衆国の人々もテロの恐怖には日常的にさらされている。実はそれ自身が戦争そのものなのだけれど、皆そうした認識がない。誰もそれを指摘しないからだ。
 だがまさに戦争とは、気づかぬうちにやってきてしまうものなのである。15年戦争時の日本人だって、まさかやがて自分が空襲に逃げ惑うことになるなどとは思っていなかったろう。そのころ大半の人にとって戦争は遠い大陸で起きている景気の良いイベントでしかなかったのだ。

 もうひとつ、戦争は決して他国のために起こすものではないということを知っておく必要がある。戦争はいつでも誰かが自分の利益のために起こすものなのだ。そしてそこにいかにも人々が納得しそうな「大義」の看板を掲げて正当化する。人々もそのことに薄々気づいていながら、戦争を始めようとする人たちに付いていた方が得そうだから、自分から進んで喜んでその怪しげな「大義」を支持することになる。
 しかしそれは結局自分自身を追い詰め、首を絞める結果しかならない。戦争に負けたとき、日本人はそのことを嫌と言うほど知らされることになった。それが戦後の平和国家・日本を建設する原動力となったのである。
 そして今、そうした痛みが忘れ去られようとしている。大きな力が痛みを継承することを妨害し、勇ましく景気の良い幻想を植え付けようとしてきたからだ。平和ボケはこうして作られてきた。

 現実にはすでに我々の周囲を「戦争」がじわじわと浸食してきている。そのことを今日ネットでみつけたふたつのサイトを紹介することで指摘したい。

 ひとつはフリージャーナリストの志葉玲氏による「国に裏切られた元イラク派遣自衛官が警告-安倍政権『集団的自衛権の行使』の行く先にあるもの」という記事だ。

 これは読んでもらえば意味がすぐわかるだろう。すでに日本では戦争の被害者が出つつあるのだ。そしてそれはまさに集団的自衛権というものが、いったい我々にどんな危機をもたらすのかを如実に示している。おそらくこのケースは氷山の一角である。目に見えない障害、つまり精神的な障害を負った人ならもっと沢山いるはずだ。そのことをしっかり見据えるべきである。特に自衛隊の活躍を賞賛し賛美し感謝している人たちは、そうした自衛隊員がこのような目に遭わされていてよいものかどうか、ちゃんと考えて欲しい。

 もうひとつは「空襲資料 埋もれる5000点 都祈念館凍結15年」という東京新聞の記事だ。

 ここで注目すべきなのは、空襲の被害を伝承しようとする活動をナショナリストが妨害しているという点だ。
 本来なら自国民の側に立って主張するのがナショナリストであるはずだ。しかしここで行われているのはその全く逆のことなのである。彼らはなぜ真実を人々の目から隠そうとするのか。いったい誰の立場に立とうとしているのか。
 まさに戦争があなたではない「誰か」の利益のために行われようとしていることを象徴しているではないか。

 意識的な反戦主義者・非戦主義者が平和ボケなのではない。思考停止に陥ってズルズルと戦争への道を許してしまうことこそが、度し難い平和ボケなのである。


「アンネの日記」問題が意味すること

2014年03月14日 21時44分15秒 | Weblog
 「アンネの日記」連続損壊事件の容疑者が逮捕された。しかし今回の事件は背景に大変複雑な問題が存在していることをあぶり出した。
 今回の容疑者はどうやら精神的に不安定なようで警察は慎重に捜査をしているらしい。そのために出てくる情報は大変少なく、まだ何かを論評できる状況ではない。ただその中で一部報道では容疑者が書店に勝手に貼ったビラの内容が「アシスタントとゴーストライターは違う」というものだったと伝えられている。報道によっては「アンネの日記」とは関係ないとするものもあるが、常識的に考えれば当然これは「『アンネの日記』偽造問題」を指摘したものと推察される。

 以下ウィキペディア日本語版を参考にして問題のありかを探ってみたい。

 この偽造問題は公式にはすでに決着が付いているのだが、ネット上ではいまだにこの問題を蒸し返す論調が見られる。ただ偽造疑惑が生まれたのにも理由はある。
 周知のようにアンネ・フランクは隠れ家に隠れ住んでいる間にこの文書を書いたのだが、第一にこの文書は純粋な日記ではない。アンネは作家志望でこの日記も公開可能な作品として完成させたい意図があり、そのために元の日記の他に推敲された原稿が存在していたこと。またそのために架空の人物に宛てた手紙の形式という特殊な文学的手法で書かれていること。さらにはアンネたちが秘密警察に逮捕された際に原稿が散乱し、その際たった一人残された隠れ家の提供者の家族がそれをかき集めて保管してあったのを、戦後になってフランク家の唯一の生存者であるアンネの父、オットー・フランクが譲り受け、編集と校正を行った上で、最初に他国語に翻訳した形で出版したという経緯もあった。
 こうした特殊な事情があったために、正確に言えば出版された「アンネの日記」はアンネ自身が書いたものと全く同一とは言えず、オットーが偽作したのではないのかと疑われたことがあったのである。日本のウェブサイトで「アンネの日記」偽造を主張する人たちの多くが主張する記述内容の不自然さは、ほとんどオットーが編集した際に様々な配慮から削除した部分があったことに由来する。ただしその後の原本の研究の結果、出版された「アンネの日記」は基本的にアンネ・フランクの原稿に沿ったものであることが確認され、現行の「アンネの日記」にはその経緯が記されているものもあるという。

 問題がこれだけのシンプルなものであれば簡単なのだが、もちろんこの問題はもっと深く暗い。
 「アンネの日記」偽造論者たちのそもそもの意図は、ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストを否定することにあったからだ。「ホロコースト否認」は戦後70年近くなってもいまだに非常に重大な問題である。
 ウィキペディアによれば「ホロコースト否認」にもいろいろあって、完全否定派から歴史修正主義(一部の事実に新発見があり、全てを否定するわけではないが根幹になる部分は修正されるべきだという主張)まで、手法やトーンが違うらしい。ただ、この問題はよくよく日本の「従軍慰安婦否認」と似通っていることがわかる。その基本的な立場は被害者当事者の証言を否定するという点にある。
 加害側は当初から、また敗北が決定的になってから、徹底的に不利な証拠は隠滅してしまう。公式文書に意図的な戦争加害を証明する文章が残ることは極めて少ない。そうすると残るのは被害者の証言と状況証拠のみになる。それこそ「疑わしきは被告の有利に」という原則を盾に取れば、誰の目にも明らかなことであっても直接的な物証が無いから加害認定は出来ないことになってしまう。歴史修正主義者が狙うのはそこのところなのだ。
 まさに「アンネの日記」もそうした「あいまい」な被害者の主張を記した文書であり、こうした市井の証言のひとつひとつの根拠に疑問を投げかけることによって、全体としてのホロコーストの存在を否定するというのが否認論者の手法である。

 こうした否認は抑圧者にとって圧倒的に有利であり、正義が実行できない危険性をはらむ。歴史の風化をむしろ積極的に進めてきた日本では、こうした正義の立場がどこまでもグズグズと崩れ続け、いよいよ世界全体との倫理や歴史認識の差が決定的に違うところにまで突入しようとしている。それに対して欧米では被害者側の力が相対的に強いこともあり、「アンネの日記」の顛末に見られるように徹底的な検証と被害側証言の保全が図られてきた。
 しかしそうは言ってもそこにはまた別の問題が発生する。表現の自由、主張、研究の自由という問題である。
 欧米ではナチズムは現在でも重罪である。ホロコースト否認自体が犯罪、もしくは犯罪的であるとされてしまう。現在認定された歴史的事実とは違う、また現在の我々の倫理感とは相反するものであったとしても、だからと言ってそれを言論の場で主張することまで一方的に権力によって禁止してもよいのか、そうした対応は本当に正しいのかどうかという問題が生じる。
 特に戦後日本においては戦前の思想、天皇制ファシズム、皇国史観などを思想犯罪にしなかった代わりに、徹底的な表現の自由の思想が生まれた。こうした日本の知識人からは、それが仮にナチズムであろうとも思想的言論弾圧に対しては否定的な意見も出される。皮肉なことにこうした意見は、本来ナチズムやナショナリズムと対立する立場にあるはずのリベラルな知識人からより多く聞かれる状況となっている。

 もちろん今回の事件が直接的にこうした問題を反映したものではないだろう。警察側の判断は思想的背景はないという方向に向かっている。それ自体は我々には今のところ判断材料がない。
 だがこの事件を巡る各種の論調を見ることによって、この問題の奥深さを考えることは出来る。
 たとえば次のようなブログ記事がある。(「アンネの日記破損で、30代の男が犯行認める供述/大日本赤誠会愛知県本部ブログ版”一撃必中”」)
 このブログはいわば正統派の民族派・行動右翼のものである。今となっては「YP(ヤルタ・ポツダム)体制打倒」のスローガンさえ懐かしくさえ思えるほどの「硬派」な団体だ。もっともヤルタ・ポツダム体制打倒と言いながら、最初に「現日米同盟は、対米従属に非ず!」と書き始めなければならない苦しさというか、ご都合主義的ニセ右翼の胡散臭さもいっぱいなのだが。
 ともあれ、このブログ記事で注目すべきなのは次のような文言だ。

「奴らの意図はこれを差別だ朝鮮だと結び付けたい」
「右系の本が図書館で千冊破られても誰も(特にメディア)取り上げない」

 このあたりの認識は大変に興味深い。
 まずここにあるのは強烈な被害者意識だ。しかしもちろんこれは被害妄想と言ってよいくらい現実とは正反対の感覚だろう。現実の日本の状況はどこを見ても極右的な言論が守られる一方、左翼どころかリベラルな発言さえ排除される事態にある。たとえばそれはNHKの会長や経営委員、デヴィ夫人の都知事選での発言、竹田恒泰氏の一連の発言など、最近の「失言」問題を見ても、これらの人たちがメディアから排除されることはない。むしろ彼らはこのことを契機にメディアへの露出が増えているほどである。一方で、靖国参拝に否定的なヨーロッパでの反応について触れた春香クリスティーンや、脱原発活動から国会議員にまでなった俳優の山本太郎などは、一気にメディアへの露出が激減した。
 この団体は実質的に(公式には否定しているようだが)親ナチス・反ユダヤ主義的立場である(しかも親合衆国というところが実は大きく矛盾しているのだが)。おそらくそうした立ち位置から今回の「アンネの日記」損壊事件に対して同情(?)的な論調であるように見える。その点では右翼一般が同じ論調であるとは言えないが、ここから感じられるのは、人権を尊重する立場、民族差別を糾弾する立場を「左翼的」であると見る雰囲気である。おそらくこういう感覚は右派全体に存在するのではないだろうか。ソフトな言い方では「行きすぎた人権意識」というやつである。

 ほとんどの人が正しく理解しているとおり、日本の繁栄は近代主義を全面的に取り込むことに成功したことによる。それがまさに明治維新であった。一方で日本を破滅に導いたのは偏狭な復古主義的ナショナリズムだった。もちろんこれもまた明治維新のもうひとつの面であったわけだが。
 戦後の日本は再び近代民主主義をいわば人類史の最先端のところで実現しようとし、その象徴が平和憲法であった。(新)帝国主義的問題を多く抱えながらも戦後の日本が世界に広く受け入れられたのは、その平和主義によるところが大きい。しかし安倍政権の登場はこの戦後日本の平和主義の清算と復古主義的イデオロギーへの転換点がやってきたことを示しているかのようにも見える。
 「アンネの日記」を巡る諸問題はまさにこの近代主義と復古主義のせめぎ合いの渦中にある。それは別の視点からみれば戦後日本の大きな矛盾を赤裸々に示しているとも言える。それは前掲の右翼団体の反ユダヤ主義でありながら合衆国と一体化しようとする矛盾に現れている。ナショナリスト、民族主義者が「憲法を押しつけた」と主張し、事実として日本へ無差別空襲や原爆投下を行い占領した合衆国を、賛美し追従せざるを得ないという矛盾である。
 そしてそれはただ右翼の中にだけ存在するのではなく、リベラル派といわれる層や左翼の中にさえ存在する。しかしその矛盾はなかなか表だって論議されない。なぜならそれはパンドラの箱だからだ。その問題を追及することは自分たちの思想的基盤を根本から問い直さざるを得なくなるからだ。この問題を根本的に解決することは日本の近代を次のステップに進ませることの中にしかない。それはもちろん安易に過去に逆戻りするのではなく、全く新しい時代、新しい思想を、これまでの自分を否定してまさに血だるまになって獲得する意外ではない。
 この問題が複雑で、深く暗い問題なのだと言うのはこういう意味でもあるのだ。

活路

2014年03月06日 00時02分39秒 | Weblog
 神は越えられない試練は与えないという言葉がある。ぼくなりにそれを言い換えれば、人はどんな状況にあっても活路を見いだせるということなのだろうと思う。

 3月3日、ひな祭りの日にふたつの衝撃的事件が発生した。ひとつは富山のサービスエリアで深夜バスがトラックに衝突して運転手と乗客一人が亡くなった事故。もうひとつは千葉県柏市で起きた通り魔殺人事件。バス事故で亡くなったのは、法律には触れないものの11日間連続勤務していた睡眠時無呼吸症候群の疑いがあった運転手と、東日本大震災で被災して単身赴任をすることになった高校教師、通り魔事件で亡くなったのは長髪茶髪で一見ミュージシャン風の感じだったという30代の会社員だった。さらに衝撃的だったのはこの通り魔事件の容疑者として家宅捜査された若者は、この被害者と同じマンションに住み、犯行の現場を目撃したと証言した人物だったことだ。彼の「犯人は笑っているようだった」という証言は各マスコミが取り上げていたが、遠くから見ていただけでマスクをした人物が本当に笑っているとわかったのか、ちょっと違和感を感じていたのだが、彼が犯人だったとしたらむしろこの言葉は余計に不気味に感じる。
 ちなみにネット上では、バス事故で亡くなった教師が過去に不祥事を起こしていたのではないかという噂が流れていて、一部の人が侮蔑的な発言をしていたりする。

 ぼくは今あえて被害者についても加害者についても少し偏見を与えるような書き方をした。しかし、ほとんどの人は多少の無理をして仕事をしているのだろうし、茶髪であろうが長髪であろうが、仮に過去に何らかの問題を起こした人であったとしても、だから事故や事件に巻き込まれて良いなどということは絶対にない。それは誰もが認めるところだろう。
 あえてそうした関係者のディテールを書いたのは、彼らが本当に普通の人たちだったということを言いたいがためである。
 世の中に生きている人の中で聖人君子とかスーパーマンとか、そんな人はいるかもしれないが、それは限りなくゼロに近いだろう。叩けばほこりが出るというのは俗に過ぎる言い方だが、生身で生きている人間なら必ず色々な側面があり、褒められるばかりの生き方をしている人などいない。

 しかしそれでも被害者たちの人生は輝かしいものだったと言いたい。運転手はいわば命がけで仕事をして殉職したのだし、教師は最期までバスの運転手の傍に立ちバスのコントロールを取り戻そうとしていた。人はその死に方によって評価されることがあるけれど、死は死でしかない。死そのものに意味があるのではなく、死ぬ前に何を為したのか、つまりどう生きたのかが評価されているのである。
 彼らは自分たちの一瞬先の運命がどうなるかを知っていたわけではないだろう。しかしその瞬間、彼らが生きたその瞬間に、自分が為すべき最善の選択をしていたのだと思う。そのことこそが肝心である。我々にとっても誰も一瞬先の運命などわかりはしないのだから。
 柏の事件の被害者についてはぼくはよく知らないけれど、仮に誰にも知られないことであったとしても、彼にも彼なりの唯一無二の輝くべき人生があったはずである。

 人生というのは暗号である。
 一見しただけではそれは平凡で何も特筆すべきことが無いように見えるかもしれない。しかし一人の人の人生は何らかの啓示の連続なのだ。人がどこかで何かを選択し、また間違え、思ったとおりに行ったとしても、巨大すぎる壁に阻まれ、また迷宮に陥り出口を求めてさまよったとしても、それには必ず何らかの意味がある。
 その意味を考え読み解くことこそが人生の暗号を解くということになる。
 ぼくは運命論者だ。運命は変えられない。ぼくがいくら日本革命を実現したいと切望したところで、少なくともぼくが生きているうちに革命など起こらない。そのことは甘んじて受け入れよう。あきらめるしかないことはあきらめるしかない。
 しかしだからと言って、ぼくにとってこの世界全てが無意味かと言えば、おそらくそうではないだろう。ぼくにとって絶望的なこの世界の中でも、ぼくには何らかの活路があるはずなのである。それはきっと人生の暗号を読み解いた先に見えてくるものなのだ。

 自分の人生の暗号を解くことが出来れば幸せである。もちろん自分で解くことが出来ない人も大勢いるだろう。だとしても他の人たちが解いてくれる場合もある。20世紀の人類社会を二分するほどの世界最大の影響力を持った思想界の巨人カール・マルクスも、その葬儀に参列したのはたった11人だけだったと伝えらている。
 その人の人生は下駄を履くまでわからないどころか、下駄を履いた彼が見えないところまで歩き去った後にやっと評価されることだってあるのだ。そのとき人々は彼の人生の暗号をやっと少しばかり解くことが出来る。彼の人生の必然性が見えてくる。

 なぜ自分が生き、何かをしているのか、それが世界にとってどんな意味があるのか、自分の人生は何を成すために準備されてきたのか、そしてだから何を為すべきなのか。人生の暗号にはそのことが隠されている。それを知ることこそが活路を見出す道である。
 運命は変えられない。しかし活路はある。

 今回の千葉の事件で容疑者と言われている若者が仮に犯人だったとしても、ぼくはそういう人にも活路はまだ残されていると思う。運命が変えられない以上に過去を変えることは出来ない。やってしまったことは取り返しがつかない。しかし大事件を起こした犯人にも自分の人生の暗号を解くことは不可能ではない。それが具体的にどんなことなのか、ぼくが今言うことはできないが、彼にもこれから成すべき事、成さねばならぬことがあるはずだ。
 どんな人でも、どんな絶望的な状況でも、活路を見出すことは出来る。宗教的な言い方を許してもらえれば、あとは神が導いてくれる。試練を乗り越えれば結論は神様が出してくれる。もちろん神様なんだからそれは悪い結論であるはずがない。ぼくはそう信じている。



ネットリテラシー

2014年03月02日 18時35分07秒 | Weblog
 この話は書くべきか書くべきでないのか悩んだのだが… ひと言だけ触れておくことにする。そういうわけで、分からない人には全く分からないと思うがご了承願いたい。
 ネットによるイジメは非常に陰険で深刻だ。それはイジメる側が匿名であることや、一度書き込まれた情報が半永久的に消えないということも要因の一つだ。本来的にはサイトを作る者や書き込みをする者の責任で、サーバー側はいわば被害者である。しかしそれがイジメとか差別、誹謗中傷、言葉の暴力であると分かっていながらその書き込みを削除しなかったら、サーバー側も共犯と言われても仕方ないところがある。
 ただ、それがイジメなのかどうか、犯罪性があるのかどうか、微妙な場合にはサーバーの管理者は悩むだろうなぁと思う。

 実は当ブログにも非常に微妙なのだが、イジメなのかもしれない書き込みがある。表面上は全くイジメの要素はない。ほとんどの人はその問題に全く気づかないだろう。ぼく自身それが意図されずに書かれたものなのか、意図的なものなのか、意図されたとしてもどれほどのどういう意図があるのか、想像はしうるにしても結論づけることが出来ない。
 そうしたコメントを消すことは可能だけれど、もし書き込んだ人が善意の人で、全くの偶然でイジメ的ともとれる書き込みになってしまったのかもしれない。さらに言えばそのことを公然と指摘することがかえってイジメを拡散することになってしまうかもしれないし、自由な言論に対する妨害になるかもしれない。

 最近、リベラルや左翼的な立場を取る人たちの中の一部で、「レイシストになる自由も保証されるべきか」という議論が起きている。「ヘイトスピーチ」も言論の自由なのかという議論もある。
 おそらく右翼やレイシスト、権力的な人たちなら議論の余地もなく、自分の立場と違う発言は抹殺しても良いと判断するのだろうが、言論の自由、反対者の意見の尊重が重要だと考える立場の者にとっては、それは軽い問題でも簡単な問題でもない。

 もし何かアドバイスをいただける方がいたら、ぜひ御意見をいただきたい。


「知」の失墜と「アンネ」の受難

2014年03月01日 23時36分38秒 | Weblog
 東京と神奈川の図書館や書店で「アンネの日記」やナチスのユダヤ人虐殺関連書籍などが破られている問題。マスコミでもネットでも犯人捜しの名(迷)推理がかまびすしい。つまり結局は犯行の目的が誰にも分からないのである。
 先日の記事で、ぼくのブログに意図不明のコメントが付くことがあると書いたが、そのことと一脈通じるところがある。どう見ても明らかに政治的、もしくは思想的に何かを持っており、それを訴えているのに、それが何かが判然としない(もしかしたら病的な妄想かもしれないし、本人は明確な自覚を持っていないのかもしれないのだけれど)。そこが不気味といえば不気味である。

 この問題でひとつ良いと思うのは、犯人の目的が分からないが故に絶対的多数の人が世の中の良識を基準にしてものを言っていることだ。どの立場の人も「許せない」と言っている。どこまで真剣に心の底から言っているのかはわからないが、ともかくも思想、信条、言論、表現の自由は守られるべきだと皆が競って訴えているのだ。
 これは大変に良いことである。我々はこれらの人々の言葉をしっかりと長く記憶にとどめておかなくてはならない。今日、言論の自由を擁護した人がいつか別のことを言い出さないように。

 ただもちろんこの事件を喜ぶわけにはいかない。犯人が誰であれ、やはりこうした事件がある種の流れの中にあるということは考えておかねばならない。つまり図書館という機関に対する敬意、重要性の認識が薄れている風潮の中で、この事件が起こっているように見えるということだ。
 多くの人がこの事件に関連して思い出したのは、昨年の「はだしのゲン」排斥運動であった。本来あらゆる人にあらゆる情報を提供するべき図書館で、ある種の情報だけを排除するという考え方が生まれている、正確に言えば広がりつつあるということを、この事態が教えてくれた。
 もっと下世話な事件では、今日のニュースで東京のある図書館の書籍返却ボックスに繰り返しカレーライスを入れたとして61歳の男が逮捕されたことも報道された。

 この男の動機はよくわからないし、一概にどうと言えるわけではないが、本とか図書館というものに対する感覚が昔とはずいぶん変わってきている。それを象徴するのが図書館運営の民間委託であろう。
 こうしたことの原因には図書館に対する民衆のニーズの変化もある。多くの利用者が図書館にリクエストするのは最新のベストセラーだ。いわば図書館が無料の貸本屋になってしまっている。そういう機能を図書館に求めることを否定するわけではないが、しかしやはりそれは図書館の本質ではない。
 書籍、文献という形で人類の文化活動を丸ごと保存し、それを後の時代の人が自由に利用出来るようにし続けることが図書館の最大の目的であったはずだ。
 その根底には文化に対する敬意、尊重が存在する。かつて書物は特別なものだった。ただの商品でも消費財でもなかった。しかしメディアの多様化、とりわけテレビ放送とインターネットの普及はしだいに書籍の意味を変えてしまった。情報はワンポイントで検索できるものになり、それは自分の頭で格闘して獲得するものではなく、単純で分かりやすいものでなくてはならなくなった。本は知の源泉ではなく使い捨ての娯楽に偏重されるようになってしまった。

 ネット社会はあらゆることを「情報」というカテゴリーの中で等質化した。それは間違ってはいないし、哲学書でもマンガでも差別をせず同じように尊重されねばならないという思想は本来図書館の思想でもある。
 しかしそれがネットの利便性と結びつくと意味が変わってくる。便利で安価な情報は使い捨て、読み捨にされてよいものになり、その結果、情報は人類の歴史的成果としての「知」という地位から転落し、大変軽いものに成り下がった。
 今では「歴史認識」とか「非戦の思想」と言ったことが、長く重く貴重な人々の知の営為から簡単に切り離されて、多数決で気軽に変更できるものになってしまった。

 ただし「アンネの日記」を破った犯人は、むしろ勉強家であり、本をよく読む人物なのではないかという説もある。だからこそ、あえて本を傷つけることによって何かのアピールになると考えたのかもしれない。もちろん全ては犯人にしかわからないことだけれど、もしもそうであるなら、文化に対する冒涜として罪はより重い。
 だがなにより、図書館を知の解放区として尊重し守り抜くという思想を多くの人が失ってしまったら、そんな犯人の行為も実は虚しいことなのかもしれない、などと思うのである。