真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第二十二回 学者アラムハラドの見た着物(その三)

2017-06-05 13:27:45 | 思索
宮沢賢治の文章は、何回読んでも古くなりません。
読むたびにフレッシュで、いつも新しい何かを感じさせてくれます。

さて、二つ思い浮かべることがあると前回のブログで書きましたが、今日は二つ目です。

それは、苦しみの人生の中でも決して失われない喜びです。

アラムハラドが言うように、我々の人生は苦しみに満ちており、それは葱嶺(パミール)の氷や流沙(るさ)の火のようなものです。

そうした火や氷の人生を生きていく中で、我々は何度も光を見失います。

しかし、「求めよ、されば与えられん」という言葉があるように、我々があきらめずに強く求めるならば、必ずそれは与えられるのです。

お金ではありません。お金は求めても、おそらく、天から降ってきません。
人によっては降ってくるのかもしれませんが、少なくとも私は天にお祈りして宝くじが当選したことはないので、降ってくるとは言えません。

確実に降ってくるものは、やはり真理だと言えます。

孔子が、「我を知るもの、其れ天か」と言った通り、我を知るものは「我」ではなく、「天」だからです。それゆえ、真剣にアラムハラドの言う「まこと」を求める人には、天から「我」という真理が降りてくるのです。

求めて、与えられる。

この天と地との上下運動、垂直運動。
これこそが、重力によって地上の水平に縛りつけられた人間に与えられる、真の恩寵なのだと思います。

「喜び」というと、何かを獲得することを連想するかもしれません。
例えば、お金をゲットする。恋人を手に入れる。地位や名誉を獲得する。

確かにそれも喜びですが、そういった喜びはこの地上での水平的な喜びです。つまり、他人という重力によって成り立つ人間関係の喜びです。

苦あれば楽あり。楽あれば苦あり。それは地上の水平空間において、流れゆきながら保たれる諸行無常です。

それに対して、垂直的な喜びは、より根源的な喜びです。
絶対的な孤独を知る人間。自己と天との関係です。
それは「人間関係」というよりも、「人天関係」というべきものです。

孤独といっても、この孤独は完全に人間関係という重力を超絶しているものですから、まったく不幸ではありません。むしろ、あらゆる他人が自己という孤独の掌の上で生きていることを観照するのです。

セララバアドはこう言いました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

そのとき、アラムハラドは瞬間的に眼を閉じました。
閉じられた眼の暗闇の内で、アラムハラドは真理の光を見たのです。

暗闇の中で、真理の光は青く光り、黄金色(きんいろ)の木々はその体を震わせる。

真理を求めるアラムハラドの心に、天はセララバアドの口を通じて、言葉を伝えたのです。

人間の心の奥、誰にでもあるその光の種は、すなわち天からの恩寵です。葱嶺(パミール)の氷や、流沙(るさ)の火の中でも、我々は内なる光を失わずに、生きることができる。

ほんとうを考えずにはいられないという精神の働きは、鳥が梢に鳴き、空を飛ぶことを本能としているのと同じ、人間の本能であり、内に秘められた絶対的な喜びなのです。


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