真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第十一回 哲学書が難しい原因(その四)

2017-05-25 12:18:38 | 哲学
前回、マイスター・エックハルトのことを紹介しましたが、彼が徹底的にバチカンから邪魔者扱いされたのは、彼がバチカンと土俵を同じくしなかったからでした。

つまり、バチカンにとっては、異教徒や無神論者の方が、マイスターに比べれば、まだ「まし」だったわけです。

違う神様を神と崇める異教徒。あるいは神を一切認めない無神論者。

バチカンからすれば、そういった連中は敵ですが、「神を自分とは異なる外部に措定する」という土俵は共通する。だから、異教徒であろうが、無神論者であろうが、そういう土俵を同じくする連中とは喧嘩ができるわけです。

土俵を同じくすれば、相手をその土俵の上で否定できます。異教徒は偽物の神を崇める連中だと非難すればいいわけですし、無神論者は自らの自我意識に自家中毒を起こしているニヒリストだと非難すればいいわけです。

ところがです。

「道端に咲く名もなき一輪の花を見るとき、それは神が私の目を通して見ているのだ。」

と言った場合、これは有神論でもなければ、無神論でもない。また、異教徒とも言えない。

ですから、もしローマ教会がこれを異端として禁じるなら、土俵自体を自前で作り上げて、それによって批判するしかない。

例えば、マイスターは神を自己と同一視しており、これは神に対する明らかな冒涜であるといったことです。あるいは、マイスターはイスラム神秘主義など数多くの東洋の神秘家を賞賛しているため、彼は異教徒の思想に染まっているのだと非難すればいいのです。

もちろん、そうやって架空の土俵を作ったところで、マイスターがその砂上の楼閣に乗るわけではありません。しかし、バチカンとしてはとにかくマイスターの言説を発禁処分にして、世間に広めないことが大事ですから、実物のマイスターが土俵に乗る必要もありません。

バチカンが架空のマイスター像を作り上げ、それを非難することで、彼の本をともかく発禁処分にできます。

そこまでして彼らは何を守っているのかというと、もちろんバチカンの権威を守っているとも言えますが、ある観念を守っているとも言えます。それはバチカンの誕生以前からある古い観念で、人間社会で常識化している観念です。

それが「神は自分の外部にある」という観念です。

上でも述べましたが、有神論者からすれば、外部にある神が有るわけですし、無神論者からすれば、その外部の神が無いわけです。

これはどの宗教であろうが、共通です。キリスト教徒からすればキリスト教の神が自己とは切り離された外部にあるわけですし、イスラム教徒からすれば外部にアッラーがある。仏教徒からすれば外部に仏様がいる。

一神教からすれば、一つの神が外部にいるわけです。多神教からすれば八百万(やおよろず)の神が外部にいる。ですから、一神教と多神教の対立とはいっても、それはやはり土俵を同じくするから対立できるのです。

社会常識は、この観念により成り立っています。ですから、宗教に入っていようがいなかろうが、人々の観念は共通している。

これに対して、マイスター・エックハルトのような真理の探求者は、そういう基盤を同じくしない。

この超越性が、彼の本が歴史に残る原因ですし、同時に難解として敬遠される原因です。

実際のところ、神とはそのような外部に有るものでもなければ、内部にあるものでもない。内に見ようと思えば外に流れ出で、外に見ようと思えば内へ遡行する。結局神とは、そういうメビウスの輪として在るものです。

その「メビウスの輪」に気づいたならば、何か特定の宗教に入る必要もなければ、無神論者になる必要もない。あらゆる宗教の教典の海を自在に泳ぎ、その波を生きればいい。

今日はイエスの横でゴルゴダの丘の砂の匂いをかぎ、明日は仏陀の横で菩提樹の下で鳴くコオロギの声を聞く。明後日は、ムハンマドの横で月に照らされた青い砂漠を馬で疾走する。それが宗教の海を自在に泳ぐことです。これは何かの宗教の信者になることでもなければ、無神論者になることでもない。あるいは宗教学者になることでもありません。

何か特定の宗教に入って熱心な信者になったからといって、「宗教を生きる」ことにはなりません。私の言う「宗教」とは、今ここで既に「やっている」ものです。

その意味では、「神とは何か」という問いに対して、私は以下の問答がすぐに思い浮かびます。これ以上に正確に答えているものはないのでないかと思うのです。それを引用して、今回は終わりにします。

以下引用

禾山は、「仏とは何か」と問われて言った、「わしは太鼓の打ち方を知っている。ドドン・ドン、ドドン・ドン!」

引用おわり
(「禅」 鈴木大拙 ちくま文庫 146頁)


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