真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第百七回 合理主義的な感覚(その二)

2017-08-29 13:15:56 | 思索
埴谷雄高(1909-1997)著作に、「不合理ゆえに吾信ず」というタイトルの本があります。

この「不合理ゆえに吾信ず」という言葉は有名なものとなっていますが、よくよく考えてみれば、「合理」という言葉は非常に不思議なものだと思います。

前回紹介した高橋先生は、目の前にある茶碗について、「茶碗が単純にここにあるのではなく、茶碗がここに存在しようとする意志を持って存在しているとしか思えない」と言っております。

あるいはミルクを飲んでおいしいと思う体験についても、「ミルクの存在の生命を自分の中で体験するからおいしいのです」と言っております。

こうした言葉は、見る人によっては、非合理的なものに見えるかもしれません。

確かに、「茶碗がここに存在しようとする意志」、あるいは「ミルクの存在の生命」、そういったものを科学的に証明しようとしても、難しいかもしれません。

もともと、ある意味、科学的な合理性は、迷信という非合理的なものと戦ってきた歴史があると言えます。

かつて、西洋では魔女狩りが散々行われ、じゃがいもを悪魔の根っこと見て長い間嫌ってきました。そうしたものは、明らかに迷信と言えます。

その意味で、合理的な思考というのは、不毛な迷信を信じ込まないためにも、大変重要なものです。学問の歴史は、その角度から見れば、合理性の発展の歴史とも言えます。

現代は、合理性が社会の隅々まで浸透しており、かつて猛威を振るっていた迷信は、合理的な思考によって克服されているとも言えます。

合理性は、物事を正しく見るための知性です。しかし、それが限りなく進行して、合理性がドグマになってしまうと、合理性の背後にある真理が見失われていくという逆説が生じます。物事を正しく見ようとした結果、物事が見えなくなるという逆説です。

この点について、小林秀雄は、1961年の講演で、ユング(1875-1961)のアフリカ民俗研究について、こう語っております。それを引用して、今日は終わります。

以下引用

ユング、フロイトの弟子ですがね。説は大変違うがそんなことはたいしたことじゃない。さっきも言ったように土人の研究を非常にした。こんな話をしている。娘が三人、川に水を汲みに行った。真ん中の娘が、わにに食われたというんですな。

土人は川の神様の祟りであると考える。文明人はなんて前論理的と軽蔑するであろうが。

もう少し、ものはよく考えなくてはいかん。誰にだってものを考える前提というものがある。現代人の前提は? 因果律である。現代の神聖なドグマですよ。ドグマの中にいる人はそのことを知らないだけ。しかし、ものはもっと公平に考えるべき。では土人のドグマはなんだ。

真ん中の娘が、わにに食われた。現代人の合理的な説明は偶然、事故。なら食われなかったことはどう説明する。これも偶然、事故。土人は村中がショックを受けているんですよ。そんな説明では土人は笑いますよ。土人は偶然を説明したいんだ。土人のほうが進んでいるね。

土人の説明は明快だ。土人は頭が悪いんじゃない。前提が違うだけである。土人だって因果律は知っていますよ。木から手を離せば崖から落っこちるということを知っている。わには臆病で人をあまり食わない。椿事ですよ。珍しいことが起こったんだ。

しかも真ん中の娘は王様の娘だったんだ。偶然を説明したいんだ。彼らにとって、一番論理的な説明は、わにが欲した。川の神様が命じたのだと。

土人も文明人も、精神の機能に違いはない。論理や倫理の機能も、道徳的にはよほど違いがあるかもしれないが、土人の間にだって、善人も悪人も勇者もいた。考えの前提が違うだけなんです。そりゃあ、毎日起こっているようなことは考えなくてもいいですよ。たった、一度起こった事件は尊重するんです。

…中略…

わにが食いたかった。川の神様が命じた。川には神様がいる。土人には明瞭なこと。僕らにとっていないことはそれほど明瞭か?

引用おわり
(小林秀雄講演第四巻 現代思想について CD版 二枚組 新潮社)


コメントを投稿