真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

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第十二回 哲学書が難しい原因(その五)

2017-05-26 10:23:38 | 哲学
前回、神というものに対して我々が持っている社会的な通念について話しました。

それが、神を自己から切り離された外部に置くという観念です。
これは無神論者であろうが有神論者であろうが、自然に身につけています。

様々な宗教論争は、この観念を地盤にして行われます。この舞台の上で、神は在るのか無いのか、どの神が本物の神なのか、一神教か多神教か・・・
といった喧々諤々の議論が、今日もどこかで行われ、場合によっては戦争になるのです。

これは「宇宙」という言葉においても同様です。

社会常識では、宇宙というのは自分の外部にあるものとなっています。だから宇宙を探究する壮大な国家プロジェクトとして、莫大な予算を投入してスペースシャトルで宇宙空間に行くわけです。

これに対して、「宇宙とは、私が今ここでやっていることだ」と言ってしまえば、それは社会常識とは離脱した言葉となります。

結局、そもそもの「私」という言葉の意味自体が、二つあるわけです。社会常識で観念化している「私」。そして普遍的な哲学が指し示すところの「私」。

その二つで根本的に異なるわけです。

社会常識からすれば、何年何月何日にどこかの国で生まれ、学校に行き、就職して結婚し、定年になってからボランティア活動をして、何年何月何日に死にましたというのが「私」です。

つまり、宇宙という巨大な機械の中の小さな歯車の一つです。

他方、哲学はその「私」を否定するわけではありませんが、それのみでとどまりません。

哲学から見れば、そうした小さな歯車は、私という宇宙において動いているものです。

私という無限の場において、私という歯車や他人という歯車が動いている。私とはそういう宇宙大の観照なのです。それを仏教では三千大千世界と言いますが、それは仏様の掌(てのひら)の上に乗っているものです。

つまり、宇宙とは小さな私を取り囲む無限の空間であるという考え方は、一つの観念でしかありません。たとえそれが社会常識化していても、それが普遍性でないことは明らかです。

その社会常識を一度全てご破算にし、社会通念としての宇宙を突破した先に見える宇宙は、私の小さな掌に乗る無限の宇宙です。有限な掌の上に、無限の宇宙が乗っている。この絶対的な矛盾を今ここでやってしまっている。それが「私」なのです。

これを日本が誇る世界的な哲学者、西田幾多郎(1870-1945)は、絶対矛盾的自己同一と言ったわけです。

そういったことについて記述されたもの。つまり、そういうロゴス(論理、理法、言葉、精神)が哲学です。

ですから、哲学書が難しくて読めないのは、自分の頭がわるいからという説明はかなり違う。

頭がよかろうが悪かろうが、ほとんどの人は哲学書を社会通念をもとに解釈してしまいます。頭がいい人はいいなりに、悪い人は悪いなりに。

つまり、哲学書がすんなり読めない原因は、頭のよしあしよりも、まずは自分が当たり前だと思っているその社会通念の方にあります。それに引きずられている限り、社会通念を超越した言葉で書いてある本は、読み手の血肉とならない。

仮に解釈して読めても、それは自分の解釈を読んでいるわけであって、本を生(なま)で読んでいることにはならないのです。

このことについて、クリシュナムルティ(1895-1986)は下記のように言っております。
今日はその文を引用して終わりにします。

以下引用

本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。

心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。
あなたの本当の注意力が何かに向けられているとき、あなたは聞いているのです。

しかし残念なことに、たいてい私たちは抵抗というスクリーンを通して聞いているのです。

つまり私たちは、宗教的なあるいは精神的な偏見や、心理学的あるいは科学的先入観のほかに、日常の心配事、欲望、恐怖というようなスクリーンに遮られています。このようにいろいろなものをスクリーンにして、私たちは聞いているのです。

ということは、話されていることを聞いているのではなくて、実際は、自分自身の心の中でたてている騒音や雑音を聞いていることになります。

今まで受けてきた教育、偏見、性癖、抵抗などを捨て、言葉上の表現を超え、その奥底にあるものを即座に理解するように聞くことは、とても困難なことです。

これこそまさに、現在私たちが直面する困難な問題の一つなのです。

引用おわり
(「自我の終焉」 J.クリシュナムーティ 根木宏・山口圭三郎訳 篠崎書林 4頁)
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